2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(11)

沖縄の歴史(8):アメリカ世の沖縄(1)


 このように沖縄は戦前、戦中と日本国にある意味で尽くしてまいりました。その結果どうなったか。サンフランシスコ講和条約で日本が独立するのと引き換えに、沖縄は米軍の施政権下に一方的に差し出され、約27年にわたる苦難の道を歩まされることになったわけであります。

 その間、沖縄県民は日本国憲法の適用もなく、また、日本国民でもアメリカ国民でもありませんでした。インドネシア沖で沖縄の漁船が拿捕(だほ)されたときには沖縄・琉球を表す三角の旗を掲げたのですが、その旗は何の役にも立ちませんでした。

 また当時は治外法権のような状況であり、犯罪を犯した米兵がそのまま帰国するというようなことも起こっていました。日本では当たり前の人権や自治権を獲得するため、当時の人々は、米軍との間で自治権獲得闘争と呼ばれる血を流すような努力をしてきたのです。

 ベトナム戦争のときには、沖縄から毎日B52が爆撃のために飛び立ちました。その間、日本は自分の力で日本の平和を維持したかのごとく、高度経済成長を謳歌(おうか)していたのです。

「天皇メッセージ」

 前々回で指摘したように沖縄戦が終結したのは1945年9月7日のことである。その後、1972年5月15日まで27年にわたってアメリカ軍による沖縄軍政が続いたわけだが、実はそのアメリカ軍による沖縄占領の宣言はアメリカ軍が沖縄島中部に上陸した1945年4月1日に行なわれている。その日、沖縄侵攻軍の総司令官ミニッツ元帥が公布したミニッツ布告第一号である。その布告は「「日本帝国政府の総ての行政権の行使を停止」すると宣言している。その該当地域は北緯30度以南の南西諸島全域であった。それにともなって、一般住民や将兵たちに次のような措置が執り行われてた。

 地上戦にさらされた民間人は米軍の「保護」という強い信義のもとに「捕虜」収容所に隔離された。沖縄島で収容所に捕虜として保護された沖縄住民の数は4月末に11万人、5月末に14万人、6月末に28万人に倍増し、そしてさらに7月末には32万人にまで達した。生き遺った沖縄住民が〈米軍の「捕虜」となって収容所に「保護」された日〉がそれぞれの「終戦の日」となったのである。この後、沖縄はいわゆる日本(本土)の「戦後」とは異なる米国の「軍事植民地」として歩み始めることになる。

 沖縄島の住民が米軍に「避難民=捕虜」として保護されたのは米軍上陸地の中部地区が最も早く、次に北部、そして最後に南部であった。軍事作戦の障害にならないように知念(ちねん)、コザ、前原、石川、田井等(たいら)、瀬嵩(せだけ)、漢那(かんな)、宜野座(ぎのざ)、古知屋(こちや)、大浦崎、辺土名(へんとな)、平安座(へんざ)など12ヵ所に民間人「捕虜」のための収容所が設置され、日本軍を孤立させ、降伏させるために布告第二号の戦時刑法のもと基本的な自由が厳しく制限された。

建設中の軍事基地から離れた民間人収容所は沖縄住民が保護されてゆく一方、日本軍将兵や現地召集の軍人・軍属は捕虜となり、そのうち一部はハワイや米国本国に送られた。生殺与奪の権限を米軍に握られていた捕虜のなかには、民間の防衛隊員や健児隊の少年がいたことを心に留めておくべきである。約7000人が収容された金武村屋嘉(やか)の捕虜収容所が一番大きく、ほかに奥武山(おうのやま)、牧港(まきみなと)、読谷(よみたん)にも有刺鉄線か張り巡らされた捕虜収容所が設置された。

 中部戦線が激化していた5月頃にはすでに、民間人収容所のなかに学校・病院・孤児院・養老院が開設され、戦後の「アメリカ世」がすでに始まっていた。食糧や生活物資がつねに不足しがちであったため、禁止されていたものの、民間人「捕虜」は食料の調達や生き別れた肉親を捜しに収容所の外を出歩いた。また、飛行場や道路の建設、港湾での荷楊げ作業など多岐にわたって軍作業(後、米軍基地労働)に携わって無償配袷を受ける一方、軍用物資の山から生活用品を盗んでくる「戦果」が危険を冒して行なわれた。

 民間人収容所に保護された人たちがかつての居住地への帰還を許されるようになったのは1945年10月末頃からであった。

 次に、沖縄住民による自治がどうなっていったか、追ってみよう

1945年8月15日
 各地区の民間人収容所から124人の住民代表が石川収容所に集められ、アメリカ軍政府と沖縄住民の意思疎通を計る諮問機関として「沖縄諮詢(しじゅん)会」が設置された。住民自治機関の設立を準備するための機関であり、諮詢会は全琉球を統合した「琉球共和国建設」の理想を描いて住民自治の議論を重ねた。

1946年4月25日
 アメリカ軍政府の実権が海軍から陸軍へと移管される。それとともに沖縄諮詢会委員長であった志喜屋隆信が知事に任命されて沖縄民政府が設立された。また、奄美・宮古・八重山の各群島でも知事が任命されて民政府が設立された。

 一方、「日本が独立するのと引き換えに、沖縄は米軍の施政権下に一方的に差し出され」た経緯は次のようである。

1946年1月
 GHQのマッカーサー元帥は覚書で、
「奄美諸島を含む北緯30度以南の南西諸島を正式に日本から分離する」ことを宣言している。

1946年6月末
 マッカーサー元帥が次のような趣旨の発言をしている。
「沖縄を<軍事植民地化>することが、<非軍事化=民主化>する日本の防衛に役立つ。」

1946年7月
 沖縄の軍政はGHQに移管される。

1947年6月末
 マッカーサーがアメリカ新聞報道記者に次のような見解を述べている。
「琉球はわれわれの自然の国境である。沖縄人が日本人でない以上米国の沖縄占領に対して日本人が反対しているようなことはないようだ。」

1947年9月
 いわゆる「天皇メッセージ」がGHQに伝えられる。

 「天皇メッセージ」について、奥田さんは次のように解説している。

 47年9月、ウィリアム・シーボルトGHQ政治顧問は「沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えるため」と言って訪問してきた宮内庁御川掛の寺崎との会話記録として、次のような報告書を作成した。

 天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によるとその占領は、アメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる。
[中略]
 天皇がさらに思うに、アメリカによる沖繩(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の ―25年から50年ないしそれ以上の― 貸与をするという擬制の上になされるべきである。天皇によればこの占領方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させることになるだろうし、それによって他の諸国、特にソヴィエト・ロシアと中国が同様の権利を要求するのを差止めることになるだろう。

 米国が「沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している」という「天皇メッセージ」には、"self-interst"(私益)に基づくものという注釈が付け加えられている。

 沖縄の長期軍事占領を勧めるこの「天皇メッセージ」は、1947年8月、米国国務省長官マーシャルから、国務省が作成した対日平和条約草案を抜本的に変更する勧告を作成中であったジョージ・ケナン国務省政策企画室長に伝えられた。ケナンは、翌48年3月に作成した東京・沖縄・フィリピン訪問の報告書「アメリカの対日政策に関する勧告」のなかで、戦略的な利点だけでなく"政治的"にも沖縄が軍事基地に適していることを強調することになる。また、現時点で沖縄の米軍基地を恒久的に維持するために「天皇メッセージ」を戦略的信託統治の代案として検討するように勧告した。なぜなら、国連憲章で定義された(戦略的)信託統治制度は国連安保理事会においてソ連によって反対されることが明白であり、ソ連を排除した片面講話論を構想しつづけるかぎり現実の選択肢としては疑問視されていたからである。

 米国による沖縄占領統治を正当化する「天皇メッセージ」は、敗戦とそれにつづく間接保障占領(支配下に置いた現地政権を介してなされる間接統治)によって既得権益を喪失しつつあった日本の宮廷勢力が、GHQとの協調を通して復権を図ろうとした試みと考えられる。なぜなら、(日本)本土では、対日講和条約の発効までの間、GHQが発令する「ポツダム命令」(ポツダム緊急勅令(1945年9月20日に公布、即日施行された『ポツダム宣言』ノ受諾二伴ヒ発スル命令二関スル件」(昭和20年勅令第542号)の通称)に基づいて発せられた一群の命令の総称)を日本政府が実行する間接統治という占領行政が敷かれていたからである。そこには、2ヶ月前の1946年6月末に沖縄を<軍事植民地化>することが<非軍事化=民主化>する日本の防衛に役立つと発言したマッカーサー元帥の意向に迎合する趣旨もまた読み取ることができる。

 大日本帝国の「捨て石」にされた琉球/沖縄は、ふたたび〈祖国=日本〉から「分割された領土」として、切り捨てられるのである。社会学者の太田昌秀は、「本土政府と国民は、対日平和条約において、沖縄96万県民の意思を問うこともなく、本土自体の独立をあがなう代償として、沖縄県のみをその住民もろとも異国に売り渡し」たことを指摘し、「沖縄問題」とは「(日本)本土問題」の読み換えに過ぎないことを示唆している。

(追記)
 ネットで次の記事に出会った。
『琉球処分と天皇の沖縄メッセージ』
 『さらば日米同盟』の著者・天木直人さんによる記事だった。天木さんは『琉球処分とは「沖縄県民の意向を無視して日本政府の都合で沖縄の命運が決められた」というような意味で使われていいと私は思っている。』と述べている。同感である。沖縄の<軍事植民地化>はまさしく日米合作による第2の琉球処分である。

 私がこのシリーズ《沖縄に学ぶ》を始めた動機は、「国土面積のわずか0.6%しかない沖縄県に、73.8%もの米軍専用施設」があるうえ更に、貴重な動植物が生息する美しい辺野古の海を埋め立てて新しく膨大な基地を造るという暴挙を、機動隊の暴力を使ってまで押し通そうとしている「アベコベ軽薄姑息うそつき」政権への怒りであった。従って、天木さんの記事の最後に書かれている次の怒りにも同意する。

 昭和天皇による沖縄メッセージ。これこそが琉球処分である。今日の沖縄問題の原点がここにある。あなたは昭和天皇の「沖縄メッセージ」を知っていましたか。

 もし我々日本国民の一人一人がこの歴史的なメッセージの事を正しく認識しているなら、沖縄県民が日本政府と日本国民にどのような要求を行なおうとも、それは許される事だと知るだろう。
 日本政府と日本国民は沖縄県民に対し、いかなる償いをしても償いきれない事を知るに違いない。

 それにもかかわらず、沖縄県民の意思よりも米国政府の要求に応えることを優先する政府。
 よりによって沖縄慰霊の日の挨拶で沖縄県民に米国と一緒になって更なる負担を求めて感謝する政府。
 そのような政府、政権とそれを演出する政治家と官僚たちには、いかなる意味においても正統性はない。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/2039-4732b75f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック