2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(10)

沖縄の歴史(7):琉球処分から沖縄戦まで(4)

(今回から、奥田博子著『沖縄の記憶 <支配>と<抵抗>の歴史』を主要参考書とします。引用文は全てこの著書からのものです。)

 沖縄戦で沖縄の住民が受けた多大な被害はアメリカとの戦闘によるものだけではなかった。前回の最後の引用文にあった「同胞であるはずの住民に対す」る日本軍の蛮行の数々を記憶に止めておきたいと思った。奥田さんによる詳しい論述を紹介しておこう。

<住民殺害・虐殺>
 戦況が悪化してくると、守備軍は地元住民を敵襲から防衛するよりむしろ、諜報活動の対象とするようになった。つまり、住民の保護安全を図るよりむしろ「共生共死」を確実に実現させるため住民のなかに親米的人物を発見する、対米協力容疑者の行動を監視する、反軍・反官的な分子を調査する、反戦・厭戦気運を醸成する者を調査するといった行為が増えていった。このような守備軍の沖縄住民に対する対応は、直接的かつ間接的に民間人の犠牲を増大させたと言われる。

 沖縄県当局によって推進されてきた県民の〈日本化=皇民化〉が1934年の時点までにほぼ達成されたにもかかわらず、(帝国)本土では、沖縄が大日本帝国の「版図(領土)になってまだ日が浅いことが折に触れて強調された。とりわけ、沖縄県民には尚武の気性がなく、忠君愛国の念も乏しいという指摘がよくなされた。このように異質なものを排除しようとする発想や姿勢は、守備軍将兵の地元住民に対する不信感を高めるだけでなく、沖縄戦において住民を敵軍と守備軍および住民自体を監視する住民代表によって挟撃される状況に陥れることになる。

 沖縄戦における「友軍」であるはずの守備軍による住民殺害や虐殺をたんなる個々の加害者の人間性や言動に帰すのではなく、軍隊そのものに内在する本質的な問題として捉える必要がある。また、こうした問題に対する大本営の対応のあり方についても、沖縄戦の全体的な文脈との関連で考えなければならないであろう。


<スパイ容疑>
 米軍が慶良間列島に上陸して以降、地元住民にスパイを働く者がいるといった噂がまことしやかに守備軍将兵のあいだに流れるようになった。戦況が悪化すればするほど、スパイ行為を裏づけるようなものを何一つ示すことなく、守備軍が住民にスパイの嫌疑をかける言動が目立つようになってゆく。このように守備軍の住民に対する猜疑心が極端に強かったことは、実際、「友軍」であるはずの守備軍によってスパイ容疑で殺害される事件が頻発したことからも明らかである。

 守備軍首脳は民間人である沖縄住民が米軍の管理下に置かれる事態を想定し、容認していたが、こうした意向は将兵には伝わっていなかったようである。そのため、住民が米軍に投降したというだけでスパイ行為を働いたとみなして処刑した将兵が少なからずいた。また、このような住民の殺害事件に地元出身の兵士が関与している事例もあった。数十件に及ぶと言われる守備軍将兵による住民殺害や虐殺のなかには、1945年8月15日に「玉音放送」が流された後にスパイの嫌疑をかけられて殺害された事例も少なくなかった。

 戦争という極限状況下とはいえ、守備軍が地元住民にスパイの嫌疑をかけたのは、一つには、敗戦の混乱のさなかに住民の行動を誤解した側面があったことは否めない。また、米軍が沖縄島に上陸した9日後の1945年4月10日、沖縄守備軍司令部の軍会報は[爾今軍人軍属ヲ問ワス標準語以外ノ使用ヲ禁ズ 沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トシテ処罰ス」と報じた。その後、翌5月5日になると「爾今」という二字を削除した全文が長勇(ちょういさむ)参謀長名で公布された。この規定の根拠は不明であるが、守備軍の沖縄住民に対する不信感がいかに高かったかを窺うことができる。


<避難壕追い出し・幼児殺害>
 守備軍将兵は、スパイ容疑で住民を殺害しただけでなく、自らの安全確保のために住民を壕から追い出したり、幼児が泣けば敵軍に所在が露見すると殺害させたり、食糧を奪ったりした。このような個々人の部分的な沖縄戦の体験を大局から捉えなおしてみると、戦場における民間人の動向を概観することができるかもしれない。

 1950年の厚生省(現、厚生労働省)調査によれば(調査時点が比較的早いため実数ははるかに上回ると思われるが)、沖縄における陸軍関係の戦闘協力者4万8499人の戦没者を年齢別にみると、75歳以上が383人、14歳以上74歳以下が3万6633人、14歳未満が1万1483人となる。14歳未満の戦没者の内訳は、5歳から12歳にかけてが600人から800人台となっているのに対して(13歳が1074人、12歳が757人、11歳が696人、10歳が715人、9歳が697人、8歳が748人、7歳が767人、6歳が733人、そして5歳が846人)、2歳から4歳にかけては1000人を超えている(4歳1009人、3歳が1027人、そして2歳が1244人)。ここで、14歳未満の戦没者数が全戦没者数に占める割合がほぼ4分の1、4歳以下の戦没者数がほぼ10分の1であることは注目に値する。さらに、この調査による死因の内訳を見ると、14歳未満の戦没者の9割近く(1万101人)が守備軍将兵によって壕を追い出されて亡くなっていることがわかる。

 1979年12月4日、沖縄戦当時に6歳未満たった戦傷者が「沖縄県戦災障害者の会(6歳末満)」という会を発足させた。53年、地上戦の行なわれた沖縄に日本の「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(通称、援護法)を適用するにあたって、その適用範囲が6歳以上と規定された。戦争当時、6歳以下であった戦傷者は「戦闘能力はない」うえに「政府との雇用関係がなかった」という理由で援護法の適用 から除外されたのである。しかし、81年8月17日、日本政府はこれまで除外してきた6歳未満の戦傷病者および戦没者遺族に対して戦闘(協力)能力を持ちえたと認定し、援護法の適用を認める見解を発表した。


<食糧難と「戦争マラリア」>
 全島規模で地上戦に巻き込まれてゆく沖縄島では、米軍上陸後、住民は日本軍の作戦による退去命令を受けて「共死」へと追い込まれた。1945年2月、沖縄守備軍と沖縄県当局は沖縄島中南部から北部ヘ10万人の立退き移動を決定した。その対象は、"戦闘の邪魔になる"老幼婦女子に限られ、実際に移動したのは約3万人程度と見られる。米軍が上陸すると、山中に避難していた住民はさらなる食糧難にさらされながら、飢餓とマラリアに苦しめられることになる。  食糧確保のために悪性マラリア発生地の西表(いりおもて)島南風見田(はえみだ)への退去命令を受けた波照間島の住民のなかに被弾死者は1人もいなかったが、住民の4人に1人が「戦争マラリア」で亡くなっている。非衛生的な生活環境、食糧難と栄養不良状態のなかでマラリアに罹患して死亡者が続出するなか、波照間国民学校校長の識名信升(しきなしんしょう)がその惨状を八重山旅団長に直訴したことで住民の帰島が許されることになった。引揚の際に識名が痛苦の思いを込めて砂岩に刻んだ「忘勿石(わするないし) ハテルマ シキナ」の文字は1992年8月に碑とされ、西表島南風見田の浜に遺されている。  地上戦がなかった八重山諸島でも、1945年6月1日、住民は軍令によってマラリア汚染地区へ強制退去させられた。その結果、「戦争マラリア」による住民の死者は空からの爆撃による日本車の死者の6倍に及んだ。沖縄島においても、波照間諸島や八重山諸島と同様、中南部から北部への疎問を強制された住民のなかには「戦争マラリア」による大きな被害が生じた。

 沖縄戦では日本軍に徴用された多くの朝鮮の人たちの悲劇があったことも忘れてはなるまい。

<朝鮮人「軍夫」「慰安婦」>
 摩文仁の平和祈念公園の一角に佇む「韓国人慰霊塔」には、「この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された1萬余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった」という碑文が刻まれている。沖縄戦に動員され、飛行場や陣地の建設、戦場での弾薬運搬といった危険な作業に従事させられた朝鮮人軍夫と「後方施設」と称された日本軍直属の性奴隷施設に強制連行された朝鮮半島出身の女性たちの沖縄戦の実相は、今なお見えにくいものとなっている。

 守備軍の厳しい管理のもとを逃げ出そうとしたり、反抗したりする者は殺され、ときにはスパイ容疑や食糧統制違反などを口実に見せしめのために銃殺ないし斬殺された。とりわけ、守備軍が崩壊してゆく過程において朝鮮人虐殺が多発した。敗戦後、与那城村屋慶名(となぐすそんやけな)に設けられた朝鮮人専用の「捕虜」収容所に収容された者もいたが、復員状況ははっきりせず、その多くが帰還不明として処理されたと言われる。

 沖縄戦には、軍夫は2万人前後、慰安婦は1000人以上いたと推測される。彼らはどのように連れてこられたのか、また、生きて帰ることができたのかはまったくわかっていない。また、日本軍将兵として沖縄に駐屯した朝鮮半島出身兵の存在についてもほとんど記録が残っていない。2008年の時点では、沖縄戦の全戦没者の名前を刻む「平和の礎」に刻銘された朝鮮半島出身者は433人(うち朝鮮民主主義人民共和国(以後、北朝鮮)82人、韓国351人)である。また、宜野湾市の嘉数高台公園に1971年3月に建てられた慰霊塔「青丘(せいきゅう)之塔」に沖縄戦で犠牲になった「軍夫」386人と「慰安婦」30人が弔われている。

 次に集団自決が取り上げられている。集団自決は沖縄だけに起こった悲劇ではなく、地上戦が戦われて日本軍が敗走したほとんど全ての地域で起こっている。それはサイパン島での地上戦をもって嚆矢とする。

<「集団自決」の連鎖>
 1942年12月31日に催された御前会議において、ガダルカナル島に上陸していた帝国陸軍の撤退が決定された。この決定からほぼ1ヵ月が過ぎた翌43年2月1日から7日にかけて撤退が始まったものの、実際に撤退できた兵士は総兵力数3万人強のうちの1万人強であった。2万人以上の死者と行方不明者のうち、戦死者は5000人ほど、残りのほとんどは餓死したと推定される。このガダルカナル島からの撤退理由を「其の目的[米軍に占領された飛行場や基地などの奪還]を達成せるに依り」と発表した大本営はさらに、「撤退」を「転進」と言い換えた。当時、これを耳にした人びとは3分の2の兵士が死に、そのうちの4分の3が餓死したとは想像もしなかったであろう。大本営発表は、この後、戦局が劣勢になるにつれて「全滅」を「玉砕」、「避難」を「疎開」と言い換えることで戦争被害を矮小化してゆくことになる。

 「集団自決」という表現自体も問題を内包している。この言葉を慶良間諸島の強制集団死に言及する際に最初に用いた刊行物は、沖縄タイムス社の編集した『鉄の暴風 現地人による沖縄戦記』である。「自決」という字句本来の意味は、責任をとって軍人が自殺するということである。そのため、戦闘中に赤子をはじめ老若男女の民間人が"自決"することはありえない。日本軍による軍事的な"他殺"にほかならないのである。

 この「集団自決」は、大日本帝国の「版図(領土)において敗戦/終戦間際に地上戦が起こった場所特有の現象である。沖縄戦を捉えなおすにあたって、民間人である「帝国臣民」の「集団自決」がサイパン、グアム、テニアン、沖縄、そして満州国において連鎖的に起こったことを想い起こす必要があるであろう。劇作家の井上ひさしは、戦争責任の問題を主題とした『闇に咲く花』のなかで、「起こったことを忘れてはいけない。忘れたふりは、なおいけない」と述べているが、戦後、日本政府が「集団自決」について実態調査や事実検証を行なったことは一度もない。このように、地上戦に巻き込まれた民間人の雑駁な数字は、戦前も戦後も帝都ないし首都東京から辺境を眺める視線に変わりがないことを明らかにする。

 大日本帝国が国際連盟から委任を受けて統治していた1920年から45年にかけて「南洋群島」と呼ばれたミクロネシアの北マリアナ諸島のサイパン島は、「集団自決」端緒の島である。サイパン島での地上戦は、大日本帝国の委任統治領であったことを考慮すれば、その「版図(領土)における「最初の地上戦」であったと言える。実際、南洋群島は大日本帝国の北の絶対国防圏である満州国に譬えて南の絶対国防圏と位置づけられていた。沖縄戦に10ヵ月先立つサイパン島の地上戦のなかで起きた「集団自決」は、戦場での「軍官民共生共死」の情況や心理的に孤立無援の絶望感に追い込まれたためと考えられる。

 土地も狭く、資源も乏しいといった社会・経済上の条件から、琉球/沖縄は戦前戦後を通して全国でも有数の移民県として知られる。国家的に進められた南進政策に呼応するよりもはるか以前から、南洋群島には多くの移民を送り込んでいた。なかでも、「玉砕の島」として知られるサイパン島には多くの琉球/沖縄出身者が移住していた。そのため、アジア・太平洋戦争における沖縄県民の被害は沖縄戦の悲劇に尽きるものではない。

 歴史的には、日本海軍が豊島(ほうとう)沖で清国軍艦を攻撃して開戦の運びとなる日清戦争(1894―95年)の7年前、1882(明治15)年1月4日、明治天皇が大山巌陸軍卿に下賜した『陸海軍軍人に賜はりたる勅諭(軍人勅諭)』に掲げられた軍人の守るべき徳目としての「忠節」、「礼儀」、「武勇」、「信義」、「質素」という五ヵ条の「忠節」に「死は鴻毛[きわめて軽いものの譬え]よりも軽し」と記されていることと、1941年に陸相東条英機の名で戦場での道義および戦意を高めるために全陸軍に示達された『戦陣訓』に「生きて虜囚の辱しめを受けず」と記されていることが「集団自決」の引き金になったと言われる。「自爆」や「自決」という名の、"自死"は、60年余りをかけて「強制の内発化」ないし「強いられた自発性」として内面化されていったのである。このように国家に対して死をいとわぬ「従容(ないし従順)」の内面化には、後に「集団自決」の責任の所在や問題を曖昧化してしまう陥穿が内在していた。

 「集団自決」の動機をたんなる食糧不足とする見方にも、「崇高な犠牲的精神」の発露とする見方にも問題がある。そのことを理解するためには、沖縄戦の渦中で多くの地域において「集団自決」が見られたという実情とともに個々の地域社会や共同体の特質を併せて反芻する必要があるであろう。

 最後にまとめとして、奥田さんは集団自決を支えた要因について論考している。

<住民殺害・虐殺の論理>
 沖縄戦が他の戦闘と異なる三つの特徴として、まず、日本「固有の領土」における「最初の地上戦」であったこと、次に住民が直に戦闘に参加したこと、そして最後に特攻を中心とする大規模な航空総攻撃が敢行されたことが挙げられる。これらを条件づけたのは、沖縄住民が戦場の周縁でなくその中心にいた実情に因るところが大きい。また、対馬丸事件によって700人余の学童が溺死した1944年8月22日以来、船の不足もあって老幼婦女子の県外疎開がほぼ途絶したことも民間人である沖縄住民の犠牲を拡大させたと推測することができる。さらに、(「集団自決」のあった)渡嘉敷島で当時陸軍少尉であった元特攻隊中隊長が「沖縄戦は明治以来、外地ばかりで戦争してきた日本軍が、はじめて経験した国土戦」であったため、「外地の戦場でやってきた慣習をそのまま国土戦に持ちこみ、沖縄戦の悲劇がおこった」と回想していることを心に留めておく必要がある。

 また、沖縄戦の特質を示す資料としてよく言及される、1945年4月20日に大本営陸軍部が発行した『国土決戦教令』「第二章 将兵ノ覚悟及戦闘守則」の第一四条には、次のように書かれている。
「敵ハ住民、婦女、老幼ヲ先頭二立テテ前進シ 我が戦意ノ消磨ヲ計ルコトアルベシ 斯カル場合我ガ同胞ハ 己が生命ノ長キヲ希ハンヨリハ 皇国ノ戦捷ヲ祈念シアルヲ信ジ 敵兵殲滅二躊躇スベカラズ」。
 これは、「戦闘守則」として、天皇制を護る「国体護持」の戦闘において老幼婦女子、一般住民の生命が犠牲になることをためらってはいけないという軍命である。ここに、日本軍による住民殺害および虐殺が大本営の実質的な基本方針であったことを指摘できるであろう。

 沖縄戦における地元住民の死はさまざまなかたちをとるため、その全容を把握することはきわめて難しい。しかし、なぜこのような事態が起こったのか。たとえば、「集団自決」をめぐってはいまだに軍の命令の有無に議論が集約される傾向が強い。命令の有無自体は、戦場における絶望的な情況から、それほど重要な要因ではない。むしろ、戦場での情況によっては住民が「命令された」と受け取るような条件の有無こそが問われるべきである。

 沖縄戦の悲劇は住民の集団的な狂気、守備軍の宣伝、軍国主義教育、個々の地域の守備部隊の隊長命令、村長や巡査ないし地元防衛隊員の責任、沖縄特有の共同体のあり方といった要因に帰されることが多い。しかし、そのいずれも部分的な要因でしかない。つまり、その全容を解き明かす鍵となるものではない。守備軍将兵と地元住民が共有した「生死を共にするという心で固く結ばれ、その生死の程は間近に迫った現実」こそが最大の要因であったように見受けられる。結果として、社会的弱小者である老幼婦女子を含めた民間人の多くが「集団自決」で亡くなった事実を見逃してはならない。

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