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《沖縄に学ぶ》(9)

沖縄の歴史(6):琉球処分から沖縄戦まで(3)

<沖縄戦>

 仲村さんは第21章「琉球処分後の沖縄」の冒頭で『時代の流れ』という沖縄の民謡を紹介している。

 琉球民謡界の草分け的存在で、「風狂の唄者」と呼ばれた嘉手苅林昌(かでかる りんしょう 1920~1999)の代表作品に『時代の流れ』という唄がある。

唐(とう)ぬ世から 大和ぬ世
大和ぬ世から アメリカ世
ひるまさ変わたる くぬ沖縄

 この島の時代の変遷、すなわち「世替わり」を歌い上げたもので、「世」は「時代」を意味し、厳密にいえば「支配された時代」を意味する。大意は、
「中国の時代(冊封時代)から、大和(日本支配)の時代 大和の時代からアメリカ(米軍統治)時代 よくよく替わるものだよ、この沖縄は」
となろうか。短い歌詞ながら、大国に翻弄され続けた琉球・沖縄の歴史を確かな時代認識でとらえた唄といっていい。

 そして、この章を次のように結んでいる。
『 薩摩の侵攻に始まって、この琉球処分、そして沖縄戦といい、王朝時代からこの島はつねに戦争によって世替わりを重ねてきた。そして、そのすべての時代が難産の末に生まれた過酷な「世」であった。このことも後世、けっして忘れてならない「もうひとつの史実」ではないかと思えるのだが……』

 さて、沖縄戦→アメリカ世は想像を絶する過酷な時代だった。仲村さんは沖縄戦を簡潔にまとめているが、必要に応じて前回用いた『沖縄の記憶 <支配>と<抵抗>の歴史』から補足文を加えることにする。『沖縄の記憶』からの補足引用文には冒頭に(「沖縄の記憶」から)と付記する。

 1944年10月10日の那覇大空襲で沖縄が戦場になることが確実視されると集団疎開が始まったが、それでもなおかなりの住民が取り残された。このことが悲劇を生む直接的な原因となった。

 たぶん2年ほど前、それまであまり知られていなかった対馬丸事件をマスコミが取り上げていたのを思い出した。那覇大空襲以前にも政府命令による学童疎開があったが、そのときアメリカ軍の攻撃を受けて悲惨な事件が起きた。対馬丸事件である。次のような事件である。
(「沖縄の記憶」から)
 沖縄守備軍の対住民施策は、県内外への疎開を勧める以外に民間人の安全対策を講じることはなかった。「軍官民共生共死」の概念を鼓吹するばかりで、戦場に不要な老幼婦女子はどこに行けばよいのか、避難先での安全、良糧の人手、あるいは生活の保障をどうするのか、といった点について具体的な指示が与えられることは一切なかったのである。沖縄戦が始まると、戦場において民間人である住民は「共生共死」の対象とはなっても「安全保全」の対象とはならないことが徐々に明らかになる。しかしまだ、1944年の時点では、そこまで戦局を深刻に捉える者はほとんどいなかった。

 同年6月29日の富山丸事件(管理人注:沖縄への増援部隊を輸送中に撃沈された)から2ヵ月後、沖縄から(帝国)本土へ向かう第二陣の学童疎開船が撃沈された。8月21日午前6時35分、軍用船の対馬丸(6754トン)は集団疎開児童825人と一般疎開者836人を乗せ、僚船の和浦丸や暁空丸とともに那覇港を出港した。翌21日午後10時12分、対馬丸は鹿児島の南西260キロ、悪関島(あくせきじま)の北西方約11キロの海上で米潜水艦ボーフィン号に撃沈された。その結果、1661人の疎開者のうち1373人が不慮の死を遂げ、生存者は疎開児童が59人と一般疎開者が118人の計177人であった。この事件は、戦時下において、戦意喪失につながる心配があると極秘扱いにされた。

 極秘とはいえ、多数の老幼婦女子を乗せた疎開船対馬丸の沈没は沖縄近海の守備が十分ではないことを象徴する事件であった。それはまた、県外への疎開の実施が遅きに失したことの例証ともなった。実際、疎開を許可された老幼婦女子のなかには海上の危険に脅えて尻込みした者も多くいた。結果として、翌1945年3月上旬までに沖縄諸島から九州地方へ約6万人、宮古・八車山諸島から台湾へ約2万人、計8万人程度の老人・女性・子どもが疎開した。

 那覇大空襲での被害状況は次のようである。
(「沖縄の記憶」から)
 対馬丸事件から1ヵ月半後の1944年10月10日、沖縄最大の都市である那覇市は早朝から午後4時頃までの9時間余にわたって南大東島沖合の米第58機動部隊空母エンタープライズを中心とする艦載機グラマンなど199機による猛烈な空襲を受けた。5次にわたる米軍機動部隊の来襲によって、那覇市の約90%が灰燼に帰す甚大な損害を受けた。

 第1次は、午前6時50分から7時5分にかけて南西諸島にあるすべての飛行場の滑走路が爆撃を受けた。つづく第2次は、飛行場だけでなく那覇港の船舶などが攻撃された。第3次は、飛行場が攻撃されるとともに主に那覇、渡久地(とぐち)、名護、運天港、与那原(よなばる)、泡瀬(あわせ)などの各港湾が爆撃を受けた。船舶のほか、とくに埠頭施設や貯油タンクなどが攻撃目標にされた。第4次の攻撃目標は那覇市内に絞られ、銃爆撃とともに多数の焼夷弾が投下されて市街地に火炎が起きた。第5次の攻撃も那覇市内に集中し、繰り返し風上に焼夷弾が投下されて無差別の銃爆撃を受けた。一方、米艦載機は8回にわたって慶良間列島を襲撃し、港の漁船などを爆破した。同じく伊江島飛行場も連続的に攻撃して飛行場の付属施設や兵舎などを爆撃した。

 この10・10空襲による軍官民の人的かつ物的損害はあまりにも大きかった。陸海軍の死者は338人、負傷は313人、民間人の死者330人(うち那覇市255人)、負傷者445人(うち那覇市358人、家屋の全壊・全焼は約1万1500戸、航空・船舶基地に加えて琉球王国時代の貴重な文化遺産も大きな損害を受けた。それ以上に大きな打撃となったのは、食糧の損失であった。この空襲で軍主食の米・麦約3800トン、副食約156トン、調味品約187トン、その他約166トンに加え、県民1ヵ月分の食糧約30万トンを焼失したのである。

 日本政府は、10・10空襲後、スペイン大使館を介して、米国政府に対し、人口約7万人の那覇市に無差別爆撃を行ったことは国際法に対する重大な違反であると厳重な抗議を行なっている。日本政府が求めた釈明に対して、ステティニアス米国務長官はスペイン大使館から抗議文を受け取った旨を伝えるだけにとどめ、それ以上の発言はしないことで事件を完全に黙殺した。

 こうした無差別爆撃はその後日本本土各地で行なわれ、ついには広島・長崎への原爆投下となった。そして、アメリカはその後もベトナム・アフガニスタン・イラクへ、さらに現在の中東紛争へと、無差別爆撃を続けている。アメリカは世界一のならず者国家である。そもそも一般市民への無差別爆撃がなくとも戦争そのものが人類を滅亡に追い込みかねない最悪の愚行なのだが…。

 仲村さんの記述に戻ろう。沖縄戦における日本守備軍の対応とその結末は次のようであった。

 日本軍は牛島満(1887~1945)中将が率いる第32軍が守備にあたり、首里城の地下壕内に司令部が設置された。その陣容は陸軍8万6千人、海軍1万人、沖縄現地から動員された学徒隊・防衛隊2万人の計11万6千人である。対する米軍は船舶1500隻と、日本軍を上回る18万人の兵力を上陸させている。

 1945年4月1日、米軍は日本軍の飛行場があった沖縄本島中部西海岸の読谷、嘉手納、北谷に上陸した。本土決戦の時間稼ぎをするために、日本軍は水際での戦闘を避け、米軍を無血上陸させて持久戦にもちこんだのである。

 が、圧倒的な物量でもって進撃する米軍をとどめることはできなかった。米軍は上陸した翌日には東海岸に達して南北を分断し、4月20日には北部を占領している。一方の中南部戦線では日本軍が総力で反攻に転じたが、結局は8割以上の主力部隊を中部で失い、第32軍は5月22日に首里城地下の司令部を放棄して南部に撤退することを決断した。

 このとき南部地域は日本軍に加えて、軍をたよって南下してきた住民、もともとの避難民をあわせて10数万人が混在する状態に陥っている。そこに米軍が大挙迫ってきたのである。住民は妄動するほかなく、各地で「鉄の暴風」とよばれた地獄絵さながらの阿鼻叫喚の事態が現出した。

 牛島司令官が自決したのは6月23日(22日ともいわれる)である。これによって日本軍の組織的な抵抗は終わったが、牛島司令官が「最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし」との軍命令を出していたため、戦闘はその後も散発的に続いた。

 このことはあまり知られていないが、米軍が沖縄戦の終了を宣言したのは翌7月2日で、日本軍残存部隊が降伏に調印したのは、日本が敗戦した8月15日から半月以上も経った9月7日のことである。

 沖縄戦の最大の特徴は、米軍の本土侵攻を遅らせるために90日にわたって勝ち目のない戦を展開したことに尽きる。そのため10数万人の住民が地上戦に巻き込まれた。そのなかで発生したのが同胞であるはずの住民に対する監視である。加えて、日本軍は食糧を強奪したり、壕に避難していた住民を戦闘のじゃまになるとして追い出したり、あげくは方言を使用した者をスパイとみなして殺害するなどの行為をはたらいた。

 沖縄戦における住民の犠牲者は約9万4千人。軍人・軍属の戦没者とほぼ同数であるが、餓死やマラリアなどの疾病で亡くなった人たちを合わせると15万人以上にのぼるとされる。住民の犠牲者は軍人よりもはるかに多かったのである。

 明治期以降ひたすら日本への同化に邁進し、「動物的忠誠心」とまで称されたこの忌まわしい結末を何といえばいいのか。少なくとも沖縄戦では軍隊は住民を守らなかったことになる。まさに、同化の果ての「醜さの極致」であった。

 沖縄戦から広島・長崎の原爆投下までの悲劇を引き起こした背景には、自己保身を優先した天皇ヒロヒトの優柔不断な時局判断があった。『「終戦の詔書」を読み解く 「詔書」第一案の分析(6)終戦工作の実態で取り上げたように、「戦争終結策を至急に講ずる要あり」という近衛文麿の進言に対して、自己保身を優先した天皇ヒロヒトは「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と返答しているのだ。各地で日本が敗退を続けていて、絶望的なところまで追い込まれていた1945年2月段階でのことである。沖縄はそのための「捨て石」であった。
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2016/01/30(土) 14:41 | | #[ 編集]
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