2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(8)

沖縄の歴史(5):琉球処分から沖縄戦まで(2)

<皇民化教育>(の続き)

 人類館事件をめぐって、沖縄では琉球新報の反差別キャンペーンに多くの投書があり、それが全県あげての抗議運動に発展している。しかし、仲村さんはその過程で「差別問題の本質を考える上で見逃せない重要な出来事が起こっている」と言い、琉球新報の主幹・太田朝敷が書いた社説を取り上げている。

 琉球新報の主幹、太田朝敷は沖縄差別を問題にしながらも、社説で次のような記事を寄せていたのである。

「我輩は日本帝国に斯る冷酷なる貪欲の国民あるを恥つるなり。彼等が他府県に於ける異様な風俗を展陳せずして、特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや」

 ここに太田の視点がはっきりと現れている。沖縄に対する差別を問題にしながらも、一方では、「琉球人が台湾先住民族やアイヌと同じように見なされ、同列に陳列されることは侮蔑、屈辱である」として、他民族を劣等民族と見なすような側に立っていたのである。その社説にはさらに

「本県の教化今やしんしんとして上進し服装のごときも男子は十中の八九は既に之を改め女子と雖も改造するもの年々其数を増加するの勢あり其他万事日を追うて他府県に一致せんとする~」

と記され、沖縄が日本への同化に向けていかに懸命に自助努力しているかということが連綿と展開されていた。

 太田はその以前にもある講演会で
「沖縄が発展していくためには、クシャミすることまで日本に似せることが必要」
という主旨のことを語ったといわれる。ここには過激なまでの屈折した同化心理がうかがえるが、むろん、その背景には日本国家からさまざまな同化政策が押しつけられたことが原因として存在する。しかしながら、沖縄もまた全県ぐるみで自らも積極的に「日本」に同化する道を突き進んでいたのである。

 清国の後ろ盾を失ってしまった沖縄にとっては、日本化すること以外に自分たちの「進化」や「発展」は考えられなかったのかどうか、ともかくも、琉球王朝時代には考えられなかった日本化がおし進められている。が、王朝末期がそうであったように、大国に対する安易な同化は民族の自立心を喪失させる。結果、王府には強烈な依存心が醸成され、ついには明治政府に足下をすくわれるかのように、亡国という憂き目を見ることになった。

 皇民化教育が徹底され、沖縄人の日本同化への傾斜意識が強くなっていったことを示す事例として、仲村さんは「河上肇舌禍事件」を取り上げている。

 1911年、沖縄を来訪した京都大学助教授、河上肇は
「沖縄は言葉、風俗、習俗、信仰、思想、その他あらゆる点において、内地と歴史を異にしている。これをもって本県人を以て忠君愛国の思想に乏しいというが、これは決して嘆ずるべきことにあらず」
という主旨の講演をした。これに対し、地元紙や知識人が猛烈に反発し、
「忠君愛国に邁進する沖縄県民を愚弄するものだ」
として非難が続出した。一部、少数の青年たちが発言を擁護したものの、河上肇は失意のうちに離沖している。

 河上の発言はいうまでもなく、当時としてはまだ非国家主義的性格を残していた沖縄の持つ可能性を積極的に評価したものであった。が、「立派な日本人」になろうとして同化を推進していた沖縄のエリートたちにとって、河上肇の発言は許しがたいものだったのである。

 仲村さんは「この極端なまでの同化運動は自発的な生活改良運動としても展開されている」と言い、その事例として、「改姓運動」と「標準語励行運動」を取り上げている。

 沖縄は周知の通り独特の姓が多いが、これを本土風の姓に変えようという動きが沖縄内部から発生したのである。

 ちなみに筆者の「仲村」という姓はもともと「仲村渠(なかんだかり)」であったが、昭和初期に流行したこの運動によって改姓されている。他にも例をあげると「平安山(へんざん)」は「平山」に、「安慶名(あげな)」は「安田」に、「島袋(しまぶくろ)」は「島」といった具合である。また、読みも「玉城」姓は「たまぐすく」が「たまき」「たましろ」に、「大城」姓は「うふぐしく]「うふぐすく」が「おおしろ」と読み替えられた。

 一方、民族のアイデンティティである言葉も標準語が励行され、1938~1940年にかけて沖縄を訪れた日本民芸協会の柳宗悦の発言をきっかけにして方言論争に発展している。柳宗悦は標準語励行運動の推進主体となっていた県の学務課に対して以下のような申し入れをしている。

「標準語の励行がゆきすぎて、このままでは沖縄方言を見下すことになる」
「沖縄方言は日本の古語の宝庫であり、学術的に貴重である」
「他県にこのような運動はない」

 これに対して県当局は
「沖縄県民が引っ込み思案なのは標準語能力が劣っているからであり、県外で不利益を受けている。標準語の励行が県民を繁栄に導く道で、学術的な価値については研究者の領域である」
と猛烈に反発した。

 なにやら現在の沖縄人とは、まるで別の人間が語っているかのようなヒステリックな論争である。沖縄では「方言撲滅運動」として知られているが、反対意見が少なかったために、運動はその後も継続されている。いずれにせよ、当時の島の人たちは差別と闘うよりも、同化することが、差別から逃れる唯一の策であると信じていたようである。

 注目すべきはこの方言論争年が、1941(昭和16)年12月8日に開始された太平洋戦争の前年にあたっていることである。要するに、日本人以上に日本人らしくなろうとした運動が頂点に達したときに日本は戦争に突入したことになる。

 この「標準語励行」運動について、補足として奥田博子著『沖縄の記憶 <支配>と<抵抗>の歴史』から該当部分の記事を引用しておこう。

 琉球/沖縄の生活風俗が〈日本化=皇民化〉され、文明化されてゆく一方、沖縄の方言である沖縄口(ウチナーグチ)を標準/共通日本語に改めることは容易ではなかった。そのため、教育現場では県内の小学校に「御真影」(天皇・皇后の写真)が配付され始めた1890年ごろになると、方言撲滅とも受け取られかねない強制的な「標準語励行運動」が推進されていた。日本民芸協会の柳宗悦は、沖縄を訪れた際、これを行きすぎだと批判して県内外に賛否両論の「方言論争」を引き起こした。結論は出なかったものの、実際のところ、アジア・太平洋戦争の勃発で軍国主義が強化されてゆくなかで方言そのものは抑圧されていった。

 たとえば学校では、沖縄口(ウチナーグチ)を使った学生に罰則として「方言札」を所持させたり、首にかけさせたり、あるいは沖縄口(ウチナーグチ)を使った他の生徒に渡させたりといった方法で標準/共通日本語が励行された。この標準語励行は、生活態度の評価にもなったと言われる。一方、このような学校現場における指導法は「方言」蔑視による琉球/沖縄文化の否定につながり、逆に学生に劣等感を与える懸念が示された。それに加え、学生同士および学生と教師のあいだの信頼関係を損なうことも懸念された。教育方法としての問題も内在させつつ、この「方言札」は戦後しばらく、標準日本語指導法として活用されていた。

 「方言札」は、標準/共通日本語が上位概念であるのに対して沖縄の方言である沖縄口(ウチナーグチ)は下位概念であることを身体化させる働きをした。また、当時の言語学では、「新vs旧」という二項対立の構図を「標準/共通語vs方言」という言語観にあてはめて学問的な考察をする手続きが正当化されていた。そのため、話すという日常的な行為において沖縄口(ウチナーグチ)を蔑視する差別意識が刻印されてゆくことにもなった。

 こうした『「日本」に同化する道』の行き着いた先が「鉄の暴風」とも呼ばれる凄惨な沖縄戦であった。仲村さんはその前蹤として日露戦争を取り上げている。

 世替わりを経て「沖縄県」になったこの島はまたも同じ過ちを繰り返そうとしていた。その第一幕は日露戦争(1904~1905)であった。

「日本国民として、一定程度の皇民化教育をうけていた沖縄出身の兵士にとって、その差別を払拭し、忠良な国民=臣民であることを証明するためには、戦場で身を挺して戦うこと以外に方法はなかった。そして、その悲壮な決意は、日露戦争ではやくも実践されることになった」(『高等学校 琉球・沖縄史』・新城俊昭著・東洋企画)

 「敵をおそれることなく上官の命令に従い、身命を顧みる者なし」と称えられた沖縄出身の兵士は3864名にのぼり、一割もの死傷者を出している。沖縄の人々にとっての差別の撤廃や近代化は血によってあがなわれたといえよう。

 このことは私見だが、差別によって生み育てられた沖縄人の屈折した心理が、その後も妙な方向に向かっていくのは、この「日露戦争」が出発点ではなかったかと思える。その最終帰結点が沖縄戦であったことはいうまでもない。


 ということで、次回は沖縄戦を取り上げることにするが、もうひとつ、仲村さんは反差別運動もあったことを指摘してそのことを論じているので、最後にそれを読んでおこう。

 むろん、反差別を中心とした制度上の差別との闘いは社会運動によっても展開されている。日露戦争後は本土でも社会主義運動が盛んになったが、沖縄も1920年代に入ると運動が活発化している。その直接的な契機になったのがソテツ地獄と称される不況である。第一次世界大戦の戦後恐慌は沖縄にも波及し、米はおろか芋も口にすることができないほどの空前の不況に陥り、調理を誤ると生死に関わる毒性をもつソテツの実や幹も救荒食物として食されたのである。

 こうした状況を背景に労働争議や小作争議が頻発し、1926年には本土の社会主義者と沖縄の知識人や活動家が連帯して「沖縄青年同盟」が結成されている。階級的視点をもった沖縄初の大衆的組織で、出稼ぎ労働者の差別撤廃、労働組合の結成、労働条件の改善のみならず、農民運動や教員運動などの分野でも広範な運動を展開したが、1928年、田中義一内閣によるいわゆる3・15事件(治安維持法容疑)によって多くの活動家が逮捕・投獄された。

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