2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(7)

沖縄の歴史(4):琉球処分から沖縄戦まで(1)


 琉球はその25年後の1879年、日本国に併合されました。私たちはそのことを琉球処分と呼んでおります。併合後、沖縄の人々は沖縄の言葉であるウチナーグチの使用を禁止されました。日本語をしっかり使える一人前の日本人になりなさいということで、沖縄の人たちは皇民化教育もしっかり受けて、日本国に尽くしてまいりました。その先に待ち受けていたのが70年前の沖縄戦でした。「鉄の暴風」とも呼ばれる凄惨(せいさん)な地上戦が行われ、10万を超える沖縄県民を含め、20万を超える方々の命が失われるとともに、貴重な文化遺産等も破壊され、沖縄は焦土と化しました。

 幕藩体制から維新体制(中央集権化)への移行は次のように行なわれた。

1869(明治2)年 版籍奉還
 諸大名から領地と領民を天皇に返還させる。 1871年 廃藩置県
 中央集権化をさらに強化するために知藩事(旧領主)と旧領地を切り離し、政府の下に県をおいた。旧領主の籍も東京に移された。

 当然のこと、琉球王府は日本で廃藩置県が行なわれたことは知っていた。しかし、琉球には無縁のことと思っていたようだ。

<琉球処分>

 琉球藩の設置は1872年である。この年に鹿児島県庁から伊地知貞馨(いじちさだか)と奈良原繁(ならはらしげる のちの第四代沖縄県知事)が明治政府の初めての遣使として那覇に派遣された。

 このとき伊地知らは王府高官に維新の意義を説くとともに、薩摩が琉球に貸していた借財全額の免除を申し渡し、その金で人民を救済して、もって国の資源とするよう伝えている。借金帳消しは薩摩藩がなくなったからというのがその理由だが、真相は新政府が琉球に「恩」を売っただけのことで、琉球の国体処遇についての指示はこの段階でもなかった。

 すべては王国解体への布石であった。当初、王府はその沙汰の真意を理解できなかったようだが、琉球にとっては良いこと尽くしであった。結局、政府の「恩恵」とやらを真に受けてしまい、これもまた時勢の目測を見誤る原因のひとつになった。

 同年8月、王府は伊江王子朝直と宜湾親方(ぎえわんえーかた)朝保らを慶賀使として東京に遣わしている。使節団は随員百余名という大規模なものであった。明治政府は国賓待遇で彼らを処遇し、天皇もさまざまな品を彼らに下賜した。この派手にすぎる接待もむろん政府の懐柔策であったが、すでに使節はそのことを見抜く目が曇っていた。

 こうした経緯のなかで下されたのが、「尚泰を藩王となし、叙して華族に列す」という勅語である。原文に記された日付は明治5年9月14日。この日をもって琉球は「藩」として位置づけられることになる。

 いわゆる「藩王御請」である。前述したように、日本国内の廃藩置県はすでに完了している。しかし琉球の場合は他府県と異なり、いきなり「県」にすると、王府はむろんのこと清国の反発をかうおそれがあった。そこで、政府はいったん「藩」を設置し、つぎの段階で「県」に移行させる腹づもりだったのである。

 琉球の廃藩置県はそれから7年後(1879年3月27日)に断行された。いわゆる「琉球処分」である。

 処分官として琉球に派遣された内務大丞の松田道之(まつだみちゆき 1839~1882)は警察官吏・巡査百余名を従えて首里城に入り、三司官ら政務官僚を前に大政官令を読み上げた。「琉球藩を廃し、沖縄県を置く」

 有無をいわさぬ文字通りの[処分]であった。ここに察度王続から500年以上にわたって続いた琉球王国は解体された。同時に、国王以下すべての王族・士族が城からの退去を命じられた。期限は4日後の3月31日(新暦)正午限り。1609年の薩摩侵略以来、二度目の首里城明渡しである。

 次に、翁長知事が言及している皇民化教育を取り上げよう。

<皇民化教育>

 仲村さんは、「琉球」の時代を実質的に終わらせる節目となったのは日清戦争であったと言う。日清戦争の勝者・日本国家にとっては対沖縄問題の目の上のたんこぶがなくなったことであり、沖縄にとっては後ろ盾を失ったことになる。これが沖縄の日本国家への皇民化政策を推し進める契機になった。日本国家から沖縄にさまざまな同化政策が押しつけられたが、沖縄もまた全県ぐるみで自らも積極的に「日本」に同化する道を突き進んでいったのだった。その背景には日本人の沖縄を蔑視する「差別問題」があった。その顕著な事例が1903(明治36)年3月に起きた「人類館事件」である。

 その年の3月、沖縄の人々を震憾させる事件が大阪の天王寺で発生している。政府主催の第五回勧業博覧会の会場近くに建てられた人類館と称する小屋に、民族衣装をまとった沖縄の女性二名が「琉球の貴婦人」として見せ物にされていたのである。

 この小屋は人間を展示物にしているパビリオンで、「人類館」と銘打たれていた。「展示」されていたのは沖縄人の他、アイヌ、台湾の先住民、朝鮮人、ジャワ人、インド人、ハワイ人など合計32名。それぞれが民族衣装をつけて日常の生活動作を観客に見せるというきわめてショッキングな扱いをうけていた。

 これに対し、韓国や中国の留学生から即刻抗議の声があがり、沖縄も沖縄人女性の「展示」の即時中止をもとめ、地元紙の報道を通じ、激烈な糾弾キャンペーンが展開された。

 人類館は東京帝国大学の自然人類学者、坪井正五郎(1863~1913)が発案し、同時開催された台湾館は台湾総督府民政長官の後藤新平(1857~1929)の要請によって運営が成されていたという。日清戦争で勝利したことによって、日本が世界の列強の仲間入りをしたという傲慢な自負と、帝国主義国家特有の人種差別意識を持ち始めたことが原因といっていい。

 こうした謂れ無い差別意識は、臆面もなく街頭で繰り広げられる「ヘイトスピーチ」やネトウヨの罵詈雑言となって現れ、未だに一部の日本人に受け継がれている(この項、次回に続く)。
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