2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(6)

沖縄の歴史(3):琉米修好条約

 1609年の薩摩侵略後、奄美諸島が薩摩に切り取られたが、残りの琉球王国はどのような扱いを受けたのだろうか。

 4月4日に首里城が明け渡された後、尚寧王(しょうねいおう)は重臣たちと共に薩摩に送致された。そのほかに琉球軍を指揮した浦添親方(うらそえうぇーかた)と謝名親方(じゃなうぇーかた)が別の船で罪人として連行されている。この二人が罪人扱いになったのは、この侵略戦では薩摩軍にも100~200名の戦死者があったということなので、戦犯扱いされたのだろう。この人たちのその後の処遇は次のようである。

 尚寧王一行はほぼ一年間薩摩に留め置かれたあと、翌1610年5月に江戸に向けて発ち、同年8月に駿府城において徳川家康に謁見した。いわゆる捕虜ではなく、開国の使節としての破格の扱いであった。

 その後、8月25日には江戸で二代将軍秀忠と対面し、ここでも宴を賜るなど厚くもてなされ、秀忠自身から、「国に帰って、祖先の祭祀をいとなむよう」との、言葉をかけられている。

 国とはむろん琉球のことである。尚寧王は琉球を「国」として安堵することを保障されたのであった。もとより、薩摩の支配下での「安堵」にほかならないのだが、琉球は一応、独立国としての体裁をとることを許されたことになる。

 幕府は琉球を通しての対明交渉と交易の復活をあきらめておらず、尚寧王一行に対するこれら一連の厚遇借置は、明国に気遣ってのものであることはいうまでもない。

 尚寧王が再び薩摩を経由して琉球に帰国するのは1611年10月26日のことである。ちなみに謝名親方の斬首の理由になった起請文事件は、ほぼ一月前の9月19日である。

 9月19日、帰国が許される条件として、薩摩は「薩摩の臣下として忠誠を誓う」という趣旨の起請文の提出を求めたが、謝名親方だけが連判を拒否した。薩摩はその場で謝名親方を捕らえ、その日のうちに斬首刑に処した。この死刑について、仲村さんは次のように述べている。
『戦勝国の薩摩に二百名の戦死者が出ながら、極刑が謝名親方一人で済んだのは異例といっていい。明国と穏便に国交回復の機会をうかがっている幕府や薩摩にすれば、これ以上事を荒立てることは避けたかったであろうし、もとより謝名親方も死罪はまぬがれぬものとすでに覚悟は定まっている。この上は尚寧王に罪が着せられることのないよう、責任のすべてを自分がかぶるつもりだったに違いない。』

 琉球王国は独立国としての体裁は保たれたが、実際は完全に薩摩の属国であった。

 尚寧王以下重臣がヤマトに連行されている間に、琉球では家康の命によって薩摩藩による検地が実施されている。いわゆる「慶長検地」で、このことは家康が島津氏に正式に琉球を与えたことを意味する。

 検地は先島、奄美などもふくめて入念に行われ、琉球の石高は11万3千41石と計上された。ただし、奄美は薩摩の直轄地として琉球から切り取られたので、残りの8万9千86石が王府に下付された。

 島津への貢物は年貢米9千石、芭蕉布3千反、琉球上布6千反、琉球下布1万反、牛皮2百枚などだが、のちにこれを換算して「銀納」、さらに米1石につき銀8分として「米納」へと変更されている。加えて薩摩藩は支配をさらに強固なものにするために、「薩摩の命令なしで、唐(明)への貢物を禁止する」「薩摩の印判をもたない商人を受け入れてはならない」「琉球からの他国への商船はいっさい禁止する」などの掟十五条を申しわたし、これを支配被支配の骨格として事実上、琉球はヤマトの幕藩体制のなかに取り込まれていった。

 さて、翁長知事の陳述は次のように続いている。

 そういった中で1800年代、アメリカ合衆国のペリー提督が初めて日本の浦賀に来港したのが1853年です。実は、ペリー提督はその前後、5回沖縄に立ち寄り、85日間にわたり滞在しております。1854年には独立国として琉球とアメリカ合衆国との間で琉米修好条約を結んでおります。このほか、オランダとフランスとの間でも条約を結んでおります。

 琉球王国は1609年以来、薩摩藩の支配下に置かれたが、アメリカ・オランダ・フランスなど欧米諸国は琉球を独立国として扱った。翁長知事は1879(明治12)年のいわゆる「琉球処分」までは琉球国は国際的には独立国だったと主張したいのだろう。しかし、琉米修好条約のその裏には日本に開国を迫るアメリカの外交上の駆引きがあったことは容易に想像できる。

 その頃、欧米列強諸国の琉球への来航数は50余件もあったという。ペリーが、浦賀に向かう前に、軍艦3隻と帆船数隻を率いて那覇に入港してきたのは1853年5月26日のことであった。もちろん、ぺリーの狙いは日本を開国させることにあった。ペリーが浦賀に現れたのは7月8日のことであった。

 では、ペリーは浦賀に向かう前になぜ琉球に立ち寄ったのか。仲村さんは次のように解説している。

 実はペリーは前年の12月に、本国のケネディ海軍長官につぎのような書簡を送っている。

「日本政府が、もし日本本土の港湾開放を拒絶し、そのために流血の惨事にいたる危険があるときは、別に日本南部に良港を有し、薪水補給に便利な島嶼に艦隊錨地を指定したいと思う。このためには琉球諸島が便利である」

 これに対して米政府はぺリーに対して以下のような回答を発している。

「大統領もまた遠征艦隊の安全を期するために、好都合な1、2港を獲得する必要があり、琉球諸島がその目的にもっとも適合することを認められた」

 ぺリーの書簡には、
「琉球が日清両属下にあって薩摩の圧政下で人民が苦しんでいる。人民に対しては正義と親切さをもって接すれば必ずアメリカに心服するだろう」
との文言もあり、また、政府からの返答には
「琉球の住民は古来穏和で従順だから、彼らに敵意を抱かせるようなことはしてはならない。彼らから攻撃された場合を除いて兵力を用いてはならない」
というような具体的なやりとりもみられる。これをみてもアメリカの狙いは明らかといっていい。  すなわち、ぺリーは日本の開国に失敗、あるいは交渉が長引いた場合は、琉球をはじめ1、2港を占領する意図があったのである。事実、この遠征では小笠原も測量し、父島に貯炭地を設けている。

 アジアから遠く離れた欧米列強にとって、軍船や船舶の基地を東アジアに設けることは必須の課題であった。ちなみに当時の蒸気船は燃料の石炭、食料、水などを補給する必要性からあちこちに寄港しなければならなかった。このためヨーロッパから日本に行くまでには数か月かかったといわれる。

 アメリカはさらに時間を要した。1850年代はアメリカ西海岸の開拓がようやくはじまった頃で、太平洋航路は整備されていなかった。そのためぺリー艦隊もバージニア州のノーフォークを出港したあと喜望峰回りでケープタウン、スリランカ、シンガポール、上海などを経由し、約半年かけて日本近海に来ている。

 したがって、アメリカが東洋に進出するためにはどうしても、東アジアに拠点を設ける必要があった。日本列島に飛び石状に連なり、中国やアジア諸国に近い琉球諸島は、東アジアの要の位置にあたる。

 結論からいえば、日本はアメリカの開国要求の回答を半年ほど引き延ばした後、日米和親条約に調印したため、琉球占領計画はまぼろしに終わっているが、もし開国を強硬に拒んでいたら、あるいは、沖縄の近代史は大きく変わっていたかもしれない。

 日米和親条約調印後、ペリーは琉球王国に対して琉米修好条約をせまるが、上記のペリーとアメリカ政府との交換書簡に反して、ペリーは琉球政府に対して脅したりすかしたりの強行交渉を行なっている。その経緯についてはここでは深入りしないが、その修好条約の内容については簡単に触れておこう(次の文は梅木哲人著『新琉球国の歴史』からの引用文です)

 (「日米和親条約」が締結された後)ペリーは帰途、また沖縄に投錨するが、7月8日から琉球国との条約を協議し、11日には「琉米修好条約」を締結した。

 この条約では
「合衆国市民琉球に来たりし時は常に大いなる鄭重と親切をもって待遇すること。これらの人々が要求するものは全て売り渡すべし。正常な価格で行わるべし。アメリカ船へ薪水を供給すべし。船が難破したときは救助すべし。上陸したときは妨害をしない。条約は英語・支那語をもって署名する」
ということが規定されていた。アメリカにとって、太平洋航路の安全を確保するために結ばれた条約であったのである。この条約の締結は、琉球側にとってはこれまで異国船の来航に際してとってきた拒絶の態度がとれなくなったことを意味していた。その意味ではこの条約は琉球の対外関係の分岐点になったのである。

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