2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(4)

沖縄の歴史(1):古琉球

(参考書として中村清司著『本音で語る沖縄史』を用います。緑色の部分は翁長知事の陳述書からの引用文です。)
2 沖縄について

 (1)沖縄の歴史

 沖縄には約500年に及ぶ琉球王国の時代がありました。その歴史の中で、万国津梁の精神、つまり、アジアの架け橋に、あるいは日本と中国、それから東南アジアの貿易の中心になるのだという精神をもって、何百年もやってまいりました。

 ベトナムの博物館には600年前に琉球人が訪れた記録が展示されていました。中国の福州市には、異国の地で亡くなった琉球の人々を埋葬している琉球人墓があり、今も地域の方が管理しております。また、琉球館という宿も残っております。それから、北京では国子監といいまして、中国の科挙の制度を乗り切ってきた最優秀な人材が集まるところに琉球学館というのがあり、そこで琉球のエリートがオブザーバーで勉強させてもらっておりました。このような形で、琉球王朝はアジアと交流を深めてまいりました。沖縄名産の泡盛は、タイのお米を使ってできています。タイとの間にも何百年にわたる交易と交流があるわけです。



 ここに語られている琉球の歴史について調べてみよう。

 琉球にはグスクと呼ばれる遺跡がある。琉球史では12世紀~15世紀を「グスク時代」と呼んでいる。グスクは12世紀に琉球に農耕文化を基盤とした時代になって現れている。集落が海岸から稲作や畑作などの農耕に適した台地に移った時、人々は神(祖先神)の依り代となる御嶽(うたき 聖地)を村落のなかに構えた。これがグスクの始まりである。これにともなってノロと呼ばれる女性の宗教的支配者が登場するようになる。

 やがて、村落に按司(あじ)と呼ばれる豪族が現れる。按司は武力を背景にした防御の砦としてのグスク(城)を築いた。そして、周辺の農民や集落を束ね、それぞれの支配地域を広げて、いわゆる小国家を形成していった。1500年代初頭には、琉球弧(どこを琉球弧と呼ぶかは学者・研究者によって異なるようだ。ここでは奄美諸島から八重山諸島までとする)にこれら小国家のグスクが五百余も築かれていたと言う。
 グスク時代の末期は三山時代と呼ばれている。この時代についての解説文は直接引用する。

 浦添城跡は首里城から北約4キロに位置し、一帯は標高130メートルの小高い丘陵になっている。北西方向には貿易港として機能した牧港を見下ろし、南西に目を転じれば那覇方面からはるか先に慶良間諸島が一望できる。沖縄本島でも第一級の景勝地といえるが、ここに中山王の居城がおかれていた。

(中略)

 14世紀の琉球はこの浦添城がおかれた中山をはさんで北山、南山が鼎立した三山分立時代」と呼ばれる。沖縄本島は現在でも北部(国頭 くにがみ)、中部(中頭なかがみ)、南部(島尻しまじり)の三つの地域区分で表現されることが多いが、その由来はこの14世紀に興った三山にちなんでいるといわれる。

 すなわち今帰仁城を居城に構えた「北山」、浦添城を拠点にした「中山」、大里グスク(南山グスクという説もある)を根城にした「南山」の三勢力に分かれて、それぞれが王を名乗って覇を競っていた。

琉球・三山時代
(ウィキペディア「三山時代」からお借りしました。)

 中山王・尚巴志(しょうはし)が南山・北山を倒して全島を統一し琉球王国が誕生したのは1429年であった。この時から薩摩の侵入する1609年までのおよそ500年間を「古琉球」と呼んでいる。

 古琉球時代の特徴は日本や中国大陸との交易が盛んになったことである。特に中国との関係が密接であった。明国が東アジア圏内での進貢貿易という新秩序体制確立させると、琉球もこれにいち早く参加し、アジア社会の有力な一員に成長していった。

 その古琉球を牽引した精神を翁長知事は「万国津梁(ばんこくしんりょう)の精神」と言っている。次回はこれを取り上げよう。
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