2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(2)

琉球王国の領域について

 昨年の8月12日から9月7日にわたって、辺野古新基地問題について政府と沖縄県の集中協議が行なわれた。その中で管官房長官の次のような発言が伝えられている。琉球新報の記事「翁長知事講演要旨 知事帰国講演」(2015年9月25日)から引用する。

 8月10日~9月9日までの1ヵ月、(辺野古新基地の)工事を止めた。その間、5回の集中協議で私は沖縄の問題をいろんな角度から話したが、政府側からほとんど返答はなかった。

 菅義偉官房長官は4月に最初に話してから沖縄の歴史を含め私が一番思いを話した方だが、集中協議の最後に私の話は通じませんかと聞いたら、「私は戦後生まれなので沖縄の歴史はなかなか分からないが、19年前の日米合同会議の辺野古が唯一というのが私の全てです」という話だった。お互い70年間も別々に生きてきたような感じがしますねと私は言った。

 こういう人物が政治の中枢を牛耳っているとは驚くほかない。と批判してみたが、私の沖縄理解もかなりいい加減なものだと自認している。例えば次の図(吉本隆明等著『琉球弧の喚起力と南島論』から転載)
沖縄県
鹿児島県と沖縄県の県境が与論島と沖縄島の間に引かれているが、とても不自然だ。本来の県境は奄美大島の北だったのではないか。調べてみた(以下は中村清司著『本音で語る沖縄史』による)。

 1609年(慶長14年)に薩摩藩が琉球に侵略し、王府を征圧している。

 薩軍は総勢三千余、軍艦百余隻。同年3月4日、薩摩半島の突端にある山川港を出港し、7日に奄美大島笠利湾に入り、琉球の出先機関である「蔵元」を攻略した。ついで徳之島、沖永良部島も制圧し、25日には沖縄本島北部の今帰仁(なきじん)の運天港に入港している。
 徳之島では琉球守備隊との間に激しい戦闘が展開され、一説に、琉球側に数百人の戦死者がでたともいわれる。これに対して、薩軍は逃げた守備隊長を山狩りまでしてとらえている。有無をいわせぬほどの迅速さと冷徹さで奄美諸島を次々と墜としていったことがわかる。おそらくは、秀吉の朝鮮出兵のさい、水上戦の戦術・戦法までも実戦で身につけていたのだろう。まさに日本最強の軍隊が押し寄せてきたのである。

 そして、薩摩藩は1611年に奄美諸島を直轄地とし、琉球から奪い取っている。しかし、この奄美諸島はもともと琉球王国の属領ではなかった。奄美諸島に琉球の役人を派遣され、奄美諸島が王府の実質的支配下に置かれるようになったのは1466年のことである。

 さて、辺野古の新基地建設に伴う埋め立て承認の取り消しを違法として、国が翁長知事を相手に起こした代執行訴訟における翁長知事の陳述書は沖縄が強いられている諸問題を分かり易く余すところなく証言している。この陳述書を読みながら、学習を進めていこうと思う。まず次回から、管官房長官が「沖縄の歴史はなかなか分からないが、」と言っている「沖縄の歴史」の学習から始めよう。
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