2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(95)

終末論の時代(32)

「独占資本主義の終末」補充編(16)

羽仁提言「三つの原則」の検討(15)


原則2:「社会主義」(13)

<参考書4> 広井義則著『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(岩波新書)
の続きです。

 広井さんは①(「機会の平等」の保障の強化)の背景にある「基本的な人間観あるいは社会観」について次のように論じている。

 (①は)教育や雇用、住宅などを含む、若者や子どもに関する社会保障ないし公的支援を強化し(その財源として相続税などを活用)、個人が人生の初めにおいて"共通のスタートライン"に立てることを十分に保障するというものである。

 ではなぜこれが「資本主義システムの根幹にさかのぼった社会化」となるのか。

 近代的な理念においては、この社会は「独立した均質な個人」によって成り立つものであり、そうした個人が(契約を通じて)社会を構成する。近代の歴史の一幕から生成した「福祉国家」もまた同様の社会観を共有し、したがって福祉国家の基本は、個人が市場経済の中で自由な経済活動を行うことを前提としたうえで、そこから(格差などの問題が生じた場合に)事後的に修正を加えるというものだった。

 しかしこうした社会観において意外にも抜け落ちているのは、現実の社会においては、個人は"裸の個人"として均等に世の中に生まれ出るのではなく、家族あるいは家系というものが存在し、そうしたいわば世代間の継承性の中においてこそ個人は存在するという(ある意味で当然の)事実なのである。

 したがって、こうした世代を通じた継承性(親から子へのバトンタッチ)の部分に何からの形で"社会的な介入"を行わなければ、あるいは「相続」という私的な営みに関して何らかの再分配ないし社会化を行わなければ、前の世代の個人に関して生じた「格差」はそのまま次の世代に継承されていくことになる。

 根本的な問いは、これをそもそも是とみるか非と見るかである。このテーマは基本的な人間観あるいは社会観に関わるもので、ひとつの正しい答えがあるというものではないが、ポイントになるのは、社会を構成する基本的な"単位(ユニット)"を「個人」と見るか「家族(ないし家系)」と見るかという点にあるだろう。

 つまり前者であれば、個人は生まれ育つ段階でできる限り平等な環境に置かれ、「個人の機会の平等」が確保されるべきという考えになるし、後者であれば、むしろ親が成し遂げた成果ないし遺産をその子どもが享受し引き継ぐのは当然であり、このことこそ侵害されたり政府によって介入されたりすべきではない、という考えになるだろう。

 先ほど確認したように、近代的な理念は本来的には「個人」を基本的な社会の単位と考えるので、単純に言えば前者のような方向に傾くのであるが、しかし実際には、相続あるいは親から子への継承性という点は、最後までもっとも"私的"な領域として残され、公的な関与は(相続税といった制度は一定あるもののそれは限られた範囲にとどまり)ミニマムなものに抑えられたのである。

 しかしながら、ある意味でそうした対応の帰結として、現実には次第に「格差の相続ないし累積(あるいは貧困の連鎖)」という点が無視できない形で浮上するに至っているのが現在である。近年日本でも様々に論じられるようになった「子どもの貧困」問題や、大学進学率と親の所得が相関している(生まれた家の所得が高いほど大学進学率が高い)といった事実もこうした点と関連している。したがってこの点に関する公的介入あるいは再分配を強めてこそ、「機会の平等」が保障され、同時に(各個人に均等に"チャンス"が保障されるという意味において)社会や経済の活性化にもつながるという視点が重要となる。

 ここでおもしろいのは次のような点である。拙著でも以前論じた内容だが、それぞれの個人が、人生の初期において"共通のスタートライン"に立つことができ、上記のように均等な"チャンス"が与えられるべきというのは、それ自体としては「自由主義」的あるいは「資本主義」的と呼べる理念であるだろう。しかし、現実にそうした状況を実現するには、市場経済ないし資本主義システムを"放任"していては果たせず― それではむしろ格差の相続や累積が生じる ―、ここで論じているような相続の一定の社会化や人生前半の社会保障の強化といった政策対応が重要となる。

 つまり、個人の「チャンスの保障」という、それ自体は資本主義的な理念を実現するために、ある意味で社会主義的とも言える対応が必要になるという、根本的なパラドックスがここには存在している。言い換えれば、逆説的にも個人の「自由」の保障は"自由放任"によっては実現せず、むしろそれは積極的あるいは社会的に「作って」いくものなのである。

 続いて広井さんは、GHQ主導による政策だったが、戦後に行なわれた「相続の一定の社会化や人生前半の社会保障の強化といった政策」を取り上げて、その後の成り行きを振り返っている。

 戦後の日本を振り返った場合、戦後まもない時期に(占領軍の主導によって)行われた大きな改革は「農地改革(すなわち土地の再分配)」と「中学校教育の義務化」だったわけだが、実はこの二つは、いずれもここで論じている人生の初期における"共通のスタートライン"を強力に実現させる性格のものだった(前者の農地改革はこの後でふれる「ストック(資産)の再分配」にも関わる)。

 現時点で振り返ると、こうしたドラスティックな改革があったからこそ、個人の機会の平等が保障され、かつそれがその後の経済発展につながったと考えられるのだが、同じようなシステムが長きにわたって継続する中で、格差の累積や"世襲"的な性格が強まっているのが現在の日本社会だろう。日本社会は、いわば放っておくと"固まりやすい"社会であり、後にあらためて整理するが、相続税などを強化し、それを教育を含めた「人生前半の社会保障」に充当するといった政策を進めていく必要がある。

 私は以上のような広井さんの議論に全面的に賛同する。

 このような議論は必然的に「新たな社会的セーフティネットの創出」のための第二の柱

「ストックの社会保障」あるいは資産の再分配(土地・住宅、金融資産等)

という課題につながる。次回から、この問題に対する広井さんの論説を読んでいくことにする。
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