2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(91)

終末論の時代(28)

「独占資本主義の終末」補充編(12)

羽仁提言「三つの原則」の検討(11)


原則2:「社会主義」(10)

<参考書4> 広井義則著『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(岩波新書)

 前回紹介した水野さんによる資本主義終焉に備えての提言のキーワードは『「定常化社会」へのソフト・ランディング』だった。

 実は、今回取り上げる<参考書4>(以下『ポスト資本主義』と呼ぶことにする)の著者・広井さんには『定常型社会―新しい「豊かさ」の構想』(岩波新書2001年6月20日刊)という著書がある。広井さんは巻末に挙げている参考文献の中に、上記の著書のほかに、次のような自著を加えてる。
『持続可能な福祉社会』(2006年刊)
『グローバル定常型社会』(2009年刊)
『コミュニティを問いなおす』(2009年刊)
『創造的福祉社会』(2011年刊)
『人口減少社会という希望』(2013刊)
『生命の政治学―福祉国家・エコロジー・生命倫理』(2015)
 広井さんは早くから水野さんと同じく「定常型社会」という同じ視点を軸に、資本主義後のあるべき社会について論考を重ねてきたようだ。今回お世話になる著書はこれまでの論考の集大成と言えそうだ。

 さて、これまでと同じように、このシリーズのテーマに沿って、資本主義後を論じている「第三部 緑の福祉国家/持続可能な福祉国家」を中心に読んでいくことにするが、その前に「第三部」への予備知識として、「はじめに」を読んでこの著書の「基本的な趣旨」を確認しておこう。

 『ポスト資本主義』には「科学・人間・社会の未来」という副題が付いている。これは現在に至るまでの資本主義の歴史を科学との関わりも含めた視点から捉えようというこの著書のモチーフを示している。「はじめに」は、現在、科学の未来がどのように論じられているか、という話題から語り始めている。(なお、[ ]内の小文字部分は私の独り言、あるいは「注」です。)

 『トランセンデンス』という映画が昨年(2014)公開され、ちょっとした話題になった。男優ジョニー・デップ演じる人工知能(AI)研究者の脳が、彼の死にあたりその妻によってコンピューターにインストールされるが、やがてその頭脳は進化し暴走を始めるという、荒唐無稽ともいえるストーリーだ(ただしこの映画の終わりの部分には"自然ないし宇宙的生命への回帰"ともいうべきモチーフも登場しており、一概に荒唐無稽といって片づけられない側面ももっているのだが)。

[私はこの映画を全く知らないが、同じような荒唐無稽な「民王」というテレビドラマを見ている。こちらは父親と息子の頭脳(脳波)が入れ替わるという設定である。]

 実はこの映画のコンセプトの土台のひとつになっているのは、アメリカの未来学者レイ・カーツワイルが以前から行っている「技術的特異点(シンギュラリティ)」をめぐる議論である。カーツワイルは近い未来に様々な技術(特に遺伝学、ナノテクノロジー、ロボット工学)の発展が融合して飛躍的な突破が起こり(=技術的特異点)、そこでは高度に発達した人工知能と人体改造された人間が結びついて最高の存在が生まれ、さらには情報ソフトウェアとしての人間の意識が永続化し、人間は死を超えた永遠の精神を得るといった議論を行っている(カーツワイル 2007年)。コンピューターの"1045年問題"とも言われる話題である。

[私は最近のニュースによく登場するロボットの進化ぶりにはとてもビックリしている。]

 以上のようなビジョンは、先ほどの映画以上に荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、カーツワイルに限らず、アメリカではこうした議論― 人間の進化の次なる段階ということで「ポスト・ヒューマン」論と呼ばれる ―は様々な文脈で広く議論されている。このうち医療技術による人体改造に関しては、ブッシュ政権時代に出されたアメリカの大統領生命倫理評議会報告書『治療を超えて』(2003年)において、この種のテーマが具体的な生命倫理の問題として論じられている。

 たとえばそれは精神医療の領域で、PTSD[心的外傷後ストレス障害]のトラウマを軽減するための「記憶鈍麻剤」や、気分をコントロールする「気分明朗剤」といった向精神薬がどこまで許容されるかといった話題が論じられているのである。そう言えば、フィリップ・ディックのよく知られたSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では、未来世界で人々が自分の感情をその時の気分に応じてコントロールする「情調(ムード)オルガン」という機械が出てきていた。

 一方、性格は異なるが日本でも漫画やアニメの世界でこのような主題は多様な形で取り上げられており、― こうした話題について私は学生から教えられることが多い ―『攻殻機動隊』などの作品は世界的にも影響を与えてきたとされたりしている。

 若干個人的な思い出を記すと、私は80年代の終わりの2年間と2001年の計3年をアメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)で過ごしたが、― それぞれ大学院生および客員研究員として ―特に80年代末の滞在の頃はある種の"AIブーム"が起こっており、人工知能に無限の可能性があるような議論が(それへの反論も含めて)なされていた。その後そうした論議はやや沈静化しているように見えたが、上記のカーツワイルの論を含め近年また活発になっている。

 「技術的特異点(シンギュラリティ)」は初めて知る言葉なのでネットを検索してみた。 広井さんが「カーツワイルの論を含め近年また活発になっている」と言っているので、その観点から調べて、「Ikeda.Asia」というサイトの記事「シンギュラリティ(技術的特異点)の先にある2045年の未来とは?」出会った。シンギュラリティをめぐる最近の動向を記録した部分を引用する。

 現在識者の間ではこの問題が大マジメに論じられています。

 それどころか、シリコンバレーでは世界のグローバル企業がこのA・Iの実用化に向けて突き進んでいます。

 2014年2/4のWSJのニュース記事によると、米グーグルのエンジニア部門のレイ・カーツワイルという人が5年から8年以内に人間に近い検索エンジンが登場し、長くて複雑な質問に返答し、検索しようとする資料の意味を理解し、さらに人々に役立つだろうと自らが考える情報を探し出すようになり2029年までには検索エンジンが人間のような能力を持つようになると述べたそうです。

 昨年からグーグルはロボット開発会社を次々と買収したり、今年の1月には英国の人工知能開発会社「ディープマインド」を5億ドル(505億円)超で買収もしています。どうやらグーグルは本気で「A・Iロボット」の開発に乗り出しているようです。

 実はこのレイ・カーツワイル氏という方はもうかなり昔から人工知能研究の第一人者として有名な科学者だったそうですが、かつて彼の提唱するシンギュラリティ理論はオカルト科学の一種と見なされ一部のSFマニアやギークの間にだけに支持を受けているようなものでした。

 しかし、グーグルが彼を会社のエンジニア部門に引き入れたことでレイ・カーツワイル氏の「シンギュラリティ理論」が去年くらいから一気に現実味を帯びるようになったのです。

 もし仮に人間と同レベルの知能を持つコンピュータが生まれたら、その後は今の技術レベルで10年かかるテクノロジー進化が例えば1時間はおろか1分で成し遂げれると言うのは理論的に可能であると私も思います。

 知能というものを情報を学習して記憶し自ら考えて答えを出す能力と定義するならば、 情報量(知識量)の時点では既にコンピュータは人間を超えています。なぜなら、2013年の時点でGoogleの検索エンジンには既に30兆ページのWEBページがインデックスされており(2008年では1兆ページだったそうですが、5年間で30倍に増えたそうです)、Googleコンピューターはこれら30兆のWEBページのすべてを人間よりも遥かに正確に記憶している計算になります。

 例えば、あなたがある一つのキーワード、 仮に「パーマネントトラベラー」という語句でGoogle検索したらこの30兆ページのWEBページデータベースを1秒くらいですべて参照して、そのキーワードにマッチした検索結果をすべて拾ってこのブログを検索結果の2ページ目とかに表示させるわけです。

[グーグルの検索では、私も毎日ビックリしている。例えば今回の「シンギュラリティ」の検索では「約 217,000 件 (0.37 秒)」という表示が出ていた。もう一つビックリすることは、ネットで購入しようとある商品の検索をすると、私が愛読している記事にはその商品の広告画面が添付されてくるのだ。私の全て監視されているようでちょっとおっかない気分にもなる。「マイナンバー」などというとんでもないものが導入されれば本当に全てが監視されるようになってしなう。]

 もう既にこの時点でコンピューターはWEBから拾える情報の数量では世界人口すべての人間のインターネット情報量に勝っています。 恐らく10年後には世界の大学図書館の書物はすべてデジタル化されてクラウドに蓄積されてデータベース化されているでしょう。

 この問題についての考察はまだまだ続くが、興味のある方は直接お読み頂くことにして、引用はここまでにしておこう。

 「はじめに」に戻る。
 広井さんは、このような科学の近未来についての議論の紹介から始めた理由を述べ、続けて『ポスト資本主義』の「基本的な趣旨」を次のように語っている。

 さて、ここで問われているテーマをあえて一般化して言うと、それは次のような文脈において、科学や技術の発展が人間にとって何をもたらすか、あるいは科学・技術と経済ないし資本主義との関わりということになるだろう。

 すなわち、本書の中であらためて見ていく予定だが、ふり返れば1970年代には環境や資源問題への関心が高まり、「成長の限界」も論じられるようになった。しかし再び80年代以降に金融のグローバル化を通じた資本主義の展開が地球規模で進んでいったのは、他でもなく(インターネットを含む)情報関連テクノロジーの発展と一体のものだった。それはたとえば、一秒の間に何千回もの金融取引が行われるといった、インターネット上の無限の金融空間の生成と軌を一にするものである。そうした方向の脆弱性あるいは限界が2008年のリーマン・ショツクで露呈したものの、再び上記のカーツワイルのような次なる技術突破論が現れている。

 足元の日本を見れば、安倍政権は一貫して金融政策主導の成長戦略を打ち出してきたが、本文で議論していくように「アべノミクス」が志向する金融市場の"無限の電脳空間"と、カーツワイルの描く"意識の無限化"のビジョンは究極において同質の方向性をもっている。

 以上の議論からも示唆されるように、近代科学と資本主義という二者は、限りない「拡大・成長」の追求という点において共通しており、その限りで両輪の関係にある。しかし地球資源の有限性や格差拡大といった点を含め、そうした方向の追求が必ずしも人間の幸せや精神的充足をもたらさないことを、人々がより強く感じ始めているのが現在の状況ではないか。

 このように考えていくと、カーツワイルのいう「特異点」とはむしろ逆の意味で、私たちの生きる時代が人類史の中でもかなり特異な、つまり"成長・拡大から成熟・定常化"への大きな移行期であることが、ひとつのポジティブな可能性ないし希望として浮上してくる。

 その場合、資本主義というシステムが不断の「拡大・成長」を不可避の前提とするものだとすれば、そうした移行は、何らかの意味で資本主義とは異質な原理や価値を内包する社会像を要請することになるだろう。こうした文脈において、「ポスト資本主義」と呼ぶべき社会の構想が、新たな科学や価値のありようと一体のものとして、思考の根底にさかのぼる形で今求められているのではないか。

 また、幸か不幸か、人口減少社会として"世界のフロントランナー"たる日本は、そのような成熟社会の新たな豊かさの形こそを先導していくポジションにあるのではないか。

 そうした可能性のビジョンを描くことが、本書の基本的な趣旨に他ならない。(以下略す)

 次回から「第三部」を読んでいくことにする。
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