2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(89)

終末論の時代(26)

「独占資本主義の終末」補充編(10)

羽仁提言「三つの原則」の検討(9)


原則2:「社会主義」(8)

<参考書2>
中谷巌著『資本主義以後の世界』(徳間書店2012年刊)

の続きです。

 TPP(Trans-Pacific Partnership 環太平洋パートナーシップ協定)の概要はTPP政府対策本部がアップしている「TPPの概要」で読むことが出来る。その内容は実に多岐に渡っている。まるで日本の全てをアメリカ様に差し出しましょうといった感がある。しかしここでは農業問題にしぼろう。

 TPP交渉に参加を最初に表明(2011年)したのはダメナ野田内閣だった。多くの農業関係者から反対の声が上がった。
(以下、「naver」というサイトの記事「TPPが農業に与える影響・問題点」を利用させて頂きます。)
例えば、農業関係者は次のように問題点を訴えている(出典表記は省略しました)。

"TPPで安い農作物が入ってくればもうやっていけない。野田首相には秋田に来て、生産地の苦しい現状を見てから判断してほしい。"(大仙市太田町横沢の男性)
"保護が必要な農家は守りつつ、徹底して農業を開放してほしい。"(秋田県大潟村の男性)
"外国産米の安さには、とてもじゃないが太刀打ちできない。壊滅的な打撃になる。"(茨城町のコメ農家)

 これらの声に対抗するようにダメナ野田内閣の閣僚たちは次のような発言をしていた。

"アジア太平洋地域は間違いなく成長のエンジンになるところで、その中で高いレベルの経済連携をしていくことは、日本にとってはプラスだ。"(野田佳彦・総理大臣)
"農業などへの影響を懸念して前に進まないことは許されない。"(前原誠司・政策調査会長)
"少なくとも今の段階では期限を切らず、農業関係者を含めた合意形成の努力をする。" (枝野幸男・経済産業相)
"早期に結論を出したい。"(玄葉光一郎・外務大臣)
"成長しなければ復興財源も社会保障財源も出てこない。この時代に日本だけが鎖国をしていていいというわけではない。"(小宮山洋子・厚生労働相)

 TPP参加賛成派の論拠を一つ紹介しておこう。山下一仁(キヤノングローバル戦略研究所研究主幹)と言う方が「農協がTPPに反対する本当の理由」という論文を書いている。その中の一節「TPPは農業にとっても必要」を引用する。
『農業にとってTPPは必要ないのだろうか。これまで高い関税で国内市場を守ってきたが、コメの消費は94年の1200万トンから800万トンに減った。今後は、人口減少でさらに減少する。海外の市場を目指すしかないが、輸出相手国の関税について、100%、0%のどちらが良いのかと問われれば、0%が良いに決まっている。日本農業を維持するためにも、外国の関税撤廃を目指して貿易自由化交渉を推進するしかない。TPPは農業のためにも必要なのだ。』

 つまり、輸出をすることによってしか農業は維持できない、関税撤廃は農業のためにも良いことだ、と言っている。しかし、この論理からは農業関係者の「安い農作物が入ってくればもうやっていけない」という結論も得られる。論理的に破綻していると思う。

 ダメナ野田内閣の閣僚たちや山下氏のような意見に対して、中谷さんは「TPPでは、日本は救えない」と言う。中谷さんはまず「自由貿易論」の歴史を振り返っている。

 2011年秋、野田首相は日本がTPP(環太平洋経済連携協定)の協議に参加することを表明した。TPP参加に賛成する人たちの意見を聞いていると、現代世界が大きな歴史的転換期に直面していることに全く気がついていないか、無関心であることを痛感させられる。「日本は貿易立国だから、自由貿易こそ日本経済の活性化の決め手になる」「日本がこれに参加しないと乗り遅れ、世界から孤立する」「わずか、1、2%の農業のために、日本を犠牲にするのは愚かである」といった内容がほとんどである。

 まず、自由貿易についてだが、本書で詳しく見てきたように、自由貿易が真に公正なかたちで実行されたのは歴史的に見てそれほど多くはなかった。イギリスの奴隷貿易や東インド会社から清王朝へのアヘンの密輸、アメリカのプランテーション経営によって産出された綿花などの原材料の大英帝国への廉価販売、先進国による石油など資源・原材料の供給支配など、多くは帝国主義的な権力・軍事力の行使による半ば強制的な貿易こそ、貿易の中身の大半を占めていた。

 また、そもそも本格的な自由貿易体制は、イギリスにおける1846年の穀物法廃止に端を発するが、基本的には綿織物工業を興した産業資本家階級(ブルジョアジー)が、穀物法によって保護されていた地主階級を牽制し、自らの利益に沿うかたちで構築されたものであり、すぐれて階級闘争的な色彩を持つものであった。現代でも、輸出産業は自由貿易によって所得を増やし、輸入産業は所得を減らすわけだから、自由貿易の是非は産業間の富の再分配をめぐる闘争という側面を強く持つ。

 もちろん、全体的に見れば日本は戦後の自由貿易体制の恩恵に大いに与ったことは間違いない。東西冷戦下、アメリカが自由主義諸国の経済力を強化するため、市場を開放し、日本やドイツの商品を大量に買いつけてくれたことが戦後両国の経済成長に大きな効果を上げたことは否定できない。中国にしても、2001年以降、WTOに参加し、自国の輸出を飛躍的に伸長させたことが長きにわたる高度成長を可能にした大きな要因のひとつである。

 しかし、自由貿易が求める規制撤廃、市場開放、構造改革は次第に日本の競争力を弱める働きもした。第三章で詳しく見たとおり、この「失われた20年」の間、日本はアメリカが要求する構造改革、規制撤廃などさまざまな自由化措置をとってきたが、それはむしろ、企業間の長期的取引関係の形骸化、日本が誇っていた「完全雇用文化」の喪失、社会における「信頼感」の喪失、所得格差拡大と貧困層の顕著な増加など、日本にとって失うことのほうが多かった可能性がある。実際、グローバルな競争が激化した結果、日本経済は恒常的なデフレに陥り、名目GDPは1997年の516兆円から2011年の470兆円にまで低下した(もっとも実質GDPは微増している)。アメリカが要求するクローバル・スタンダートは、時に日本の競争力を削ぎ、日本経済を弱体化させた可能性すらあるのである。

 言うまでもなく、経済学が説く「自由貿易理論」や「比較優位論」は、自由貿易の発展によって国ごとの社会体制が悪影響を受け、あるいは、「安心・安全」や「信頼」といった広義の社会資本が毀損されるといった負の側面についてはいっさい触れるところがない。あくまで、関税や規制を撤廃し、市場を開放すれば、すべての国が利益を受けるという表面的な主張にとどまっているのである。残念ながら、論理が単純であるだけにその主張は理解しやすく、それが国際政治へ与えた影響はきわめて大きい。しかし、本書が主張してきたことは、アメリカやイギリスが推進してきた自由貿易論は、普遍主義的な色合い(西洋的な基準こそ唯一、正しいという考え)が濃く、それぞれの国が培ってきた歴史や文化、社会的価値などについてはいっさい不問に付しているがゆえに、危険な思想にもなりうるということである。

 続いて中谷さんはTPPが農業に与える問題を論じている。

 TPPは、日本に農産物の自由化、関税引き下げを要求するだけのものではない。それはおそらく、2008年まで続いていた、アメリカ政府から日本政府へのオフィシャルな構造改革要求である「年次改革要望書」と同じ役割を果たすものと思われる。なぜなら、TPPは関税撤廃だけでなく、金融、電子取引、電気通信などのサービスの自由化、公共事業や物品などの政府調達の自由化、技術の特許、商標などの知的財産権、投資のルール、衛生・検疫、労働規制や環境規制の調和、サービス貿易の自由化(観光・留学・金融・弁護士医師等技術者)など、交渉項目が多岐にわたり、国民皆保険、食の安全の問題、海外労働者の流入など、農業分野以外についても広範な影響がある可能性があるからである。

 TPPに入らないと日本は世界の孤児になるということを言う人もいるが、そのような脅かしに乗る必要はない。第一、日本にとって決定的に重要な取引相手である中国や韓国が入っていないTPPに日本が入れば、それは中国から見れば「中国包囲網」と受け取られかねない。日本にとってより重要なのは、中国や韓国、および、他の多くのアジア諸国と緊密な信頼関係を創り上げることであって、アメリカがここに来て慌てて提案してきたTPPに焦って参加を表明する必要など全くなかったのではないだろうか。

 日本がTPPに参加するにしても、これを日本の再生のためにどう生かすかという、より明確な国益の観点から是々非々の対応をするべきだと思う。農業はどこの国でも手厚い保護をしている。日本のコメにかかっている関税はたしかに高いかもしれないが、農村や森林が保存され、日本の景観の豊かさが担保されているのである。自由貿易理論に従って、表面的な価格競争力で比較劣位にある商品はすべて輸入でまかなえばよいといった短絡的な議論からはそろそろ卒業してもよいのではないだろうか。

 人間生存の基本は太陽からの「贈与」なのである。その「贈与」を全面的に受け入れ、光合成を通じて(人間を含む)生物生存のための養分をつくり上げているのが農業なのである。これほど根源的な活動に従事している農業を悪者扱いし、軽薄な自由貿易論によって破壊しようとしているのは許されるべきことではないと思う。

 「北の国から」の倉本聰氏は、TPPについて「私は経済の専門家ではないし、直感的な言い方しかできないけれど、土に触れたことがない人たちの議論が続いているように思いますね。それで大丈夫なのか、不安感があります」と述べている(朝日新聞2011年12月9日朝刊)。彼はさらに付け加える。「農林漁業は統御できない自然を相手にするところから始まっている。工業は、すべてを統御できるという考え方に立っている。……統御できるもので勝負して、統御できないものは切り捨てる。そういう考え方が、TPPの最大の問題点だと思えるんです」
「自然を征服できなければ、その土地を捨てて、次の場所へ移ればいい。それが米国流の資本主義の思考じゃないかな」
 さらに引用することを許していただきたい。「日本というスーパーカーに付け忘れた装置が二つあると思う。ブレーキとバックギアですよ。……前年比プラス、前年比プラスと、ひたすらゴールのないマラソンを突き進んでいる」
「ブータン国王が先日、来日しましたよね。国王の姿を見ていると、実に素朴で、田舎の村長みたいだけど、日本人より人間の格が上だという気がするんです」

 もうこれくらいで十分だろう。倉本氏は大地に密着した生活を取り戻すことの重要性を繰り返し述べているのである。ヤハウェが人々を大地から切り離そうと懸命に画策して以来、人間は西洋主導の資本主義の波に乗って、見事に大地から切り離された存在になった。大地から切り離された人間は、自分が住んでいた共同体の軛からは逃れることができたが、それは同時に家族を解体し、社会のつながりを棄損し、「無縁社会」をつくり、世界をグローバル資本のなすがままに任せてしまった。おまけに、「生態圏」では処理不可能な原子力や核を持ち込み、人類を存亡の危機に落とし込んでいる。自然に敬意を払わない近代哲学が幅を利かした結果、自然はとことん搾取され、地球環境は破壊され尽くそうとしている。

 中谷さんは資本主義後のあるべき未来社会を構想するためのキーワードとして「文明の転換」を提唱して議論を重ねてきた。最後にこれまでの議論をまとめた最終節を引用しておこう。

「文明の転換」をいかに実践するのか

 人間的な温かみのある「超高齢社会」をつくるにしても、「還付つき消費税」で貧困の撲滅を図るという考え方にしても、「里山を復活させ、農業を復活させる」考え方にしても、共通しているのは、われわれがかつて持っていた「贈与」の精神を思い起こすことの重要性である。本書が一貫して主張してきたのは、過剰な「交換」の思想から「贈与」の精神への「文明の転換」こそが現代世界のさまざまな問題を克服する上での前提条件ではないかということだ。

 そして、我田引水に聞こえるかもしれないが、この「交換」から「贈与」への「文明の転換」を主導できる国は日本以外にはないのではないかということである。なぜなら、日本は明治以来、西洋的思想を取り入れ、急速な近代化を果たしたが、それまでの日本人の生活ぶりはグローバル資本主義を推し進めてきた西洋的思想とは対極にあったからである。自然は征服の対象ではなく、共存すべき対象であり、社会は庶民が中心に位置し、階級社会的色彩は希薄だった。人と人との長期的信頼関係を大切にし、「交換」の思想だけでは社会がうまく立ちゆかないこともよく知っていた。明治以来の近代化の過程で、日本人の行動はたしかに西洋化したが、和魂洋才という言葉にあるとおり、西洋的価値観を心底から信じていたわけではなかった。東北を襲った東日本大震災の被災者たちがテレビの映像を通じて世界に示した互助の精神、あるいは「贈与」の精神は、多くの日本人に昔を思い出させた。おそらく、多くの日本人は無意識のうちに、自分たちが「遠くに来すぎた」ことを感じたのではなかっただろうか。それが行きすぎたグローバル資本主義への反省となって表れてきているのではないだろうか。

 はたして日本は「文明の転換」を主導することができるのかどうか。もちろん、自動的にそのような困難な仕事が達成されるはずはない。それができるかどうかは、われわれ自身の意識改革ができるかどうかにかかっている。しかし、少なくとも近代以前の日本人は自然からの「贈与」のありがたみを深く理解していた。「自分たちは自然の恵みによって生かされている」という自然に対する感謝の気持ちは、日本人にとってはきわめて自然な感情であった。実際、伝統的な日本文化の多くは、自然に対する慈しみの感情を軸につくり上げられており、一神教のような人間が自然の管理者であるといった考え方や「人間と大地の隔絶」という発想はなかった。日本人本来の「贈与」の精神、伝統的な自然観、価値観、美意識は日本が近代化する過程で相当程度失われたともいえるが、それらを取り戻すことは決して不可能ではない。日本人の心の中には奥深いところでそのようなDNAが残されていると信じたい。

 大事なのは、日本が「交換」から「贈与」への「文明の転換」を意識し、資本主義が行き詰まった後の「資本主義以後の世界」を主体的に構想していくことができるかどうかだ。世界史の大きな転換期にあって、日本人が「文明の転換」を主導するためには、日本人自身が近代化の過程で置き忘れてきてしまった日本の伝統的価値を思い起こすことこそが必要不可欠なのだと思う。

 しかしながら、「交換」の思想から「贈与」の思想への「文明の転換」はあまりにも根源的な問題を含んでいるため、現実的に考えた場合、現代の人間にはとても手に負えないように見える。たしかにそのとおりだ。本書で主張してきたことなど、多くの現実主義者にとっては絵空事にすぎないだろう。たしかに、現実主義者なら歴史の大きな流れを変えることなど、そもそも人間の意志でできるものではないという考え方になるのかもしれない。「文明の転換」と気軽に言うけれど、それを指導する人間はこの世に存在するのか。あるいは、民主主義という政治体制の中で、それを実行に移すことができる高邁な志を待った政治家が選出されてくるといったことを期待することなどできるのか。

 そのとおりである。ジヤック・アタリが『21世紀の歴史』の中で看破しているように、人間が自己の欲求追求に汲々とする利己的な存在ではなくなり、自己の欲求を抑制し、「贈与」の重要性を知る利他的な存在になりうるのは、そうしない限り人類が滅亡するという世界の現実を実感できる時まで待たなければならないのかもしれない。そのような「文明の転換」は、「超紛争」が続き、人類滅亡が現実問題としてわれわれの眼前に立ち現れない限り不可能なのかもしれない。

 もしそうだとしたら、それはいつ頃のことになるのであろうか。アタリは今から50年ほど先だと予言している。しかし、人類が滅亡してしまってからでは間に合わない。人類が滅亡する前に、あるいは、核戦争のような悲惨な状況に陥る前に、いつか、誰かが、小さなことからでもよいからとにかく始めなければならないのだ。

 そして、それを始めるのは、ひょっとすると「あなた」なのかもしれない。
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