2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(88)

終末論の時代(25)

「独占資本主義の終末」補充編(9)

羽仁提言「三つの原則」の検討(8)


原則2:「社会主義」(7)

<参考書2>
中谷巌著『資本主義以後の世界』(徳間書店2012年刊)

の続きです。


 「自然観の転換」


 中谷さんはこのテーマについて「まえがき」の中で次のように論じている。

 「資本主義以後の世界」を構築する上で必要になるのは、何事も技術によって解決できるとする「過剰な技術信仰」や「自然は人間が管理すべきもの」という西洋的な自然観を改め、人間が自然の恵みに対してもっと「敬虔かつ謙虚」な気持ちを持つという意味での「自然観の転換」である。これがない限り、地球環境破壊はとどまるところを知らず、原子力のような人間が棲む「生態圏」の中では制御不可能な技術に人間が振り回される状況が続くことになるだろう。

 中谷さんは前回に紹介した『人間は「アトム化」から立ち直れるのか』に続いて『「農業の復活」に賭けるべきではないのか』と、農業問題を取り上げている。この一節では「自然観の転換」という言葉は使っていないが、私は「自然観の転換」のための一つの道筋として取り上げていると読んだ。まず、現在の日本の農業が置かれている状況を確認しておこう。

 経済学にイギリスの経済学者デヴィッド・リカードが提唱した「比較優位の理論」と呼ばれている理論概念がある。「比較生産費説」とか「リカード理論」とも呼ばれている。この理論については「ミニ経済学史(5)」では「比較生産費説」として取り上げて、かなり詳しく紹介している。ここでは中谷さんがまとめている説明を転載しておこう。それは
「それぞれの国が自国の得意とする産業に特化し、余剰分を輸出するとともに、自国の不得意な産業からは撤退して必要な製品については輸入によってまかなえばよいとする国際分業理論の基本的な考え方」
である。

 中谷さんは「日本はこの理論に最も安易に加担してきた国のひとつである」と言う。その結果、日本が選んで進めてきた経済政策は
「日本は農業に適した国土が狭小なので、農業は広大な土地を有するアメリカやオーストラリアに任せればよい、日本は得意な自動車や家電を輸出することに特化し、農産物については輸入すればよい。」 であった。中谷さんはこの政策を次のように批判している。

 しかし、実は、西洋諸国の多くは「これはあくまで建て前」と考えており、日本のように極端に農業を切り捨ててきた国はほとんどない。ジャック・アタリは『21世紀の歴史』(林昌宏訳、作品社)の中で、やがて世界は「超紛争の時代」に入り、食糧の奪い合いで各国は絶えざる紛争に悩まされることになると予告している。やがて世界は、飢餓で絶望した難民が国境線を越えるようになり、それが「超紛争の時代」の引き金になるというのである。

 本日(8月30日)の東京新聞朝刊のコラム「時代を読む」で浜矩子さんが「人々が荷物と化す時」と題してヨーロッパ諸国に流れ込む難民が年々増加し続けている深刻な問題を取り上げていた。新聞の報道でもほとんど毎日難民に関する記事が掲載されている最近の記事の表題少し拾ってみると次のようである。
○「地中海で難民3千人救助、伊当局50人超の死亡確認」(8月27日)
○「東欧、難民対策を厳格化 フェンス損壊に禁錮刑も」(8月26日)
○「ギリシャで難民登録を 不法移民阻止へ独首相」(8月25日)
 浜さんはその論説を次のように結んでいる。

 要は、欧州全土が国境を越える人の洪水にのみ込まれつつある。だからこそ、欧州全土が一体感をもって対処しなければならない。だが、そういうことになればなるほど、国々が一体になれず、わが身のことしか考えない。人間という名のお荷物を押し付け合う。たまらないのは、押し付け合いの対象となる人々だ。

 もとより、これは欧州だけの問題でもない。ヒト・モノ・カネが国境を越える今、誰にとっても、対岸の火事というものは存在しない。国境を越えて、全ての国々が一体感を共有する。それができなければ、人類も終わりだ。

 中谷さんの日本の「比較優位の理論」による経済政策批判に戻ろう。

 経済学が説くところの「比較優位論」はあくまで建前であること、さらに国際紛争が頻発する世界では理論通りに事が運ぶことは期待できないことを理解しなければならない。

 そういう事情があるため、どの国も、国民生活の基本である農業については、さまざまなリスク管理の方策、および農業保護のための施策を講じている。農産物輸出国であるアメリカやオーストラリアですら同様であるが、農産物輸出国である両国は自国の保護政策については不問に付しながら、自由貿易理論を振りかざし、市場開放を追ってくる。
(管理人注:アベコベ政府がアメリカに追従して公約を破って参加しているTPPがまさにそれだ。)

 しかし、それに軽々と乗ってしまっては、国の安全は守れない。農業の競争力を強化し、自由化しても日本の農業が壊滅しないようにすることはとりわけ重要である。また、日本の安全かつ美味な農産物はやり方次第では十分、外国からの農産物に対抗する競争力を身につけることも可能である。しかし、日本の農業を強くするための産業政策を十分に講じることなく、ただ単に「競争力のない農業」からは撤退して、なんでも輸入品でまかなえばよいとする無批判な自由化論には反対せざるをえない。

 いずれにしても、「比較優位論」だけで、日本の農業を壊滅させてはならない。日本も農業再生のための強力な政策を打ち出すこと、また、できるかぎり早く再生エネルギーの開発を進め、石油を使わないかたちで食糧を自給できるような態勢づくりを目指さなければならない。現在のように、石油依存の農業で食糧自給率が40%にまで下がっている状態では非常にリスクが高いと言わざるをえない。

 世界の主要国の食糧自給率を高いほうから挙げれば、次のとおりである(2003年統計)。

・オーストラリア=237%
・カナダ=145%
・アメリカ=128%
・フランス=122%
・スペイン=89%
・ドイツ=84%


 これらの国々より低いイギリスやイタリアでも、食糧自給率はそれぞれ70%、62%を保っている。日本のように、40%という惨状を呈している国はない。したがって、せめてイギリス、イタリア並みの自給率60~70%を目指して、農林水産業の拡大をはかるべきであろう。

 農業振興を強調するのは、稲作文化の日本には、小麦や大麦を主たる収獲物とする欧米の農業とは違った利点があるからでもある。

 欧米ではまず畑を大規模化して大きな濯漑システムをつくり、そして地下水をどんどん吸い上げる。紀元前3000年紀に栄えたシュメール文明は地下水を大量に使いすぎて滅びたことはよく知られている。ところが稲作の場合、水田に必要な水は川から引いたり、森の保水能力を高めたりして確保している。そのため、農業自体の大規模化は起こらず、そのおかげで自然が保全されたのである。

 その意味で私は、日本の経済学者がしばしば口にする「農業を大規模化して効率を上げろ」という意見には必ずしも賛同できない。「農業の大規模化」は場合によっては日本農業の競争力を強化するという点では意味があるが、その場合にも、農村という地域共同体が適切に保全されるという条件は守られなければならない。アメリカ流に農地を大規模化し、トラクターを使って力ずくで開拓して、ヘリコプターから大量の農薬を撒くというような農業を始めたら、日本の農業はかえって崩壊するのではないか。もちろん、美しい日本の農村は消滅し、環境問題も悪化するに決まっている。日本農業の競争力がそれによって高まるとも思えない。

 私が農業の復活を提唱する背景には、

 「石油をできる限り使わないかたち」で農業の競争力を強化し、食糧自給率を上昇させる

 美しい国土、美しい農村共同体をつくるというふたつの狙いがある。

 農村には豊かな自然環境、地域独自の文化、多様な動植物など、さまざまな"地域資源"がある。つまり、農村は食糧を供給するだけでなく、その生産活動を通じて国土保全や水源の涵養、文化の伝承、地域共同体の復権といった多面的な役割を果たすことができるということである。農業という「作用」の面だけでなく、農村という「場」も総体的に捉えて、農業全体を復活させなければならない。もっとも、現実の農村は零細兼業農家の所得保障の問題や農協の役割の問題など、きわめて複雑な問題を抱えており、ここで詳細な政策論に立ち入る余裕はない。

 しかし、長期的には、脱原発、石油資源の枯渇、価格高騰にともなう将来のエネルギー不足に備えて、農村が太陽光発電や風力発電、バイオマスなどを動員することにより、地域ごとに自律分散型の電力供給システムを構築することも農業の自立にとっては重要になるだろうということは強調しておきたい。

 ここで中谷さんは「自然観の転換」という観点から、「里山」の思想に目を向ける。

 日本には「里山」の思想があった。里山というのは、京都大学教授で森林生態学者の四手井綱英氏の造語だといわれているが、集落や人里に接するこんもりとした森を待った山を指す。私たちの祖先は稲作を行うとき、必ず里山をつくって保水能力を高めるとともに、そこに土地の神さまを祀ってきた。

 四手井氏がエッセイストの森まゆみさんの問いに答えるかたちでつくられた『森の人 四手井綱英の九十年』(晶文社)という本のなかで、里山における森の役割は次のように整理されている。

「一、森は人に安らぎを与える、二、風水害をふせぐ、三、川の水をきれいにする、四、植物や動物が育つ条件をととのえる、五、温度を低くしたり、騒音を防止する、六、もちろん木材を生産する」(191~192頁)

 そして「一番大事なことは、森が炭素を貯蔵すること」だとしている。「地球の陸地の30パーセントが森ですが、その森林が固定し保存している炭素の量は空気中の炭素の量に等しく、また林地に腐植として含まれる炭素の量もそれとほぼ等量です。つまり空気中の炭素の二倍を森がたくわえている。工場が生みだす炭酸ガスまでは吸えないにしても、もし森を破壊してしまったら、空中の炭酸ガスはずっと多くなる。(中略)森を切ればいままで貯蔵していた炭素が出る。その量は大きいです」(192頁)

 国際日本文化研究センター教授の安田喜憲氏によれば、江戸時代の日本人は森林をことのほか大事にしていた。「木一本が首一つ、枝一本が腕一つ」という言葉にあるとおり、「山の木を盗んだ者は、即刻打首になった」(『蛇と十字架~東西の風土と宗教』人文書院、223頁)。

 里山の保存と森の大切さを力説してきた四手井氏も、先の本のなかでこうつぶやいている。
「やっぱり人間も自然の一部だということをはっきり認識しないとね、人間が自然の外にあるという考え方をやめんといかんのじゃないかなあ」(193頁)

 こうした昔ながらの日本的自然観に基づいて「環境立国」を進めていけば、日本は世界的に見ても環境破壊の少ない、美しい農村を保全している貴重な国として認知されるようになるのではないだろうか。地方は穏やかな農村と「里山」、京都や奈良は「古都」、東京は「森の都」といわれるようになれば、日本のプレゼンスは一気に高まることであろう。

 上の引用文の後、中谷さんはTPP問題を取り上げている。中谷さんは、資本主義の歴史を俯瞰し、「資本主義の以後」をも見据えてキチンと批判している。ネット上では、私が調べた限りでは、こうした観点を持ってPTTを論じている論文は見つからなかった。そういう意味で中谷さんのTPP論は貴重だと思った。そこで、『資本主義以後の世界』の紹介は今回で終わる予定だったが、もう一回続けることにした。次回はこのTPP批判と、「文明の転換」をまとめた最終節を紹介する予定です。
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