2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(87)

終末論の時代(24)

「独占資本主義の終末」補充編(8)

羽仁提言「三つの原則」の検討(7)


原則2:「社会主義」(6)

<参考書2>
中谷巌著『資本主義以後の世界』(徳間書店2012年刊)

の続きです。


 「交換の思想」から「贈与の思想」への転換

 中谷さんは、「交換」から「贈与」への転換が必要とされる具体的事例として「超高齢社会」を取り上げて、『豊かな「超高齢社会」をどう創造するか』を論じている。とても興味深い論考だが、その論考の直後に、その問題を一般化した問題として『人間は「アトム化」から立ち直れるのか』という表題での論考が続いている。この後者の論考を紹介することにする。

 これまで詳細に見たように、高齢社会の根本問題は「個人の孤立」である。

 資本主義は人間の大地からの遊離、社会からの孤立、そして人間の「アトム化」をもたらした。資本主義は人間を「労働力」として捉えるから、たとえば家族などというものの価値は下がってしまう。家族の価値は(値段がつくわけではないから)市場では評価されない。その結果、家族にはなんらの価値がないかのように放置されてしまうのである。いや、誰がどれだけ稼げる仕事をするかということだけが問題にされるため、家族との団らんは犠牲にされてしまう。

 地方の疲弊が問題視されているが、その原因は、資本がそれぞれの地域の事情などは無視して、利潤を追求してきたことに求められる。資本が見放した地域は過疎化し、人々は仕事を求めて動かざるをえなくなる。すると、ますます過疎化が進み、地域共同体は崩壊する。人の移動が激しくなれば、人と人との地縁もなくなり、社会における長期的な信頼関係や安定的な人間関係もなくなってしまう……。

 かつての農村には、たとえば「結」と呼ばれる制度があった。田植えや刈り入れの時期にはみんなで助け合うシステムである。大水が出れば住民総出で決壊した堤防をふさいだ。どこかの家が火事になれば、みんなで消火に当たり、家を直し屋根を葺いた。そういうかたちで人と人が結ばれていた。貧しい人がいれば、当然のように村全体で面倒を見た(「贈与」の精神、「互助」の精神が自然にそうさせた)。

 ところが都市化が始まり、農業が衰退すると、農村共同体も消滅してしまう。そうなったとき、日本でかつての農村共同体に似たコミュニティの役割を果たすようになったのが企業であった。いまはほとんど見られなくなったが、年に一度は社員旅行があり、温泉へ出かけ、宴会を開いて懇親を深めたものである。社員の家族も参加する「○○会社大運動会」なども開かれていた。

 当時の日本企業は「完全雇用文化」を持ち、人と人との長期的信頼関係をベースにした日本的経営を行っていた。これは、日本的経営に競争がなかったということでは決してない。むしろ、社員は長期にわたって多くの職場を経験し、多くの上司に仕え、それぞれの職場で仲間の期待に応えなければならなかった。「完全雇用文化」にはそれだけの厳しさもあったのだ。実は、戦後の日本企業はそんなふうにして伝統的な農村共同体に代わる、人と人をつなぐ役割を果たしていたのである。

 その企業がグローバル資本主義の波に呑まれ、共同体の役割を放棄するようになってしまったのがここ20~30年の現象だ。田舎からも離れ、核家族化で地縁・血縁が薄れ、企業という疑似共同体をなくした日本人は、「アトム化」せざるをえなかった。

 「アトム化」というのは、社会における人間関係が薄れ、人が砂粒のような「個」に分解してしまうことである。社会には「国家」と「個人」しか存在しなくなってしまい、近所づきあい、家族、仲間といった中間組織がなくなってしまった。そこで国が福祉予算を組んで、「アトム化」した個人を救済すべく、年金などの社会保障を強化せざるをえなくなった。社会保障とは、近代化が進み、共同体が崩壊し、個人が「アトム化」したことに対する国家によるとりあえずの救済システムに他ならない。

 このように「アトム化」した「個人」を、「とりあえずの救済」ではなく、根本的に変革する方策として、中谷さんは『「還付つき消費税」で「分厚い中間層」を復活』させることを提言している。

 国による現金救済システムとしての社会保障には、個人の「アトム化」を根本から是正する力はない。しかし、それは設計次第では、富裕層から貧困層への意味ある「贈与」にもなりうる。

 ここでは、所得格差の拡大によって引き起こされた中間層の崩壊という問題に対する処方箋を提案したい。

 これまで何度か述べてきたように、歴史的に見ても日本は階級社会ではなかった(拙著『日本の復元力』『資本主義はなぜ自壊したのか』参照)。言いかえれば、中間層・庶民層が中核として活躍してきた社会である。それが日本の競争力の源泉にもなっていた。多くの国民が自嘲気味に「一億総中流」と言っていた30~40年ほど前の日本社会には勢いがあった。だからこそ、驚異的な経済成長も可能だった。ところが今日では「一億総中流」は夢物語となった。貧困が深刻な社会問題となってしまったからである。フリーターとかワーキングプア、さらには「プレカリアート」(不安定な立場に置かれた無産階級)という言葉まで生まれている。

 「完全雇用文化」も消滅し、非正規社員(嘱託、派遣従業員、パートなど)の全就業者に占める割合は4割近くにまでなった。その結果、組織に対する帰属意識、責任感、当事者意識が薄れ、さらには「自分は疎外された人間である」とさえ感じるようになる。その結果、日本企業の競争力の源であった現場力が失われる。

 先にも言及したコロンビア大学名誉教授のドナルド・キーン氏は、日本に帰化した理由に関して、「日本人にはとても親切にしてもらった。日本人には恩義を感じているからだ]と語っていた。穏やかな社会、人に親切にする思いやりの文化、そして豊かな自然と、日本ならではのよさがある。キーン氏にしても、アメリカ社会にいるよりも日本社会にいるほうが居心地がよいと感じてこられたに違いない。そうでなければ、コロンビア大学の名誉教授が89歳にもなって日本に帰化するはずがない。

 だが二極化が進み、日本を支えてきた分厚い中間層が弱体化すれば、そういう温かい社会も消え、人間関係もギスギスしたものになってしまう。本来のあるべき解決策は、競争力のある「完全雇用文化」を復活させ、分厚い中間層を再生させることである。しかし、それには時間がかかる。そこで、とりあえず、貧困層に対して「贈与」の手を差し伸べる所得再分配政策を提案したい。

 貧困層に対する「贈与」の財源は消費税、所得税の増税、富裕税の創設などによって調達する以外にはありえない。もちろん、増税には反対意見が多いが、要はそれでなにをするのかということだ。私の提案は、日本社会の急速な貧困化を阻止し、「分厚い中間層の復活」のため増税をするというものである。

 仮に、消費税を20%とした場合、貧困者対策をどうするのか。

 消費税は国民全員に均しくかかる税だから、貧しい人であれ富裕層であれ、なにかを買えば必ず20%かかってくる。これでは貧しい人の負担が大きくなるばかりである(逆進性)。実際、消費税が20%となったとき、年収200万円の人の負担額は(全収入を消費に回したとして)40万円になる。年間消費額が1000万円の人は、200万円の税負担をするが、それでも800万円は手元に残る。消費税にはそうした逆進性の問題がある。

 そのために、私かかねてから主張し続けてきたのは、消費税率のアップと同時に貧困者に対する還付制度を導入するというプランである(詳しくは、たとえば、『資本主義はなぜ自壊したのか』参照)。「貧困者」にのみ還付金を支払うのが理想的だが、「貧困者」をどう定義するかという技術的に難しい問題が出てくるので、仮に国民全員に毎年、無条件に20万円の給付をすると仮定する。すると、親子、子供二人の標準家庭を例にとって話をすると、消費税を20%にした場合、年間消費が400万円の家庭が支払う消費税は80万円であるが、還付金が80万円(20万円×4)あるので、この家族が支払う消費税額は差し引きゼロである。つまり、この家族の消費税率はゼロ%ということになる。しかし、年間消費1000万円の家族が支払う消費税額は200万円、還付金80万円、差し引き120万円の税額となり、この家族にとっての実質消費税率は12%になる。年間消費2000万円の家族は、消費税400万円、還付金80万円、差し引き320万円の税額となり、消費税率は実質16%という計算になる。

 貧困層の実質消費税率は低く抑えられ、金持ちになればなるほど、実質消費税率は20%に近づいていく。この例で行くと、年間消費が400万円以下の家族にとっては、手取り収入が増えていくという仕組みである。たとえば、年間消費が200万円の家族は消費税40万円、還付金80万円で、差し引き40万円の手取り収入の増加が見込める。

 もちろん、具体的な制度設計についてはさらなる検討が必要であることは言うまでもないが、このような還付制度を併用すれば、消費税に固有の問題といわれてきた逆進性の問題は解消する。すなわち、消費税を引き上げても還付金制度を併用することにより、貧困者がさらに困窮化するという問題は回避できるだけでなく、極貧層は大きな恩恵を受けることができるようになる(このような考え方は、いわゆる「ベーシック・インカム」の考え方に近い)。
(管理人注:ベーシック・インカムとは「すべての人に必要最低限の所得を給付する」という社会政策。オランダ第4の都市ユトレヒトで、この制度の有用性を確認するため、2016年1月から実験的に導入することを予定しているそうだ。なお、「ミニ経済学史(20)」で、フリードマンが「ベーシック・インカム」と同じような制度を、「負の所得税」と名付けて提案していることを紹介している。)

 ちなみに北欧諸国では、国民の負担率は70~75%に達する。汗水流してせっかく手にした所得の70~75%を国に取られてしまうのは、誰でもいやであろう。だが実際にスウェーデンやデンマークに行って話を聞くと、彼らはこの高い国民負担率をそれほどいやがっていないのだ。国がすべての面倒を見てくれるから老後の不安はないし、教育も医療もすべて無料である。失業しても職業訓練は充実しているし、失業保険給付も非常に長期かつ高額を保障されている。このように、所得の70~75%を税金や社会保険料で徴収されていても、それに見合った安心・安全を保障されているから「これでいい」と言うのだ。

 日本で北欧と同じことをせよというつもりはないが、日本の競争力の源泉であり、豊かな社会をつくる上で不可欠と思われる「貧困層の撲滅」「分厚い中間層の復活」を目指した、大胆な政策が必要になっていると思う。

 「社会主義とは何か」 で、吉本隆明さんの論考を引用したが、そこで吉本さんは「理想の原型としての社会主義は、単純で明噺な数個の概念で云い尽すことができる」と言い、四点の要件を挙げていた。その第一点は
『貨労働が存在しないことである。いいかえるとじぶんたち自身の利益に必要な社会的な控除分をべつにすれば、誰もが過剰な労働をする必要がないことである。』
だった。この意味で、上の中谷さんの構想は理想的な社会主義社会への一つの道筋と言えるのではないだろうか。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(87)

終末論の時代(24)

「独占資本主義の終末」補充編(8)

羽仁提言「三つの原則」の検討(7)


原則2:「社会主義」(6)

<参考書2>
中谷巌著『資本主義以後の世界』(徳間書店2012年刊)

の続きです。


 「交換の思想」から「贈与の思想」への転換

 中谷さんは、「交換」から「贈与」への転換が必要とされる具体的事例として「超高齢社会」を取り上げて、『豊かな「超高齢社会」をどう創造するか』を論じている。とても興味深い論考だが、その論考の直後に、その問題を一般化した問題として『人間は「アトム化」から立ち直れるのか』という表題での論考が続いている。この後者の論考を紹介することにする。

 これまで詳細に見たように、高齢社会の根本問題は「個人の孤立」である。

 資本主義は人間の大地からの遊離、社会からの孤立、そして人間の「アトム化」をもたらした。資本主義は人間を「労働力」として捉えるから、たとえば家族などというものの価値は下がってしまう。家族の価値は(値段がつくわけではないから)市場では評価されない。その結果、家族にはなんらの価値がないかのように放置されてしまうのである。いや、誰がどれだけ稼げる仕事をするかということだけが問題にされるため、家族との団らんは犠牲にされてしまう。

 地方の疲弊が問題視されているが、その原因は、資本がそれぞれの地域の事情などは無視して、利潤を追求してきたことに求められる。資本が見放した地域は過疎化し、人々は仕事を求めて動かざるをえなくなる。すると、ますます過疎化が進み、地域共同体は崩壊する。人の移動が激しくなれば、人と人との地縁もなくなり、社会における長期的な信頼関係や安定的な人間関係もなくなってしまう……。

 かつての農村には、たとえば「結」と呼ばれる制度があった。田植えや刈り入れの時期にはみんなで助け合うシステムである。大水が出れば住民総出で決壊した堤防をふさいだ。どこかの家が火事になれば、みんなで消火に当たり、家を直し屋根を葺いた。そういうかたちで人と人が結ばれていた。貧しい人がいれば、当然のように村全体で面倒を見た(「贈与」の精神、「互助」の精神が自然にそうさせた)。

 ところが都市化が始まり、農業が衰退すると、農村共同体も消滅してしまう。そうなったとき、日本でかつての農村共同体に似たコミュニティの役割を果たすようになったのが企業であった。いまはほとんど見られなくなったが、年に一度は社員旅行があり、温泉へ出かけ、宴会を開いて懇親を深めたものである。社員の家族も参加する「○○会社大運動会」なども開かれていた。

 当時の日本企業は「完全雇用文化」を持ち、人と人との長期的信頼関係をベースにした日本的経営を行っていた。これは、日本的経営に競争がなかったということでは決してない。むしろ、社員は長期にわたって多くの職場を経験し、多くの上司に仕え、それぞれの職場で仲間の期待に応えなければならなかった。「完全雇用文化」にはそれだけの厳しさもあったのだ。実は、戦後の日本企業はそんなふうにして伝統的な農村共同体に代わる、人と人をつなぐ役割を果たしていたのである。

 その企業がグローバル資本主義の波に呑まれ、共同体の役割を放棄するようになってしまったのがここ20~30年の現象だ。田舎からも離れ、核家族化で地縁・血縁が薄れ、企業という疑似共同体をなくした日本人は、「アトム化」せざるをえなかった。

 「アトム化」というのは、社会における人間関係が薄れ、人が砂粒のような「個」に分解してしまうことである。社会には「国家」と「個人」しか存在しなくなってしまい、近所づきあい、家族、仲間といった中間組織がなくなってしまった。そこで国が福祉予算を組んで、「アトム化」した個人を救済すべく、年金などの社会保障を強化せざるをえなくなった。社会保障とは、近代化が進み、共同体が崩壊し、個人が「アトム化」したことに対する国家によるとりあえずの救済システムに他ならない。

 このように「アトム化」した「個人」を、「とりあえずの救済」ではなく、根本的に変革する方策として、中谷さんは『「還付つき消費税」で「分厚い中間層」を復活』させることを提言している。

 国による現金救済システムとしての社会保障には、個人の「アトム化」を根本から是正する力はない。しかし、それは設計次第では、富裕層から貧困層への意味ある「贈与」にもなりうる。

 ここでは、所得格差の拡大によって引き起こされた中間層の崩壊という問題に対する処方箋を提案したい。

 これまで何度か述べてきたように、歴史的に見ても日本は階級社会ではなかった(拙著『日本の復元力』『資本主義はなぜ自壊したのか』参照)。言いかえれば、中間層・庶民層が中核として活躍してきた社会である。それが日本の競争力の源泉にもなっていた。多くの国民が自嘲気味に「一億総中流」と言っていた30~40年ほど前の日本社会には勢いがあった。だからこそ、驚異的な経済成長も可能だった。ところが今日では「一億総中流」は夢物語となった。貧困が深刻な社会問題となってしまったからである。フリーターとかワーキングプア、さらには「プレカリアート」(不安定な立場に置かれた無産階級)という言葉まで生まれている。

 「完全雇用文化」も消滅し、非正規社員(嘱託、派遣従業員、パートなど)の全就業者に占める割合は4割近くにまでなった。その結果、組織に対する帰属意識、責任感、当事者意識が薄れ、さらには「自分は疎外された人間である」とさえ感じるようになる。その結果、日本企業の競争力の源であった現場力が失われる。

 先にも言及したコロンビア大学名誉教授のドナルド・キーン氏は、日本に帰化した理由に関して、「日本人にはとても親切にしてもらった。日本人には恩義を感じているからだ]と語っていた。穏やかな社会、人に親切にする思いやりの文化、そして豊かな自然と、日本ならではのよさがある。キーン氏にしても、アメリカ社会にいるよりも日本社会にいるほうが居心地がよいと感じてこられたに違いない。そうでなければ、コロンビア大学の名誉教授が89歳にもなって日本に帰化するはずがない。

 だが二極化が進み、日本を支えてきた分厚い中間層が弱体化すれば、そういう温かい社会も消え、人間関係もギスギスしたものになってしまう。本来のあるべき解決策は、競争力のある「完全雇用文化」を復活させ、分厚い中間層を再生させることである。しかし、それには時間がかかる。そこで、とりあえず、貧困層に対して「贈与」の手を差し伸べる所得再分配政策を提案したい。

 貧困層に対する「贈与」の財源は消費税、所得税の増税、富裕税の創設などによって調達する以外にはありえない。もちろん、増税には反対意見が多いが、要はそれでなにをするのかということだ。私の提案は、日本社会の急速な貧困化を阻止し、「分厚い中間層の復活」のため増税をするというものである。

 仮に、消費税を20%とした場合、貧困者対策をどうするのか。

 消費税は国民全員に均しくかかる税だから、貧しい人であれ富裕層であれ、なにかを買えば必ず20%かかってくる。これでは貧しい人の負担が大きくなるばかりである(逆進性)。実際、消費税が20%となったとき、年収200万円の人の負担額は(全収入を消費に回したとして)40万円になる。年間消費額が1000万円の人は、200万円の税負担をするが、それでも800万円は手元に残る。消費税にはそうした逆進性の問題がある。

 そのために、私かかねてから主張し続けてきたのは、消費税率のアップと同時に貧困者に対する還付制度を導入するというプランである(詳しくは、たとえば、『資本主義はなぜ自壊したのか』参照)。「貧困者」にのみ還付金を支払うのが理想的だが、「貧困者」をどう定義するかという技術的に難しい問題が出てくるので、仮に国民全員に毎年、無条件に20万円の給付をすると仮定する。すると、親子、子供二人の標準家庭を例にとって話をすると、消費税を20%にした場合、年間消費が400万円の家庭が支払う消費税は80万円であるが、還付金が80万円(20万円×4)あるので、この家族が支払う消費税額は差し引きゼロである。つまり、この家族の消費税率はゼロ%ということになる。しかし、年間消費1000万円の家族が支払う消費税額は200万円、還付金80万円、差し引き120万円の税額となり、この家族にとっての実質消費税率は12%になる。年間消費2000万円の家族は、消費税400万円、還付金80万円、差し引き320万円の税額となり、消費税率は実質16%という計算になる。

 貧困層の実質消費税率は低く抑えられ、金持ちになればなるほど、実質消費税率は20%に近づいていく。この例で行くと、年間消費が400万円以下の家族にとっては、手取り収入が増えていくという仕組みである。たとえば、年間消費が200万円の家族は消費税40万円、還付金80万円で、差し引き40万円の手取り収入の増加が見込める。

 もちろん、具体的な制度設計についてはさらなる検討が必要であることは言うまでもないが、このような還付制度を併用すれば、消費税に固有の問題といわれてきた逆進性の問題は解消する。すなわち、消費税を引き上げても還付金制度を併用することにより、貧困者がさらに困窮化するという問題は回避できるだけでなく、極貧層は大きな恩恵を受けることができるようになる(このような考え方は、いわゆる「ベーシック・インカム」の考え方に近い)。
(管理人注:ベーシック・インカムとは「すべての人に必要最低限の所得を給付する」という社会政策。オランダ第4の都市ユトレヒトで、この制度の有用性を確認するため、2016年1月から実験的に導入することを予定しているそうだ。なお、「ミニ経済学史(20)」で、フリードマンが「ベーシック・インカム」と同じようは制度を、「負の所得税」と名付けて提案していること紹介している。)

 ちなみに北欧諸国では、国民の負担率は70~75%に達する。汗水流してせっかく手にした所得の70~75%を国に取られてしまうのは、誰でもいやであろう。だが実際にスウェーデンやデンマークに行って話を聞くと、彼らはこの高い国民負担率をそれほどいやかっていないのだ。国がすべての面倒を見てくれるから老後の不安はないし、教育も医療もすべて無料である。失業しても職業訓練は充実しているし、失業保険給付も非常に長期かつ高額を保障されている。このように、所得の70~75%を税金や社会保険料で徴収されていても、それに見合った安心・安全を保障されているから「これでいい」と言うのだ。

 日本で北欧と同じことをせよというつもりはないが、日本の競争力の源泉であり、豊かな社会をつくる上で不可欠と思われる「貧困層の撲滅」「分厚い中間層の復活」を目指した、大胆な政策が必要になっていると思う。

 「社会主義とは何か」 で、吉本隆明さんの論考を引用したが、そこで吉本さんは「理想の原型としての社会主義は、単純で明噺な数個の概念で云い尽すことができる」と言い、四点の要件を挙げていた。その第一点は
『貨労働が存在しないことである。いいかえるとじぶんたち自身の利益に必要な社会的な控除分をべつにすれば、誰もが過剰な労働をする必要がないことである。』
だった。この意味で、上の中谷さんの構想は理想的な社会主義社会への一つの道筋と言えるのではないだろうか。
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