2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(84)

終末論の時代(21)

「独占資本主義の終末」補充編(5)

羽仁提言「三つの原則」の検討(4)


原則2:「社会主義」(3)

 前に挙げた4冊の参考書がそれぞれ、「資本主義の終末」に向けてどのような未来社会を構想しているのか、一冊ずつ紹介していくことにする。発刊年順に読んでいくことにする。

<参考書3> エルヴェ・ケンプ著、神尾賢二訳『資本主義からの脱却』(緑風出版2011年刊)

 ケンプさんはジャーナリスト(フランス人)です。資本主義後のあり得べき社会について、次のように述べている。

 私たちは、資本主義以外の規範に准ずる社会に生きたいと思う。利益よりも共有財産を、競争よりも協同を、経済(エコノミー)よりも環境(エコロジー)を希求する社会である。

 それは、これから半世紀の人間的政治の目標として生物圏の崩壊を防止する。この目的の実現は物質的消費の削減を前提としており、社会正義なくしては到達できないのだとの結論に至った社会である。

 そのためには、どうすべきか?
 考え方を変えよう。私か「私」であると思っているものは、大きく私の文化的、金銭的財産に条件づけられた心理的生産物であり、私の「自由」とは、大きく社会的な相互活動に由来するものであり、私か「考える」ものとは、大きく私か理解を容認した結果である、としよう。この30年、かくも効果的に植えつけられてきた図式が逆転し、現実にはこんにち、個人主義が影を潜め、団結がよみがえっている。

 これは良い知らせである。団結が幸せを取り戻す。(以下略)

 そして、ケンプさんは「オルターナティブ(alternative 既存のものと取ってかわる新しいもの)はもうそこにある」といい、生活協同組合の歴史を振り返り、その代表的な例として、ケベック市(カナダ)の例を紹介している。

 20世紀初頭、ケペック人はイギリス系カナダ人の支配下で暮らしていた。文化的には否定され、経済的には搾取されていた。銀行は実業家しか相手にせず、普通の人が融資を受けたければ高利貸しのところに行くしかなかった。レヴィに住む元新聞記者がいた。その名を、アルフォンス・デジャルダンといった。デジャルダンは、ヨーロッパで当時飛躍的に盛り上がっていた生協運動を勉強し、これが政治的に認知されるためには経済的に成り立たねばならないと考えた。労働者も、農民も、一人では無力だ。しかし、みんなが数セントか数ドルを共同貯金に積み立てていけば、事業に融通できるし、ケペック人の解放の助けにもなる。

 こうして1900年12月6日、レヴィ市にケース・ポピュレール(Caisse Populaire=信用金庫)が誕生した。郷土史研究家の説明を聞こう。

「それは、人的組織であると同時に、一つの企業でもありました。メンバーは貯蓄を共有する協同組織をつくり、必要な時に頼りにできる融資用の貯金を設置しました。オーナーでありながら利用者でもある、『一人一票』の規則による民主的基盤の上に立った管理経営が行なわれ、個々の出資額はいくらでもよかったのです」

 預金受付の初日、26ドル40セントの入金があった。スタートこそささやかなものであったが、デジャルダン信用金庫は20世紀の年月を幾多の障害を乗り越えて成長し続け、ケペック人のアイデンティティの確立に貢献した。ケース・ポピュレールはこんにち、貯蓄市場の44パーセントを抑えるこの地方のトップ金融機関になっている。

 続いてケンプさんは、このような「個人的利益ではなく、共同の福祉のために資金資材を醵出して作られた経済組織はごまんとある」と、フランスでの例をたくさん挙げている。もちろん、このような組織が多く出来ただけでは資本主義を克服することは出来ない。例を列挙した後、ケンプさんは次のように述べている。

 この辺にしておこう。小さなエピソード、大企業、新しい組織、テクノロジーの有効利用……次々と湧き出てくる創意と工夫の泉の物語を詳述するなら、本書のような書物が何冊も必要になるだろう。地球上のいたる所で噴出する、実行と実体験の多彩な世界を探検することほど元気の出るものはない。ここにはフランスの例しか取り上げていない。すべての国、すべての大陸に、同じように花開く姿を見つけることができる。私たちには新しい世界を考え出す必要はない。新しい世界はもうそこにある。黄金の収穫をもたらすために耕されるのを待つ土のように、今そこで息をこらしている。

 しかし、蒔いた種が足並み揃えて芽を出してくれなければ、収穫はない。一人一人が、各グループが、それぞれの場所でちょっぴりユートピアを実現することはできる。それはたぶん楽しいことではある。しかし、体制のパワーが、各個が個人主義的行動をとっているという現実に根ざしている以上、単にこれだけでは体制は大して変えられない。同様に、「グリーン消費」で総商品化の論理をくつがえせないし、「オールタナティブ菜園」などで怯えるような資本主義も存在しない。なぜなら、「各個」が分裂し、連携することなく行動するのが資本主義にとって一番ありがたいことだからだ。オールタナティブは、資本主義が作り出した国の保護事業の弱体化を覆い隠すことになり、この事実を看過させ、逆に資本主義に手を貸すことにさえなる。その上オールタナティブは、別の基準で機能するシステム内に単独で組み込まれ、総体的所得配分には寄与しない。

 社会学者のアラン・カイエの問題提起は的を得ている。
「共同社会建設の意識性を持たせて、無数に存在する諸志向をいかに結集するのか?」

 肝心なことは、オルターナティブを始めることではないのだ。経済システムの中心に生協的精神を設定して、最大利潤主義を除外することである。資本主義から脱け出る政治運動の中にそれが位置づけられるなら、オルターナティブの実践も意味を持つ。

 しかし、「経済システムの中心に生協的精神を設定して、・・・・・・資本主義から脱け出る政治運動」の構築は難事業であろう。問題は現在の政治を牛耳っている財閥・官僚・御用学者・その手の内で踊る政治家たちの質の低さにある。彼らはどんな人物たちか。ケンプさんはとてもうまい比喩を使って説明している。

 街灯の下にいる真夜中の酔っ払いの話をご存知だろうか。通行人が通りかかる。
 「何をしてるんですか?」
 「ああ……ヒック、車のカギを探してるんですよ。あっちで落としたんですがね」
 「しかし……どうしてここで探してるんですか?」
 「だって、ここは明るいスから……」

 私たちを指導する知的最高権威も、夜中の酔っ払いと同じ、ピントのはずれた理屈に追随している。私たちの時代が抱える問題は、このような酔っ払いが権力の座にあるということである。

 しかし、健全な精神を待った人間が責任をとる時のことを考えなければならない。国内総生産以外の指標にしたがって経済を動かすこと、これが彼らの優先事項になる。

 これが、共有財産なのであり、一人だけの利潤をめざす一人だけの個人的イニシアチブでは持続的に管理できない領域を集団で引き受けることへと論理的に導く。

 世界中の先進国で、酔っ払いのような独占資本家の意を受けた酔っ払いのような知的最高権威が考え出した政策を酔っ払いのような政治的最高権力者が唯々諾々として実行している、というのが21世紀の世界情勢である。もちろん日本もそれに追従している。それが現在日本を破滅寸前にまで退化させているアベコベ政権のアベコベ諸政策である。
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