2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(83)

終末論の時代(19)

「独占資本主義の終末」補充編(3)

羽仁提言「三つの原則」の検討(2)


原則2:「社会主義」(1)

 羽仁さんが「社会主義」という用語でどのような社会を想定しているのか、「21世紀を生き抜くための原則(2)・(3)」で引用した文だけでは判然としないが、あえてまとめると次のようになろう。

 羽仁さんは、社会主義として「ロシアの社会主義革命」を念頭に置いていて、その基本的理念として「大衆の自由を実現する」ことを強調している。もう一つ、もしも日本が社会主義国家に移行できたならば、その社会主義国家が「国家の消滅」・「軍備の撤廃」などを経て、共産主義国家というユートピアを目指すことに大きな期待を持っていることがうかがえる。

 羽仁さんは最終章で社会主義についてもう少し詳しく語っている。そこに次のようなくだりがあった。

『ソ連の社会主義が共産主義に移っていこうとする段階にあった時に起こってきた問題が、ナチスとの戦争だね。社会主義が共産主義に移っていくなんていう偉大な事業が、ナチスと戦争しながらできるわけがないんだよ。したがって、ソ連の社会主義から共産主義への移行は、現実の問題になりえなかったんだ。』

 ソ連の解体は1991年だから、羽仁さんは『・・・大予言』の頃にはソ連にもまだ一抹の期待を持っていたのかもしれない。しかし、ここでも羽仁さんが言う「社会主義」「共産主義」の内実は判然としない。矢崎さんとの対話での論談だから厳密な論考を求めるのは筋違いかもしれない。

 ところで、先日たまたま「VIDEO NEWS」というサイトに「もしも共産党が政権の座に就いたなら」という記事がアップされているのを知った。動画は志位委員長へのインタビューをまとめたもので、43分もの長いものだった。現在の段階では共産党が政権を取るなど絵空事だから、動画を見るのはスルーしたが、その解説文は読んでみた。その中に共産党という党名にこだわる理由を問われて、それに志位さんが答えている文があった。次のようである。

『過去の記憶などから多くの人が抵抗を覚える共産党という党名について志位氏は、資本主義が人類の最後にして最良の制度ではないという主張の上に立ち、現在の資本主義がいずれは社会主義、共産主義に発展していく可能性を展望する政党という意味で、現在の党名への強いこだわりを示す。』

 ここで示されている「資本主義→社会主義→共産主義」という図式は羽仁さんが描く図式と同じである。たぶんこの図式がマルクスが描いたものとして一般に流布しているようだ。しかし、私はこれはいわゆる「マルクス主義」であって「マルクスの思想」に対する誤解だと思っている。私はマルクスの思想を充分に知っているわけではないので、独断的な説になることを覚悟で言うと、私は次のように理解している。

 私の理解によればマルクスか説いたのは共産主義だけである。つまり「資本主義→共産主義」という図式である。現在、社会主義国家と呼ばれているのは既に崩壊したソビエット国家に代表される「歪曲された共産主義国家」の謂である。「資本主義→社会主義→共産主義」という図式は今ではほとんど意味不明な図式である。

 以下、私は羽仁さんの「原則2」を「社会主義」ではなく「共産主義」と読み替えて、改めて「共産主義とは何か」を考えてみることにする(またまた長くなりそう)。

 そこでこの問題を論じている人はいないだろうかと、ネット検索をしていて二つの論文に出会った。
 岩佐 茂(一橋大学名誉教授)さんの論文
「3・11後にポスト資本主義論を構想するマルクスの視点から」
と、「草食系院生」さんの論文
「〈労働〉の未来-マルクスの未来社会論から考える1」(第2部・第3部・第4部と続く)
である。以下はこの2論文を利用させていただく。それぞれ<論文1>・<論文2>と呼ぶことにする。

 まず、<論文1>の第2章「マルクスのポスト資本主義論の基本的視点」から引用する。

 資本主義をラジカルに批判したのは、マルクスであった。彼は、資本の論理による人間の収奪(労働者の搾取)と自然の収奪を批判した。彼がポスト資本主義論として提起したのはコミュニズム(共産主義)であった。コミュニズムは共産主義と訳されて定着したが、共同主義といわれるべき方がより適切であるかもしれない。

 だが、マルクスの理念の実現を目指したはずの東欧の社会主義国は、マルクスの掲げた理念を色あせたものにして崩壊した。ここでは、その理由は問わない。マルクス後のマルクス主義、既存の社会主義国に彩られた社会主義のイメージではなく、マルクスその人の思想に即したポスト資本主義論を問うことにする。

 「コミュニズムは・・・共同主義といわれるべき」という指摘に同意する。「ロシア革命の真相」でも『吉本隆明の「ユートピア論」』でも「コンミューン型国家」が大事なキーワードになっていた。マルクスが論じていたのは「社会主義国家」ではなく「共同主義国家=コンミューン」であった。

 若きマルクスや『資本論』も含めて、かれの共産主義を特徴づけている基本的な視点を3点ほど指摘しておきたい。

 第1は、生活者の視点である。生活者とは、たんに消費者としての生活者を意味するのではなく、自然と社会的な交わりのなかで、労働し、飲食し、談笑し、余暇を楽しみながら、喜び、悲しみ、ときには怒りをあらわにして生きている人々のことである。生活者は、自らの生活をとおして、自己を表現し、生活を享受する。この生活者の視点は、若きマルクスより『資本論』にいたるまで貫かれている。
 生活者にとって、もっとも基本となるのは衣食住の欲求である。人間の衣食住の充足の仕方は、労働によって生産物をつくり、それを消費することによっておこなわれる。飲食し、呼吸し、排せつする外的自然との物質代謝と、衣服をまとい住まうことによる安全・安心や健康の確保が、その中心となる。

 第2は、疎外の視点である。『パリ手稿』では、「第一手稿」で「疎外された労働」が、「ミル評注」で「疎外された交通」が、そして「第三手稿」で「疎外された生活」が分析された。「第一手稿」では、疎外された労働に疎外されざる労働が対置されているだけであるが、「第三手稿」では、疎外の揚棄が論じられている。この疎外論の視点は、若きマルクスより『資本論』にいたるまで貫かれている。
 その特徴のひとつは、「私的所有の積極的揚棄としての共産主義」のテーゼにおいて語られている。マルクスは、現実の「私的所有」による疎外された否定的現実(「疎外された労働」と「疎外された交通」という「経済的疎外」とそこから派生する二次的疎外を含む「疎外された生活」全体)を具体的に、徹底して批判しつつ、そのうちに潜在的に含まれている肯定的契機を対自化・理念化することを通して、その対極に共産主義を構想したのである。
 もうひとつの特徴は、「人格の物象化と資本の人格化」という『資本論』で提起された物象化論にある。資本家が資本家であるためには、資本という物象に纏わりつかれて、人格が物象化され資本という物象を体現した経済活動を強いられるからである。物象化は、疎外の一形態である。

 第3は、アソシエーションとしての共産主義の視点である。アソシエーションは、「協同団体」あるいは「連合」「結合」といった意味である。マルクスは、共産主義を自立した「自由な諸個人のアソシエーション」としてとらえた。アソシエーションは、将来社会において突如として形成されるものではなく、疎外され、物象化された現実のなかでも、協同組合やNGO、社会的企業などのように、資本の論理にかならずしもとらわれていない組織や運動のうちに萌芽的にみることができる。

 マルクスの共産主義は、疎外され、物象化された現実の批判をとおして、自立した「自由な諸個人のアソシエーション」が実現される社会として構想されている。このアソシエーションの視点は、若きマルクスより『資本論』にいたるまで貫かれている。

 それゆえ、マルクスのポスト資本主義論は、資本主義の全面否定ではない。資本主義の否定的現実を疎外として批判しつつ、そのうちに潜在的に含まれる肯定的契機を共産主義として構想し、制度化しようとするものである。

 <論文2>の第4部の表題は「協同組合というアソシエーション-マルクスの未来社会論から考える」である。この「アソシエーション」も共産主義を理解するための大事なキーワードの一つである。(次回へ続く)
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