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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(81)

終末論の時代(17)

「独占資本主義の終末」補充編(1)

資本主義の現状


(ブログやメールのサービスを利用していた会社のサービス方法が変わった。その変更手続き作業が、私の中途半端な知識のせいで、以外と手間取ってしまいブログ更新が滞ってしまいました。久し振りに記事作成を始めます。)

 1970年代に羽仁さんが予言した「独占資本主義の終末」は現在いよいよその姿をあらわにしている。いま資本主義はどのような状況に陥っているのだろうか。

 資本主義の歴史とは無限の資本蓄積を求める歴史である。端的に言えば、利益を得るための収奪の歴史である。その観点から見ると、資本主義の終末は物的資源の収奪が限界に達していることと、資本家による労働者からの搾取、つまり人的資源の収奪が「99%対1%」と言われるほど末期的な状況になっていることに現れている。

 人的資源収奪の現在を的確に説明している書物はないかと、いろいろと調べていたところ、今日(7月9日)、毎日点検しているサイトの一つ「ちきゅう座」でこの課題にピッタリの記事に出会った。「グローバル資本主義の現状とゆくえ」というシンポジウムのために書かれたレジメで、著者は経済学者の的場昭弘さん。表題は「マルクスから見える資本主義の問題点」。内容は、いま評判のピケティが提起した問題を、エルネスト・マンデルというマルクス経済学者の「長期波動論」を用いながら、検討し直した論文だった。これをお借りすることにした。必要な方には本文をお読み頂くことにして、ここでは後半部分の「マンデルとピケティの議論を総合」した結論部分を引用する。

 マンデルは景気の上昇局面でもっとも重要な役割を果たすものは、労働者に対する搾取率の上昇であるという。マルクス経済学では一般に剰余価値率の上昇という言葉に表せられるが、マルクスの利潤率の低下を阻止する要因には、労働者の搾取率を引き上げることが筆頭に書かれてある。当然ながら、古い機械を使ったり、安い原料や燃料を確保したり、海外市場を見つけたりすることもそうした要因だが、もっとも決定的なものが、労賃の引き下げ、すなわち搾取率の増大である。

 ピケティの労働所得と資本所得の格差の問題を再度見てみよう。
1848年、1910年、1940年以後の資本所得の労働所得に対する割合の増大は、まさに利潤率を引き上げるために行われる労働者に対する締めつけと深く関係している。労賃の切り下げが、首切り、組合つぶし、海外からの安い商品の輸入、労働強化、労働日延長、非正規労働者の増大、そのいずれかで起こるかは別として、労賃の切り下げは不況から景気上昇局面において必ず現れる現象といえる。

 直近の1980年代で見ると、当時スタッグフレーションの最大の原因と目されたのは、労働者の賃金上昇で、その理由は労賃上昇がコストプッシュを引き起こすことで物価が上昇し、経済が停滞するということであった。激化する組合運動とストライキに対して、断固たる処置をとったのが、新自由主義者といわれる経済学者の集団であった。労働者に対する厳しい締めつけの結果、派遣法、累進課税の引き下げなどが導入され、労働所得の資本所得に対する割合は急激に減少する。
(アベコベ政権はこれを引き継いで、さらにあからさまに大企業優遇と労働者搾取を進めている。)

 ピケティが資本所得と労働所得の格差の広がりといっているのは、いわばこの過程で起こる現象といえる。しかし、その後は再び経済が成長し、労働者への所得配分も多くなるという、これまでの同じ現象が起こるはずである。しかし、1990年代以降の第四期には、そうなっていない。それはなぜか。
(マンデルは1848年~1893年までを第一期、1894年~1940年までを第二期、1941年~1970年代までを第三期としている。)

 そこには、もうひとつの問題が潜んでいる。利潤率の傾向的低落化の法則を阻止するためには、海外市場、新製品、人口増大といった前提が必要であった。これらの要因こそ、利潤率を引き上げる要因、すなわち労賃の減少、原料・燃料の低廉化、海外市場への移転の基本前提であった。しかし、現在この要因を否定する、新しい新製品、海外市場、人口増大の限界の問題を抱えている。1990年代はソ連・東欧市場を資本主義市場に組み入れ、現在はアフリカ、中東市場を組み入れているが、巨額になった過剰資本と過剰生産物を吸収する受け皿としては、十分なものではない。しかもそれが原因で、先進国の労働者の賃金も上昇せず、消費は低迷化せざるをえないという矛盾を抱えているのである。

 利潤率が低いことは、利子率が低いことであり、本来は不況期にあった状態が、慢性的に長期化しつつあるというのが、現在の資本主義の状況であるといってもよい。これが資本主義の終焉論というものになっているのである。このような議論は、かつてはマルクス経済学者の専売特許であったが、最近では近代経済学の論者の中にもそういう議論を展開するものが現れつつある。

 単純にリーマンショックを大恐慌と同じだものとすれば、大恐慌の後(戦争等のかなり衝撃的な処置があったがゆえに)資本主義は再度発展したわけで、再度復活する可能性はあるはずである。多くの人々がそうした神話を今も期待している。しかし、リーマンショックが、資本主義社会の長期停滞の結果起こったのだとすれば、問題の解決はかなり深刻であるといえる。蓄積した資本、それを信用化した資本は、もはや投資する先がないほど巨額になっている。地球という限界内での資本主義的発展の終焉が近づいているのかもしれない。しかし、これを乗り越えるために逆に戦争による徹底した破壊と殺戮が必要だとすれば、もはや資本主義的システムは限界に来ているのかもしれない。(前々回に触れたように、アメリカの「軍産複合体」が既に徹底した破壊と殺戮を初めている。)

 マルクス経済学の立場は、人間のための経済学、もっと広いことばでいえば、人間を含めた地球上のすべてのものの再生可能な自然の歴史として経済学であり、再び光があたることを期待している。

ここから教科書として
<参考書1>
水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』 (集英社2014年刊)
を用います。引用文は全てこの教科書からのものです。


 的場さんは「マルクス経済学の立場」の学者である。水野さんは経歴から判断するとたぶん「近代経済学の論者」である。的場さんが
「このような議論(資本主義の終焉論)は、かつてはマルクス経済学者の専売特許であったが、最近では近代経済学の論者の中にもそういう議論を展開するものが現れつつある」
と述べているが、水野さんの論説は的場さんの論説とほぼ同様である思う。水野さんの論説を追ってみることにした。

 経済史では資本主義による収奪の構造を「中心」と「周辺(フロンティア)」という概念で説明している。この概念を用いて資本主義を定義すれば、「資本主義とはフロンティアを広げることによって中心が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステム」である。

 資本主義社会を最も潤した収奪の典型例は宗主国(中心)による植民地(フロンティア)からの収奪である。この収奪によって、資本主義社会は我が世の春を謳歌していたが、第2次世界大戦後、多くの植民地が独立し、収奪可能な「地理的・空間的フロンティア」の大半がなくなった。的場さんも触れているように、現在はアフリカ、中東市場に「地理的・空間的フロンティア」を求めている。このことについて、水野さんは次のように述べている。

 「アフリカのグローバリゼーション」が叫ばれている現在、地理的な市場拡大は最終局面に入っていると言っていいでしょう。もう地理的なフロンティアは残っていません。

 もう一つ、好き放題に自然資源を搾取してきた結果、環境破壊が拡大し「自然フロンティア」もなくなろうとしていることも、資本主義が終末を迎えるに至る一つの要因であると指摘しておかなければなるまい。

 しかし、このような状況の中で、支配階級は資本主義を延命させるべく、収奪のための別の「空間」に目をつけた。金融・資本市場である。この空間はIT(情報技術)と金融自由化が結合してつくられた空間で、水野さんは「電子・金融空間」と呼んでいる。

 米国は近代システムに代わる新たなシステムを構築するのではなく、別の「空間」を生み出すことで資本主義の延命を図りました。すなわち、「電子・金融空間」に利潤のチャンスを見つけ、「金融帝国」化していくという道でした。

 しかし、この新たな空間も今では次のような状況に陥っている。

 各国の証券取引所株式の高速化を進め、百万分の一秒、あるいは一億分の一秒で取引ができるようなシステム投資をして競争しています。このことは、「電子・金融空間」のなかでも、時間を切り刻み、一億分の一秒単位で投資しなければ利潤をあげることができないことを示しているのです。

 日本を筆頭にアメリカやユーロ圈でも政策金利はおおむねゼロ、10年国債利回りも超 低金利となり、いよいよその資本の自己増殖が不可能になってきている。

 つまり、「地理的・物的空間(実物投資空間)」からも「電子・金融空間」からも利潤をあげることができなくなってきているのです。資本主義を資本が自己増殖するプロセスであると捉えれば、そのプロセスである資本主義が終わりに近づきつつあることがわかります。

 もう一つ、資本主義の終末に拍車を掛ける要因がある。「99%対1%」がはらんでいる問題である。

 さらにもっと重要な点は、中間層が資本主義を支持する理由がなくなってきていることです。自分を貧困層に落としてしまうかもしれない資本主義を維持しようというインセンティブがもはや生じないのです。こうした現実を直視するならば、資本主義が遠くない将来に終わりを迎えることは、必然的な出来事だとさえ言えるはずです。

 資本主義の終わりの始まり。この「歴史の危機」から目をそらし、対症療法にすぎない政策を打ち続ける国は、この先、大きな痛手を負うはずです。

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