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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(76)

終末論の時代(12)

ジャーナリズムの死(12):戦後の言論弾圧(6)


 1960年代の政府・自民党によるテレビ番組への言論弾圧の実際を具体例で追ってみよう。 政府・自民党が何を恐れていた(勿論現在にも当てはまる)のか、自ずから判然としてくるだろう。

 前々回に書いたように、私はその頃はテレビを見ていないので各番組の内容は知らない。ある程度は番組名から推測できるが、推測できない番組についてはウィキペディアなどから情報を得ることにする。

《政府による弾圧》

1963年11月>
テレビドラマ『判決』
 自民党橋本広報委員長は民放連主催のテレビ番組懇談会で『判決』を「反社会性、階級闘争に結びつき危険だ」と攻撃。それがひびいて、良心的番組と評判の高かったこの番組は前後20回近くの規制を受けた。放送前に一部内容を変更・カットして放送した作品も多く存在するが、放送中止に追い込まれた番組が取り上げた主題は次のようである(ウィキペディアによる)。
「沖縄の子」…沖縄問題。
「女の園」…朝日訴訟(生活保護訴訟)、昭和女子大学事件(退学訴訟)。
「いわれなき垣根」…部落問題。
「老骨」(1963年11月9日放送予定)…税制批判。
「わが道をゆく」(1964年1月8日放送予定)…宇野重吉の出演が取り消され、制作不能となる。
「生きる」(1964年12月16日放送予定)…生活保護行政の不備。
 後日、改めて放送された。
「佐紀子の庭」(1965年5月19日放送予定)…教科書問題。
 脚本に協力した家永三郎は、放送にあわせて教科書問題に関する訴訟の提訴をする予定だったが、本番組の放送中止により、提訴を6月12日に延期した。

1965年5月
『ベトナム海兵大隊戦記』
 第一部が放送された翌日に橋本官房長官から日本テレビ社長に電話があり、第二部、第三部の放送は中止された。

 1967年になると、このようなやり方からさらに進んで、政府が閣議で番組をとりあげて直接干渉するようになってきた。

1967年2月21日
 閣議の席上で小林郵政大臣は、
TBSの『現代の主役・日の丸』
NETの『ウィーク・エンド・ショウ』
が偏向していたとして、郵政当局に立入実情調査をさせ、社の幹部は陳謝した旨の報告をした。
 番組規制とNHKへの監督強化の意向を表明し、閣議はそれを了としたのである。

1967年11月11日
 この日の閣議では、増田防衛庁長官が
TBSの『おはようニッポン』の報道
NHKの終戦記念日放送の座談会『戦没学徒の母』
を問題にして小林郵政相に調査を要求。

1968年3月11日
 閣議で、共同通信やTBSなどの「偏向報道」の処分が協議された。

《自民党による弾圧》

1965年9月
 自民党広報委員会、モニター調査『注目される放送事例 ― 最近の重要問題をめぐって』をまとめ、「マル秘」とされて在京テレビ各社の幹部に送る。
 この文書は、雑誌『宝石』が暴露して世に知られることになった。それは、自民党にとって気に入らない番組にたいする、きわめて組織的な摘発の書であった。たとえばそこではTBSがもっとも強く攻撃されていて、「日韓」、「ベトナム」、「原潜寄港」、「沖縄」、「教科書」、「内閣改造」、「参院選挙」の7項目、48頁にわたって詳細な検討がなされており、ラジオ「報道シリーズ」をはじめ、各種番組が非難の対象とされ、古谷綱正、田英夫、島津国臣、藤原弘達、高橋照明氏らの「偏向的な発言」が批判されている。また、入江徳郎、小幡操、芥川也寸志、藤島宇内、亀山旭氏らの名前が、アメリカの政策に「批判的」であるとしてあげられていた。

 徳本論文は言う。

 このような文書が、どのような効力をもったかは想像にかたくないだろう。事実それは、広報委員会自身が、1966年5月に、
「しばしば話題になった東京放送(TBS)は、最近傾向が変わってきている。これは経営者側の非常な努力があったのだろうと思うが、『報道シリーズ』『ラジオスケッチ』等いわゆる偏向的な番組がだいぶ影を消してしまった。」
と確認しているのである。その際同広報委はつづけてこう指摘した。
「それにひきかえ、最近『文化放送』の朝7時から8時の『キャスター』という時間が偏向的な番組ではないかと取沙汰されている。これは画家岡本太郎、ジャーナリスト奏豊、映画監督大島渚、漫画家手塚治虫、詩人寺山修司、音楽家石丸寛というような人物が出て、曜日をきめて司会しているものである。」

 そしてここでいわれた文化放送の『キャスター』は、それからわずか1ヵ月半後に、担当者6名中、毒舌を知られた岡本太郎、手塚治虫、石丸寛の3人が番組からおろされ、さらに数ヵ月後には番組自体が姿を消したのであった。

 波野拓郎氏(1966年に『知られざる放送―この黒い現実を告発する』という本を出版している)によると、「自民党広報委員会がマークした番組は、必ず出演者が消えるか、番組が"蒸発"する」というジンクスがあるそうであるが、まことにおそるべき状態が生じつつあるといわなくてはなるまい。

 自民党のTBSに対する圧力は、さらにこの後もつづいている。

1967年11月
 自民党、今道社長、島津報道局長を呼びつけ、『ハノイー田英夫の証言』を批難。
 これが、民放界の良心と言われたTBS報道部の崩壊につながっていった。

 波野拓郎氏がジンクスと言っていることを言い換えると、放送局による「自主規制」「自主管理」の普遍化にほかならない。その事実の一つとして「TBS報道部の崩壊」の経緯を追ってみよう。

1966年4月
 ラジオ報道部が解体された。
1968年3月
 『ニュースコープ』のキャスター田英夫氏が突然番組からおろされる。

さらに続けて
 『現代の主役―日の丸』『ハノイー田英夫の証言』のディレクターが配置転換される。
 また、カメラ・ルポルタージュ『成田二四時』が放送中止となり、報道局長ら8人が処分される。

 このTBSにおける人事統制の強化は、その後さらに激化し、同年8月になって243人にのぼる人事異動と機構改革が断行され、そのなかで報道部の解体、婦人ニュースの打ち切りとその司会者来栖琴子氏の配置転換などが行われている。

 この一連の弾圧の過程について、徳本さんは次のように分析している。

 (弾圧の過程が)政財界の圧力とそれに呼応するにいたったTBS首脳陣の体制刷新の意図にもとづいてすすめられたことは、疑いのないところである。事実このあとのTBSの動きはどうであろうか。1969年1月1日、はやくも足立会長はTBS社報における「新春あいさつ」のなかでこうのべている。

 ニクソン新大統領がこれからどのような政策をとっていくか予測できませんが、いままでどおり日米関係が円滑に行くことを念願しております。ことに私は、日米安全保障条約に調印した一人として、調印当時と現在の情勢は少しも変っていないわけですから、日本の安全保障と経済の発展のために、安保条約がこのまま延長していくことを願うものです。
 この趣旨を体してであろう。同年2月1日、TBSは、日本広報センターの制作・提供で、日米京都会議に出席したシェリング、ローエン、佐伯喜一、高坂正堯、神谷不二の各氏出席による『沖縄と安保の将来』を放送し、また、8月20日には、おなじく日本広報センター協賛番組の『かえれ、北方領土』を放送するといったぐあいである。こうした放送体制の背後にある考え方は、TBS社長であり、また民放連の会長でもある今道潤三氏の次のような発言に端的にしめされているのである。すなわち、

 近来、東京放送が、どこかの権力に屈して放送の路線を曲げつつあることを方々で野次っているものがいます。私は大変心外に思う。東京放送は開局以来、いかなる勢力、いかなる権力にも屈したことはない。もし私がそういうことに屈して放送の責任を曲げていかなければならぬのならば、私は即刻社長をやめます。諸君には、個人として、自由なる言論・表現が憲法に保障されておる。しかしこと番組を通じて社会に東京放送が言論・表現を行なう場合には、それに関する限りは諸君の自由はない。東京放送が自由なる言論・表現の権利を持ちそれを行うのであり、番組制作にあたる諸君には個人的自由はないのである。言論・表現の自由を規制する力は時の政府権力に一つはあるが、極右、極左の勢力は言論の自由をとりあげようという目的を持ち、放送は国営にするという綱領を持っている。われわれはそういう路線に協力することはできない。彼等は憎むべき人類の敵である。

 これは新入社員への訓示であるが、最後の部分に関連しては、ほぼ同じ頃、
「共産党や社会党の極左勢力がねらいとしているところは、放送の国営化で民放の存在など認めていない。民間放送をなくすことは、言論の自由を奪うことに通じ、この線につながる民放労連とその翼下の労組に対しては今後断固たる強い態度でのぞむ。」
といっていることをつけくわえておこう。

 会社側のこの威丈高な態度に対し、むろんTBS労組や民放労連はねばりづよい反対運動をつづけてはいる。しかし、人事統制面における"自主管理"体制がひしひしと進行しつつあることは、否めない事実のようである。それはたとえば、
「このような状態の中で、まじめに仕事ができるのはよほどの君子かドレイでしかありません」
といい、
「僕は今のTBSには魅力を感じないのです。同時に、だからといってサヨナラともいえないのです」
と語っている、「不当配転」を受けたテレビ制作者の言葉にも充分うかがうことができる。

 民放界の良心といわれたTBS報道部の解体過程は右のとおりである。これほどドラスチックではないにしても、似たような過程は他の民放局でも進行しているとみるのが順当であろう。

 その当時、「共産党や社会党」が「放送の国営化で民放の存在などを認めない」ことを党是としいたのかどうか、私はつまびらかにしないが、全テレビ局が今道潤三氏の考えるような経営方針を貫徹すれば、全テレビ局が国営放送に堕することは明らかだろう。政府にべったりの連中は論理的に破綻している詭弁を弄して恥じない。いや、政府そのものがとんでもない詭弁を弄して恥じない。現在国会で行なわれている「戦争法」の論戦でのアベコベ政府の詭弁にはまったくあきれかえってしまう。

 ちょっと脱線してしまった。戻ろう。

 では、他の民放局はどうだっただろうか。その一例を挙げると、東京12チャンネルが1965年6月1日の再免許の時に政府から「500名の従業員の半減など」などの恫喝を受けたことを前回取り上げたが、その後、その首切りが実際に行なわれている。
1966年3月
 東京12チャンネル、従業員500人中、200人の大量首切りを強行。

 徳本論文は「ここ5、6年来、民放労働者にかってなかったほどの抑圧の嵐が吹きまくっていることを見落してはならない」と述べ、『マスコミ黒書』(1968年刊 日本ジャーナリスト会編)の一文を引用している。

 67年6月7日民放労連が発表した資料によると、65年以降、放送労働者に加えられた弾圧事件は706件、525人、解雇者の数は実に282人と、かってのレッド・パージ(放送のレッド・パージはNHK119名)をしのぐ規模に達している。そのやり口も、
①ロックアウト、
②警察権力の介入、
③組合指導部の解雇、
④刑事事件のデッチあげ、逮捕、起訴、
⑤アカ攻撃、
⑥分裂工作
等々 ― と多彩で、まさに弾圧のデパートといった感があった。

 テレビ局内部における管理統制は民放局だけではなかった。
1969年7月
 NHK、一挙に300人にのぼる管理職昇格人事を強行して、6.5人に1人を管理職にする。
 これは明らかに上の⑥分裂工作に当たるもので、組合の弱体化をねらった組合弾圧人事である。
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