2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(74)

終末論の時代(10)

ジャーナリズムの死(10):戦後の言論弾圧(4)


 今回からしばらく『・・・大予言』を離れて、戦後の言論弾圧について少し詳しく学習していこうと思う。教科書としては、主として
《教科書1》
 徳本正彦著『日本におけるテレビ・メディアの支配過程』(以下、「徳本論文」と呼ぶことにする。)
を用いるが、その論文の内容を確認・補充する資料として、適時
《教科書2》
 山本文雄編著『日本マス・コミュニケーション史[増補版]』(東海大学出版会)
《教科書3》
 『日本ジャーナリズム・報道史事典』(日外アソシエーツ編集)
を用いる。

追記
 徳本論文を紹介したときに徳本正彦さんを姫路独協大学教授としましたが、その後いろいろ調べた結果、現在は九州大学名誉教授であることを知りました。徳本さんの経歴をまとめている記事には出会わなかったのですが、「早良九条の会」のホームページで、「早良九条の会」の1周年記念総会(2006年10月15日)の講演会で「憲法九条と日本のゆくえ―子どもたちに平和を渡したいー」と題する講演をなさっていることを知りました。


 さて、1953年2月1日からNHKによるテレビ放送が開始された。NHKのテレビ放送開始時のテレビ受信契約数は866台に過ぎなかったが、2年後には20万台を突破し、1967年には2000万台を突破している。1953年8月28日には初の民放テレビ局として日本テレビ放送網が開局した。民放テレビ局も1970年には全国で81局に達している。

 テレビという新しいメディアは速報性というメリットも大きいが、何よりも映像という感覚的な表現が主体であり、人心掌握のための恰好のメディアである。従って、戦後の国家権力によるメディア支配は主としてテレビがターゲットとなっている。

 徳本論文は1971年1月15日に脱稿している。従って、その論文が対象としている時代は1945年から1970年までの25年間ということになる。テレビの登場から1970年までの期間にどのような言論弾圧があったのだろうか。

 私事になるが、私は1960年代はアパートでの一人暮しであり、テレビを持てる経済的余裕はなく、テレビはほとんど見ていない。新聞は職場が置いていた新聞に目を通す程度であった。だから、その頃の政府がメディアの支配のためにどのような圧力・懐柔策を行っていたのかは関心もなく全く知らなかった。このように同時のジャーナリズムについて無知な私なので、このたび徳本論文を読んで、当時も現在の政府と自民党はほとんど同じ手口でメディアにえげつない圧力・懐柔策を働きかけていたことを知ってびっくりした。その圧力・懐柔策をまとめておこうと思ったのだった。

 さて、1952年4月28日に講和条約が発効してGHQによる占領統治が終わり、まがりなりにも日本が主権を回復した。それにともなって、当然のこと、GHQによるメディアに対する統制も撤廃された。では、日本の国家権力によるメディアに対する統制はどのようだったのだろうか。

 上で「まがりなりにも」ということばをあえて付した理由は言うまでもないことと思うが、一言付け加えておこう。現在のアベコベ政権がなり振り構わずアメリカ政府にすり寄っていく姿勢を示していよいよハッキリ明らかになったように、日本は講和条約発効後も今日に至るまで、まるでアメリカの属国だったのだ。講和条約後の日本政府によるメディアに対する統制にもGHQの影響があったのかなかったのか。それを知るためにまず、占領後から講和条約発効までのGHQによるメディアに対する管理・指導がどのようだったのかを知る必要がある(徳本論文にはこのあたりの詳しい記述がないので、教科書2を用いる)。

 1945年9月2日にミズリー号艦上で降伏調印がすむと同時に、GHQは放送を含む一切の無線通信施設を現状のまま保全運用するよう命令した。そして、周波数や出力の割当をGHQへの登録許可制にし、進駐軍向け放送(第三放送)施設を接収した。そしてその後、矢継ぎ早に次のような指令を発している。

9月22日
「日本に与える放送遵則」(ラジオ・コード)
 報道放送は真実に即応し、かつ編集上の意見を取り除いたものでなければならないことを規定し、すべての番組から宣伝上の企図を排除することなどを要求。また、連合国に対する破壊的な批判や連合軍の動静に関する報道を禁じている。

 当時の日本放送協会は、番組内容についてCIE(民間情報教育局)ラジオ課の指導と、CCD(検閲実行機関)の検閲を受けねばならなかった。
 CIEは番組をABCの三段階に分け、
[A]直接内容を指導監督
[B]ゆるやかな事前指導
[C]放送協会にまかす
と分類している。
 CCDは10月4日から原稿の事前検閲を始め、送信別、放送目的、時刻、番組名、題名、放送者名を書き入れた原稿を全文英訳を添えて、放送24時間前に提出を求めた。音楽放送、外国作品の翻訳の場合も同じで、許可になった原稿は一言一句の変更も許されなかった(検閲制は1948年8月に事後検閲となり、1949年8月に廃止となった)。

 一方で、GHQは戦前戦中の国家による言論弾圧の撤廃の指示を出している。

9月27日
 「新聞言論の自由に関する追加措置」
9月29日
「新聞・映画・通信に対する一切の制限法を撤廃の件」
 これによって、長年にわたり放送の自由を拘束していた日本政府の取締りや統制が解除され、放送は政府の支配から離脱して民主化の方向が明示された。

12月11日
「日本放送協会の再編成に関する覚え書」
 この覚書の内容は
「国民を代表する顧問委員会をつくり、その委員会をして会長候補者を選定させるほか、委員会は事業の一般政策事項で会長、理事長に助言を行ない協会再建を考えさせる。放送局の設置、廃止、事業財政の報告、検査のための措置、租税等の一般政策は協会に逓信院総裁の指示を受けさせる」
というものであり、放送の民主化を進めようとしたものであった。

 次いで翌1946年、GHQは逓信院に対し顧問委員会の氏名を示唆した。日本放送協会はそれに基づいて浜田成徳、加藤静枝、滝川幸辰、矢内原忠雄など17名の委員を選び、顧問委員会は高野岩三郎を新会長に推薦した。これを機に戦時中、協会の指導にあたった首脳部は総退陣し、顧問委員会は新陣容で再建に乗り出した。

 浜田成徳という方以外はよく御目にかかる人たちだ。GHQの人選はすばらしいと思う。特に会長になった高野岩三郎さんは以前このブログで取り上げている。関連記事を「高野岩三郎」と題して改めてまとめてみた。興味がありましたらどうぞ。
 なお、浜田成徳さんは全く存じ上げない方なので検索してみた。懐かしいサイトに出会った。「昭和の抵抗権行使運動」のときにずいぶんとお世話になった「れんだいこ」さんだ。いま書いている記事とも大いに関係ある「地方民放テレビ36局の大量一括予備免許の一挙認可」という記事で取り上げられていた。興味のある方はどうぞ。


 しかし、高野会長のもとに再出発したばかりの協会は、1946年10月、わが国最初の放送ストライキの発生により異常事態に直面した。これは通信放送労働組合のゼネスト指令によるもので、10月5日に電波は完全に止まる。翌6日にはニュース、天気予報の最小限の放送を確保するために、逓信大臣一松定吉は逓信省に臨時放送国家管理部を設け、放送の国家管理を断行した。強硬をきわめた従業員組合も、高野会長の就業勧告によって25日ストを中止し、21日間にわたる国家管理を終えた。

1946年11月
 GHQは放送法の立法準備を命じ、逓信省に臨時法令審議会が設置された。

1947年10月
 GHQの民間通信局は日本の放送形態について次のような示唆を提示している。
(1)
 放送は政府や政党から独立した自治機関とし、NHKの運営面、放送の免許、監督は新設の電波管理委員会が行なう。
(2)
 民間放送の設立を認めること。
(3)
 放送の自由、不偏不党、公衆への奉仕の責任、技術基準の四原則の確立。
(4)
 テレビ、FM、ファクシミリなどNHKが経営することを禁止し、これらを民間放送にまかせること。

 これが電波三法(電波法、放送法、電波管理委員会設置法)のもととなった。この趣旨にそって、逓信省はこの提言を下敷きに法案の作成を進めた。

 電波三法のねらいは、政府の監督権を最小限に制限して放送事業者の表現の自由を守ること、民間放送を認めて表現の多様性を確保することであった。また、政府は電波は国家のものという考え方を固執していたが、GHQは電波は国民のものという信条に立っていたので、電波行政を政府の監督下に置くことに同意しなかった。このような意図を実現するために、政府とは別個の独立委員会である電波管理委員会の設置が盛り込まれた。この電波管理委員会法には時の首相・吉田茂が強く反対していたが、それをおさえて、電波三法は1950年4月に第七国会で成立した。しかし、電波管理委員会は講和条約が発効した1952年8月に、わずか2年で廃止された。

 ここまでの放送行政の経緯をまとめて、徳本論文は次のように論評している。

 戦後の混乱期の下で、日本の放送人たちやさらには放送行政にたずさわる人びとは、目先の状況に追われて、電波の将来、とりわけテレビ時代の到来を充分に予見することができなかった。放送をになう人びとの自主性や主体性の確立こそ、今にしておもえば焦眉の急であった。しかし、そのような、いってみれば下からの態勢がほとんど整わないうちに、占領軍の手によって電波三法は成立し、政治が事態を先取りするかたちで、戦後の放送界はスタートしたのだった。権力統制下に管理行政が左右される素地は、そもそも最初から胚胎していたとみるべきだろう。

(中略)

 (GHQは)一時、民主化を進めようとしたこともあったが、結局、NHKの組織そのものには充分なメスをふるわないうちに、NHKストを契機に国家管理体制がつよめられていったのであった。西ドイツのそれが、機構的にほとんど解体を強いられたのに較べれば、日本の場合には、番組編成面での制約はなされたものの、組織の内部にはほとんど手がつけられなかったのである。なによりもそこでは、組織内の徹底した民主化が必要であったにもかかわらず、それが充分に行われないまま、中央集権的な機構が残り、戦前に飼いならされた人間集団が管理的地位を踏襲していったということ、そこに、権力にたいして毅然たる態度をとりえない体質が残された理由があった。このことは、制度の上では、電波監理委員会のあっけない崩壊というかたちであらわれている。

 せっかく発足した電波管理委員会が廃止されて以後、電波行政は郵政省(1949年6月1日 逓信省を電気通信省と郵政省の二省に分離設置された)の所管となり、新たに電波管理審議会が設けられ、この審議会が郵政大臣の権限行政に関与することになった。
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