2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(70)

終末論の時代(6)

ジャーナリズムの死(6):近代日本の言論不自由史(4)


戦時体制期

 いつからを「戦時体制期」と言うべきだろうか。とりあえず私は、政党政治が崩壊しファシズムが台頭し始める転換点となった満州事変から、と考えた。その後真珠湾攻撃までの政治・軍事関係の主な事件を追ってみよう。

1931年
  9月 満州事変
1932年
  1月 上海事変
  2月 血盟団員、井上準之助を暗殺
  3月 血盟団員、団琢磨を暗殺
  5月 5・15事件
1933年
  3月 国際連盟脱退
1934年
 12月 ワシントン海軍軍縮条約廃棄
1935年
  2月 美濃部達吉の天皇機関説問題化
  8月 政府、第一次国体明徴声明
1935年
  9月 美濃部達吉、貴族院議員を辞任
1936年
  1月 ロンドン軍縮会議脱退
  2月 2・26事件
  5月 軍部大臣現役武官制復活
  8月 五相会議(首相・陸・海・外・蔵相)で国策の基準を決定
 11月 日独防共協定調印
 12月 日伊協定締結
1937年
  7月 日中戦争勃発
 12月 日本軍、南京占領
1938年
  4月 国家総動員法公布
  7月 国民徴用令
1939年
  2月 国民精神総動員強化方策決定
1940年
  9月 日独伊三国軍事同盟調印
 10月 大政翼賛会発会
1941年
  3月 治安維持法公布(新法)
 12月8日 真珠湾攻撃


 こうした軍部主導の政治動向は必然的に国民支配体制の強化をもたらした。

 まず、2・26事件を契機に、戦時治安法制への移行を象徴する法整備がなされた。

1936年5月28日
 思想犯保護観察法公布
1936年6月15日
 不穏文書臨時取締法制定

 思想犯保護観察法は治安維持法(旧法 1925年公布、1928年緊急勅命で改定)を補充するものである。該当者を監視し、居住・交友・通信の制限、その他「適当な条件の遵守」を命ずることができる法律である。

 不穏文書臨時取締法の制定は、言論集会統制への軍部進出の第一歩であった。同法によって軍部は民間から出されている「軍秩ヲ紊乱」する「怪文書」の取締りに乗り出したのである。この法律の特徴は、出版法・新聞紙法が法定の届出をして発行された出版物・新聞紙を取締りの主対象とするのにたいし、無署名パンフレット類を取締りの主な対象とし、地方長官にその頒布発売の差止めと印本刻版の差押え権を付与し、違反者に体刑を含む厳罰を定めたところにある。したがって、取締りの対象は、新聞社・出版社など出版報道企業ではなく、もっぱら一般の個人が作成する文書類にむけられたものである。この頃はすでに、パンフレット等の捜索あるいは通信の傍受・開緘などは必要に応じて警察または憲兵が行なっていたので、この法律はその行為の追認したものにすぎないが、警察や憲兵の一般個人への監視は一層厳しくなった。たとえば一般人に対してではないが、丹羽さんは、末松太平著『私の昭和史』から、次のような事例を引用している。

『……要所々々の郵便局には、治安当局からの派遣員がいて、札付きの青年将校同士の通信には目を光らしており、封書も開封されるおそれがある。それを若し信書の秘密をおかしたと抗議しても、為替法違反のうたがいがあるからと開封したといわれれば、それまでのことである。郵便局にこの「為替屋」がいるから、封書といえども気をゆるしてはあぶない、と大岸(注―頼好)大尉はいっていた。』

   これに続けて、政府は国防目的の達成を大義名分に、全ての人的・物的資源に対する統制権を手中に収めるべく、次々と侵略戦争遂行のための法を制定していった。

1937年
  8月14日 軍機保護法の改定
 10月 1日 防空法の施行
1938年
  4月1日 国家総動員法公布
1941年
  1月 勅令新聞紙等掲載制限令
 12月 言論出版集会結社等臨時取締法
     新聞事業令
1943年
  2月 勅令出版事業令

 上に見るように、新聞・雑誌・書籍等への軍部統制は、国家総動員法発令を機に始まった。同法は、
「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依り新聞紙其ノ他ノ出版物ニシテ国家総動員上支障アルモノノ発売及頒布ヲ禁止シ之ヲ差押フルコトヲ得此場合ニ於テハ併セテ其ノ原版ヲ差押スルコトヲ得」(20条)
と規定している。新聞紙等掲載制限令はこれに基づいて制定された。この法令では、内閣総理大臣が「国策ノ遂行ニ重大ナル支障ヲ生スル虞アル事項」について記事差止命令権をもつことが定められたが、それは次のような意味合いを持っていた。

 すでに、1937年9月設けられた内閣情報部(内閣情報委員会を改組)では、陸海軍報道部から派遣された現役将校が、月一回の「雑誌出版懇談会」で記事差止め事項の通達、月刊誌編集企画への干渉をするなどの統制をはじめていたが、1940年にはこれが内閣情報局となり、陸海軍報道部、内務省警保局図書課、外務省情報部の所管事務が統合され、現役将校がその重要ポストを独占した。これにより、前述の内務大臣の慣行的な記事差止命令権は、事実上軍部が主導する内閣情報局へ移行していた。新聞紙等掲載制限令は、こうした事態を、記事差止命令権を内閣総理大臣に認めることによって、法的に確認したのである。

 現役将校が情報部の重要ポストを独占するにともなって、言論出版規制の方式も大きく変わった。それは、たんなる取締りに止まらず、同時に積極的な「世論指導」が推進された。

 内閣情報局の支配力は、同局が用紙割当権をも掌握していたことにより、紙資源の不足が深刻化すればするほど強化された。1940年12月、同局は、下請機関として出版業者の自主的団体「日本出版文化協会」を設立した。そして、1941年からはこの協会に新聞図書雑誌への用紙割当て原案を作成させた。さらに同協会は、1943年2月の勅令出版事業令にもとづき、統制団体「日本出版会」となり、実質的な用紙割当て権を握った。同会は、これによって、「不要不急図書の抑制、戦意高揚出版物の推薦」を査定基準にして出版物、出版社を査定し、後には出版社の整理統合をも行なった。

 これまでに見てきた長年にわたる言論・出版統制の結果、1933(昭和8)年には12,5895部を数えた出版物(雑誌を含む)は、以後次第に減少しはじめ、それは年を逐って加速度がつき、1944年にはついに1,8060部にまで低下した。これは1889・90(明治22・3)年の水準である。出版物に限らず、私的史料の産出もこれと同様の傾向を辿ったと考えられよう。軍部の主導による民衆の生活全部面にわたる統制支配の強化に加えて、戦争の進展にともなう紙資源の枯渇がこのような事態をもたらした。

 以上のような「戦時体制期」の言論・出版の弾圧がもたらした状況を、丹羽さんは次のようにまとめている。

 以上の言論出版統制の結果もたらされたのは、出版物の不毛性であり、極端にいえば、戦時期、とくに太平洋戦争期の出版物の大部分が公的性格を帯びるにいたった。

 現在われわれが、私的史料の発掘に最も困難を感ずるのは、明治期よりもむしろこの時期であり、この時期にくらべると、それ以前の時期の言論出版の自由の範囲ははるかに広かったという感を深くする。

 右の出版統制に加えて、警察・憲兵の監視組織は、隣組組織などによる「社会的制裁」の存在とともに一般庶民の生活のなかにまで入りこみ、率直な心情や意思の表示、その日記・書簡など私的史料への書き残しを抑圧したのである。

 史料という点では、敗戦時に軍部・官僚が膨大な資料を焼却などして廃棄していることも記憶にとどめておこう。これが現在、無知蒙昧な歴史歪曲主義者たちをのさばらせている大きな原因の一つとなっている。

 もう一つ、『隣組組織などによる「社会的制裁」の存在』に関連して、『民衆の戦争責任』の中の記事
『大真面目に狂気の請願』
『大真面目に狂気の投書1』
『大真面目に狂気の投書2』
を再掲載しておこう。
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