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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(69)

終末論の時代(5)

ジャーナリズムの死(5):近代日本の言論不自由史(3)


「帝国憲法を根幹とした法体系の形成―樹立期」

1887(明治20)年12月
勅令「保安条例」「新聞紙条例」「出版条例」

 これまでの言論・出版弾圧法規はそれぞれその時々に起こった政治的事件への対応として制定されてきたが、帝国憲法制定・議会開設を目前にして整備・体系化が図られた。このうち保安条例は、当面の条約改正反対運動弾圧の目的を達して後1898年に廃止されたが、新聞紙・出版二条例は、以後いくつかの改定が加えられながら、骨格はそのままで昭和の15年戦争敗北時まで保持された。

1889年2月11日
 大日本帝国憲法公布(以下、帝国憲法と呼ぶ。)

 帝国憲法は一応言論の自由の条文を設けている。
「第29条 日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス」
 しかし、ことはそう単純ではない。

1893年4月
 法律15号出版法
 (上の1887年の条例を継承したもの)
1897年3月
 法律9号新聞紙条例中改正

 憲法29条が言う「法律ノ範囲内」を具体的に規定したのが上の二条例にほかならなかった。この二条例は、帝国憲法と整合させるために従来の法規の一部修正をしたものであり、その核心部分はすべて継承しているが、さらに改悪している点もある。1887年出版条例と1893年出版条例の違いを見てみよう。

 1887年出版条例は民間出版物すべてを対象とすべく、「出版物」を次のように定義している。
「凡機械舎密[注1 初めて出会った単語。長いので文末に置きます]其他何等ノ方法ヲ以テスルヲ問ハス、文書図画ヲ印刷シテ之ヲ発売シ、又ハ分布スルヲ出版ト云」
ただし、こうした出版物のうち
「社則、塾則、引札、諸芸ノ番付、普通ノ書式アル諸種ノ用紙又ハ証書ノ類」
は内務省への届出義務から外された。

 これに対して1893年出版法は
「書簡、通信、報告、社則、塾則、引札、諸芸ノ番附諸種ノ用紙、証書ノ類及写真」 といえども、外交軍事等官庁の機密に触れ、または
「安寧秩序ヲ妨害シ、又ハ風俗ヲ壊乱スルモノ」「政体ヲ変壊シ、国憲ヲ紊乱セントスルモノ」
等については出版法が適用されるとした。つまり、一枚の広告ビラ、印刷された通信文などにいたるまで法の適用範囲を拡大させたのだ。

 上の2条例では弾圧担当機関の変更点もある。次のようである

 出版条例では、出版物の草稿検閲を廃し届出制とし、内務大臣は発行禁停止権をもたないとされた。新聞・定期刊行物には内務大臣の発行禁停止権は温存されていたが、97年改正でようやく削除され、それはあらたに裁判所に付与された。

 しかし、内務大臣には、発行禁停止権に代えて、発売頒布禁止権が付与された。これは実質的に発行禁止権以上の役割を果たした。すなわち、内務大臣は、すでに印刷された刊行物を発売不能とすることにより発行者にたいしても経済的打撃を与えることができた。さらに、この発売頒布禁停止権の存在を前提として、内務省は出版社にたいし、これの発動により損害を与えることのないようにという「恩恵的」理由で、草稿、ゲラ刷を内閲することを可能とした。

 またもう一つ、言論弾圧を随時追加する隠し球があった。帝国憲法の緊急勅令発動条項である。
「第九条 天皇ハ法律ヲ執行スル爲ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ增進スル爲ニ必要ナル命令ヲ發シ又ハ發セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ變更スルコトヲ得ス」

 この条文によって、必要なときにはいつでも、草稿検閲などを復活させることができるしくみになっているのだった。実際に、大津事件(1891年、ロシア皇太子暗殺未遂事件)や日清戦争・日露戦後講和時、さらに関東大震災等にあたって緊急勅令が発動されている。つまり、帝国憲法は、29条はお飾りであり、実際には政府が必要に応じて言論・出版活動を弾圧できる法構成となっていたのだ。

 以上のように、帝国憲法下の出版弾圧対象は、ほとんど全ての印刷物にまで及ぶものであり、その発動の方法も種々な形態があった。その中で、実際に出版規制の核心となったのは、内務大臣の発売頒布禁止処分であった。これは警察による一方的な行政処分で、裁判で争うことはできず、行政裁判所への提訴も認められなかった。

 その後、出版法・新聞法には次のような改定が行われている。
1909(明治42)年5月6日
 法律四一号新聞紙法
1934(昭和9)年5月
 法律47号出版法改正

 上の新聞法の時期(明治末期)、内務省による出版物検閲は次のようなものであった。

『……目下各出版物を検閲するには図書課属四名を以て之に充てつゝあるも、何分著作出版物の数多の相手の廻り兼ねる事あり、新聞のみにても全国を通じて幾百と言ふ数に上り居れば、之れが毎日机上に堆積する所を見れば実に却々(私はこの単語にも初めて出会った。なんと読むのか調べたら「なかなか」と読むそうだ。つまり「中々」と同じ)の大仕事なり、都下の新聞は皆右四名中二人づゝ交代にて、夜の明けぬ中に検閲を了し居れり、検閲上の責任は勿論予の負ぶ所なれども、予が悉く之を検閲する事は到底出来得べき事には非ざるなり』(1909年7月『東京日日新聞』所載、内務省警保局長有松英義談)。

 さて、その後(日ロ戦争後)~昭和20年(敗戦)までの言論・出版弾圧については丹羽さんの論評を直接引用しておこう。

 日露戦後に行なわれた社会主義新聞雑誌(『労働世界』、『平民新聞』、『直言』)への集中的な弾圧と風俗壊乱出版物取締りの漸次的な強化の他は、当時はなお右のような規模の非科学的な検閲が行なわれているにすぎなかった。しかし、当時の国民に、最も大きな影響を与えた政府の出版規制は、右のような検閲(発売頒布禁止処分)の形をとらない、戦時における報道管制であろう。

 日露戦争にさいしては、開戦と同時に陸海軍従軍記者心得を定め(1904年2月10日陸軍省告示三号、同4月12日海軍省告示八号)、
「従軍者ノ通信書(通信文私信電信等ヲ総称ス)ハ高等司令部ニ於テ指示セル将校ノ検閲ヲ経タル後ニ非ズンバ、之ヲ発送スルコトヲ得ズ。通信書ニハ総テ暗号又は符号ヲ用ユルコトヲ許サズ」(右陸軍省告示十一条)
とし、ポーツマス講和会議にさいしても特派員の国内への通信は
「大部分は殆ど官憲の為めに没収され殆ど通信の用をなさざるの有様であった」。

 こうした報道規制の民衆への影響は、講和直後東京を中心とした群衆暴動(ポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生した暴動事件)となってただちに示されている。

 第一次世界大戦は、出版警察法規の発動が、民衆のなかに深く入りこんでゆく一つの画期をなしているように思われる。

 第一次世界大戦を契機とするいわゆる「世情」の変化は、都市のみならず農村にもおよび、当時の地方豪農らの日記などにもしばしばその指摘をみる。

「年々人気の薄情に傾くは帝国民の本意を薄からしむるものなれども、戦後の今日一層甚しく、階級打破、共産主義、過激思想等の声充満し其行動不穏なること急発性を帯び益々不安を覚ゆ、将来万般に亙り一大変化を見るならん」(東京府多摩郡相原村相沢菊太郎日記、1920(大正9)年9月16日の項)。

 この時期にいたって、出版警察法は、しばしば一般民衆生活のなかに立ち入って発動されるようになった。1923(大正12)年関東大震災のばあいは、その著例である。戒厳令により
「警視総監及ビ関係地方長官並警察官ハ、時勢ニ妨害アリト認ムル集会若クハ新聞紙、雑誌、広告ヲ停止スルコト」
「関係郵便局長及ビ電信局長ハ、時勢ニ妨害アリト認ムル郵便電信ハ開緘スルコト」
等が認められ、一方9月7日緊急勅令で
「出版通信其他何等ノ方法ヲ以テスルヲ問ハズ」
流言浮説等にたいし10年以下の体刑または罰金を定めた。すなわち、一警察官、電信官の認定で、出版物の発売頒布が停止され、通信が開緘差留められる。さらに9月20日警保局長から各府県あて通牒で、「新聞紙雑誌及宣伝ビラ等の印刷物」にたいする内務大臣の発売頒布禁止権を、地方長官に代行させ、地方での取締りを促した。

 この結果、9月1日―11月末日に発動された発売頒布禁止処分は、新聞紙法によるもの、新聞48、通信2、雑誌6。出版法によるもの、写真絵葉書521、単行本8、雑誌2(停止処分をうけたものは不明)、検事による司法処分をうけたもの、新聞4、雑誌1、禁止された写真絵葉書その他出版物の販売168という数にのぼった。とくにここで取締りが写真絵葉書等にまでおよんだ点が注目される。

 ここに示されたように、民衆生活の平和を保っていた慣習が崩れようとするとき、その程度に応じて治安・出版警察法が、いわば慣習に代位し補強するものとして発動されてくる。いわゆる大正デモクラシー期といわれる時期においても、このような法はそのまま変えられることなく存在していたのであった。

 それだけではなく、この頃から、一般の新聞にたいする内務大臣の記事差止命令が、事実上制度化し、しばしば行使されるようになっている(奥平康弘[注2]は、この時期を1920年と考えている)。これはいわば発売頒布禁止処分発動の予告通知であり、形式はたんなる行政指導で、その強制の程度に応じ「示達」、「警告」、「懇談」の三段階に分れていたが、新聞社にとっては、実質上法的強制と同じ意味をもった。これは新聞社からの強い反発を漸次軟化させつつ次第に慣行化させ、制度化していったものであった。

 この記事差止命令は、一般読者の全く知らないところで発動され、しかも、その結果、民衆はきわめて大きな関わりのある事件について一切耳を封じられることになる。これによって、ニュースの大衆への浸透とはうらはらに、国内の政治情勢・先進的な民衆の運動さらには世界情勢の変化からも民衆は遮断されるという状況が作りだされてくる。日記・書簡などに示される、この時期の民衆の意識 ― 農村自作地主層などのばあいにはしばしば、都市、デモクラシー、政党政治、近代文明等への反感があらわれている ― は、このような状況と切り離して評価することは許されないであろう。

 なおここで、さきにふれたように、かかる法の発動を必要としない「習慣法」が、とくに農村に存在していたことを忘れてはなるまい。都市においてもこの事情はさして変らない。吉野作造の「民本主義鼓吹時代の回顧」(1928年)における次の指摘がこれを示している。

「……それでも大正七、八年の交まではまだなかなか思想の自由は十分与えられたのではなかった。これに対する拘束は官憲側から来ないとしても、社会的制裁のかたちを取ってきびしく迫り来ることがまれでない。」

 法は直截に民衆を捉えるのではなく、かかる「習慣法」「社会的制裁」等とあいまって、民衆の生活を支配するのである。

[注1](以下、広辞苑による)
 「舎密」は「シャミツ・シャミ」という読みで引くと「→セイミ」という指示が出てくる。「セイミ」が正しい読みで、「chemie」というオランダ語を漢字表記したもので『江戸後期から明治初期にかけての「化学」の呼称』だという。熟語に「舎密学」「舎密局」がある。「舎密局」については次のように解説している。
『明治政府が1869年(明治2)大坂に開講した理化学研究教育機関。89年京都へ移転。94年の高等学校令により第三高等学校と改称、京都帝国大学に至る。』

[注2]
 奥平康弘さんは東京大学名誉教授(憲法研究者)。「九条の会」呼び掛け人のお一人で、今年の1月26日に亡くなられた。満85歳だった。亡くなられる前日、妻のせい子さんに「君はこのごろ平和についてどう考えてる」と問いかけたという。この問いかけは多くの心ある方々にも届いてる。東京新聞がそれらの人々の新たな決意を報じていた。
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