2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(67)

終末論の時代(3)

ジャーナリズムの死(3):近代日本の言論不自由史(1)


 前回の記事を書いているとき、日本では明治以来「昭和の15年戦争」敗戦までずっと、「言論・出版・集会・結社の自由」などはなかったのだということが頭をよぎっていた。既に日本の近代国家草創期に、自由民権運動をめぐって、言論・出版・集会・結社に対する弾圧が行われていたことは「続・大日本帝国の痼疾」でかなり詳しく取り上げているが、今回はこのことを通史的にきちんと調べておこうと思い立った。

(以下は岩波講座『日本歴史25 別巻2』所収の丹羽邦男著「近代史料論」を用いています。ちなみに丹羽さんは1994年に亡くなられている。)

 丹羽さんは「言論・出版規制の諸段階」を
「廃藩置県―民権運動終期」
「帝国憲法を根幹とした法体系の形成―樹立期」
「戦時体制期」
という三期に分けて論じている。この分類に沿ってまとめていくことにする。

「廃藩置県―民権運動終期」

 維新政府指導者は当初、人民を未開の民として捉え、新聞・雑誌を興し、人民を教化する意図を持っていたという。丹羽さんは1870年12月8日に木戸孝允が品川弥次郎に宛てた書翰の一部を引用している。
「内国之事は元より、外国之事も尽我人民之心得に相成候様之事は総て記載させ、偏国偏藩に至るまで流布させ・・・人民誘導之一端とせん」

 この意図にそって、木戸孝允は1871(明治4)年5月に『新聞雑誌』という紙名の新聞を発刊させている。

 ここには、幕藩制の人民支配とは異なる新たな人民統治の方式がみられる。

 旧幕期、幕府・藩の触達は、地方役人から村々名主へ回達され、「御用留」に転写され、制札による触以外は一般人民の目に触れることはない。しかし、今や政府諸法令は、印刷複製されて戸長の許に配布されるほか、廃藩置県後、簇生した新聞・雑誌(当初新聞は日刊のものは少なく、雑誌との区別は明確でない)にも政府人事などとともに毎号掲載され後年にいたるまで続いた。

 こうして、新聞・雑誌は、政府に批判的傾向を帯びるものも含め、一般人民に法令の理解徹底を求める政府の意図を実現する上で大きな役割を果たしたといわねばならない。

 しかし、新聞・雑誌の流布は狭い範囲に限られていた。主な読者は政府内部とその周辺(主に士族層、地域的には東京とその周辺)人たちにすぎない。当時、紙上で問題化した政治事件は、
 1871、72年からの征韓論
 73年5月、井上馨・渋沢栄一の財政意見書(『日新真事誌』)
 74年1月、民選議院設立建白
など、いずれも政府部内の政治的対立の反映であったが、これら新聞・雑誌にたいする取締法規が出されている。
(「民選議院設立建白」については「自由民権運動(6)―民選議院設立建白書」を参照して下さい。)

1872年1月
 文部省布達「出版条例」
1873年10月
 太政官布告「新聞紙発行条目」


 ただし、この二法はその後の諸法と比べて、弾圧と言うほどのものではなかったようだ。

 なお、1872、73年には郵便制度が全国的に設けられたが、初期の新聞は郵便によって配達されていたようだ。郵便と交通の発達が相俟って、全国的な人的交流が容易になり、地方の上層農民の政治や社会問題などに対する意識を高める役割をになっていた。とりわけ、農村に居を構え、遠隔の者との往来が容易でない者にとって、文通は、交際上きわめて大きな比重をもつ大事な手段であった。

 さて、この頃、新聞の日刊化が進み、政論を登載した多くの地方新聞が生まれ、発行部数を急激に伸した。とは言え、その読者層は、なお、政府の専制に不満をもつ士族層などを主体にしていた。丹羽さんは静岡遠江地方を例を記録している。

 1881年5月現在、浜松の郵便局から配達されている新聞は、13種413部、なかで『東京絵入新聞』150部、『函右日報』145部が主なもので、他は1種40部以下にすぎない。右のうち「中等以下ノ人物ヲ誘導スル事ヲ主眼」とし民権色の濃い日刊地方新聞として発足した『函右日報』は、79年6月の創刊である。当時新聞の回読が盛んだったことを考慮に入れても、1876、77年頃の新聞の地方浸透度はなお微々たるものであった。

 しかしながら、次第に流布範囲を広めてきた新聞を通して、「民選議院設立建白」が、各地の士族層に影響を与え、反政府運動が拡大しはじめた。これに対して政府はただちに新聞・出版の取締りを強化した。

1875年
6月
 太政官布告「讒謗(ざんぼう)律」(82年1月廃止)・「新聞紙条例」
9月
 「出版条例」
1876年7月5日
 太政官布告98号
 (行政処分として、新聞紙雑誌類に対する内務省の発行禁停止権がはじめて設けられた。)

 これら三条例により、「著作文書若クハ画図肖像」を「展観、発売、貼示」して
「凡ソ事実ノ有無ヲ論セス人ノ栄誉ヲ害スヘキ行事ヲ摘発公布スル者」(讒毀ざんき
「人ノ行事ヲ挙クルニ非スシテ悪名ヲ人ニ加へ公布スル者」(誹謗)
はすべて体刑を含む厳罰の対象となった。
 また、新聞のほか「時々ニ版出スル雑誌雑報」に対しても、文部省に代って内務省が発行許可権を握り(75年出版条例で書籍も内務省所管となる)、細かく掲載禁止事項と違反者への厳罰が定められた。

 そして、これらの法律は当時の政治情勢のなかでただちに適用され、多数の新聞編集者・筆者が投獄され、多くの新聞・雑誌が発行禁止されている。

 このように、三条例は警察の恣意的弾圧を可能にするものであったが、実際これが発動されたのは、多くは士族出身の反政府的言論人に対してであった。しかしこのことは、当時の一般人民層が表現の自由な状況下に置かれていたことを意味しないと、丹羽さんは次のように論評している。

 76年太政官布告98号により発行禁止処分をうけた『草莽雑誌』編集人栗原亮一の上告にたいする大審院判決は、
政府ニ於テ新聞雑誌等ノ発行ヲ禁止スル事ハ、既ニ特権ヲ有セシ習慣法ナリシヲ、明治九年第九八号ノ公布ヲ以テ之ヲ成文法ト為シタル者
とのべ、政府の弾圧法規は、これまで「習慣法」として存在したものを「成文法」にしたにすぎないとしている。

 明治政府は、生れながらにして、かかる「特権」をもつ権力として人民の上にあり、人民の民権意識の成長が、「習慣法」をゆるがしはじめたとき、「成文法」が制定され、必要なかぎりで発動されるのである。

 明治維新は、言論弾圧法が「習慣法」だなんていうむちゃくちゃな論理に立脚した、むちゃくちゃな国家成立の始まりだった、というわけだ。

 ちなみに、大日本帝国はいわゆる「近代国家」ではないことは「大日本帝国を解剖する(2)」で取り上げている。そこから一部転載しておこう。

「帝国憲法体制の成立において完成された近代天皇制国家は、外見的にはプロシャ流の立憲的専政君主制を模倣したものであったが、政治形態としては近代的形態で復古されたアジア的デスポティズム、つまりは近代的デスポティズムであった。」
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