2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(66)

終末論の時代(2)

ジャーナリズムの死(2)


 戦中のジャーナリズムの死について、羽仁さんが語っていることは次のようである([ ]内の小さめの文は私のコメントです)。

 かつてドイツでは数百万の発行部数を持った新聞が、ナチスと闘ってつぶされている。『フランクフルター・ツァイトウンク』は自由主義経済の立場に立った商業新聞だったが、ヒットラーを批判した。発行部数を守るとか、社員が沢山いるとかといった問題じゃないんだ。

 先日『週間読売』で読売新聞の解説部長の渡辺恒雄君と対談したが、そのとき彼は「五百万、六百万といった読者をかかえていると政党支持の立場ははっきりできない」といっ た。そんなこといっているから、東条英機が出てきたとき、日本でつぶされた新聞がなかったんだ。朝日も毎日も読売も残った。

 結論をいえば、新聞が政党支持の立場を鮮明にすることが、現在の議会政治を救うために必要になってきたということです。だからもう、数百万の発行部数とか何千何万の社員のためだなんていって、曖昧にしていることは許されないんだ。

[現在、ナベツネははっきりとアベコベ政権べったりの姿勢を臆面もなく打ち出している。今、産経新聞・読売新聞にはジャーナリズムの「ジャ」の字もない。]

 日本の新聞はこの前の戦争のとき、発行部数や社員を守るために、批判もできずに戦争に協力した。朝日、毎日、読売の記者諸君は、戦争中の新聞を取り出して一度読んでみたらいい、どんな新聞を出していたかを。

 真珠湾のときからバンザイ、バンザイですよ。南京大虐殺事件なんか全然報道しない。ポツダム宣言が出たときでさえ、三大新聞はそろって「英米の謀略だ」と書いているんだ。ぼくは獄中に居たんだが、政府が意見を聞きにきたので「すぐ受諾しろ」といったんだよ。そのときはまだソ連が参戦してなかったし、ソ連が入ったら条件は更に厳しくなることはわかっていたから。ところが、新聞は天皇にこだわって、受諾しろという世論を起こさせないようにした。7月27日だった。受諾していれば、広島、長崎に原爆は落ちなかったんだ。

 「真珠湾のとき」の新聞の「バンザイ、バンザイ」は次のようであった(以下は半藤一利編著『昭和史探索 5』を用いています)。

朝日新聞
 「宣戦の大詔こゝに渙発され、一億国民の向ふところは厳として定まつたのである。わが陸海の精鋭はすでに勇躍して起ち、太平洋は一瞬にして相貌を変へたのである」
との社説をかかげ、
「帝国・米英に宣戦を布告す」
と大きな横見出しの下に、
「西太平洋に戦闘開始」と「布畦(ハワイ)米艦隊航空兵力を痛爆」
を六段ぬきで示した。

東京日日新聞
「帝国、米英に宣戦を布告」
の横見出しは同じながら、中央に
「東条首相断乎たる決意力説」
の説明つきで、昼の大政翼賛会中央協力会議で演説する東条の写真をおき、
「英米の暴政を排し/東亜の本然を復す」
の見出しで政府声明をそのまま掲載。

読売新聞
「暴戻・米英に対して宣戦布告」
と、大きく謳いあげた。

 戦中の新聞はまったくの御用新聞であり、ここにもジャーナリズムの「ジャ」の字もない状況だったが、私にはこの頃の新聞に対してはちょっと同情する気持ちがある。なぜなら、新聞だけでなく、羽仁さんのようなごく少数の人を除いて、ほとんどのいわゆる知識人が雪崩を打って国家権力の走狗となっていたのだから。真珠湾のとき「バンザイ、バンザイ」をした知識人は枚挙にいとまない。『探索 5』から、少し拾ってみよう。

 半藤さんは「あの日の朝の日本人の感激」について次のように書いている。

 小学校五年生であったわたくしは、ほとんどの大人たちが興奮して晴々とした顔をしていたことを覚えている。評論家の小林秀雄は
「大戦争が丁度いい時に始まってくれたという気持なのだ」
といい、亀井勝一郎は
「勝利は、日本民族にとって実に長いあいだの夢であった。……維新いらい我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴らすべきときが来た」
と書き、作家の横光利一は
「戦いはついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝った」
と感動の文字を記した。

 この人たちにしてなおこの感ありで、少なくとも日本人のすべてが同様の、気も遠くなるような痛快感を抱いた。勝利に酔った。この戦争は尊皇攘夷の決戦と思ったのである。わたくしが採取した発言などをずらりと拙著から引用してならべてみた。なんでまた、と思うのであるが、これも忘れることのできない、忘れてはならない史料なのである。

 半藤さんが「拙著から引用してならべてみた」と言っているのは、『探索 5』の巻末で、ご自身の著書『真珠湾の日』からの「その日の日本人の証言」の抜粋記事を指している。その中から、よく知られていると思われる人を選んで紹介しよう。

 清水幾太郎(社会学者)、当時読売新聞論説委員。三十四歳。
「諸外国の短波放送が聴ける新聞社では、廊下を流れる空気は特別息苦しく、その息苦しさは日を逐って増して来ていた。あまり息苦しかったので、十二月八日の開戦を知った時、飛んでもないことになったと思うのと同時に、……やっと便通があったという感じでした。……便通から悪性の下痢になり、脱水症状に陥り、終には死に至るかも知れぬという危険を遠くの方に感じながら、しかし、長い間の苦しい便秘の後に漸く便通があったという感じがあった」

 大学教授で評論家本多顕彰(四十三歳)はわかりやすく、開戦のニュースを聞いたあとの決意のほどを書いている。
「『敵性』という呼称が廃せられて、『敵』というはっきりとした呼称が用いられるようになって、私のみならず、国民全体がからっとした気持だろうと思います。聖戦という意味も、これではっきりしますし、戦争目的も簡単明瞭になり、新しい勇気も出て来たし万事やりよくなりました」

 大森山王草堂で『近世日本国民史』の「征韓論」の篇を執筆していた徳富蘇峰も、感動をそのままに日記に綴っている。七十八歳。
「只今我が修史室の一隅にあるラジオは、今晩西太平洋上に於て、日本が米英両国と交戦情態に入りたるを報じた。予は筆を投じて、勇躍三百。積年の溜飲始めて下るを覚えた。皇国に幸運あれ、皇国に幸運あれ」


 爽快さを突きぬけて感動で身を震わしている人もいる。火野葦平(作家)三十四歳。
「私はラジオの前で、ある幻想に囚われた。これは誇張でもなんでもない。神々が東亜の空へ進軍してゆく姿がまざまざと頭のなかに浮んで未だ。その足音が聞える思いであった。新しい神話の創造が始まった。昔高天原を降り給うた神々が、まつろわぬ者共を平定して、祖国日本の基礎をきずいたように、その神話が、今、より大なる規模をもって、ふたたび始められた。私はラジオの前で涙ぐんで、しばらく動くことができなかった」

 加藤芳郎(漫画家)は戦後に回想する。当時は東京市役所防衛局防衛課の臨時雇。十六歳。
「中野区の自宅で揃ってラジオの開戦の報を聴いた。『やったあ!』と、特に高く歓声をあげたのは私と弟(中学一年)で、父と長兄は渋い顔をしていたような気がする。防衛局では、局員で軍籍があった連中は、この日挙って階級章(将校・下士官)をつけた軍服で登庁した。興奮というよりも。暗雲が取り払われたな”といった思い入れで、全局員がほとんど。浮き浮き”とした顔つきだった」

 広津和郎(作家)は五十歳。かれは、もし日米戦争がはじまったら、どんなに陰気なことかとつねづね思っていた。が、開戦を知ると、思いもかけず
「頭が明るくなって来るのを覚え、……あまりの誠が ― この世に何か失われていたように思っていたあまりの誠が、やっぱりあったのだと知った」と回想する。

なかには激情をほとばしらせている人もいる。 斎藤茂吉(歌人)、五十九歳は日記に大書する。
「昨日、日曜ヨリ帝国ハ米英二国ニタイシテ戦闘ヲ開始シタ。老生ノ紅血躍動!」

旅行先の満洲国の奉天で開戦を知った作家林房雄も、日本への報告に書いた。三十八歳。
「大変であろうがなかろうが、もうこれ以上我慢できないのだ、国民はみな大変に臨む覚悟をつけている。決戦態勢は国民の胸の中では夙の昔につけているのだ。慌てることはない」  そして、新京神社の神前にぬかずいて祈った。
「今私に与えられた仕事はいつ止めてもかまいませぬ。ただ神の御旨のまま、我が大君のみことのままでございます」

(中略)

 評論家中島健蔵(三十八歳)は
「ヨーロッパ文化というものに対する一つの戦争だと思う」と述べ、

 同じく小林秀雄(三十九歳)も語った、
「戦争は思想のいろいろな無駄なものを一挙に無くしてくれた。無駄なものがいろいろあればこそ無駄な口を利かねばならなかった」

 同じく保田與重郎(三十一歳)になると、もっとはっきりする。
「今や神威発して忽ち米英の艦隊は轟沈撃沈さる。わが文化発揚の第一歩にして、絶対条件は開戦と共に行われたのである。剣をとるものは剣により、筆をとるものは筆によって、今や攘夷の完遂を期するに何の停迷するところはない」

 三十四歳の亀井勝一郎も胸をはって書いている。
「勝利は、日本民族にとって実に長いあいだの夢であったと思う。即ち嘗てペルリによって武力的に開国を迫られた我が国の、これこそ最初にして最大の苛烈極まる返答であり、復讐だったのである。維新以来我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴すべきときが来たのである」

 作家横光利一(四士二歳)も日記に躍動の文字をしたためた。
「戦いはついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ。自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ。それはもっとも自然なことだ。自分がパリにいるとき、毎夜念じて伊勢の大廟を拝したことが、ついに顕れてしまったのである」

 もちろん「バンザイ、バンザイ」をできない人たちもいた。半藤さんは二人取り上げている。

 その日、枢密院会議を終え帰宅した鈴本貫太郎は、ラジオが叫びつづける開戦の報道を耳にしながら、夫人や子息に表情を暗くしていった。
「これで、この戦争に勝っても負けても、日本は三等国に成り下がる。何ということか」
 元海軍大将の鈴木は七十三歳である。

 四十五歳の詩人金子光晴も、鈴木とはやや違う意味で、戦後の回想において開戦を憎悪している。
「母親も、こどもも、ラジオの前で、名状できない深刻な表情をして黙っていた。/『馬鹿野郎だ!』/噛んで吐きだすようにぼくが叫んだ。戦争が不利だという見とおしをつけたからではなく、当分この戦争がつづくといううっとうしさからである。どうにも持ってゆきどころがない腹立たしさなので、ぼくは蒲団をかぶってねてしまった」

 余談ながら、金子光晴が息子の病をこじらせて息子を徴兵不合格にしたということ、どこかで読んだ記憶がある。だれか取り上げている人はないかとネット検索をして、「『戦争』金子光晴|さんにゴリラのらぶれたあ」さんに出会った。そこに次のように記載されていた。
『1944年、19歳の「子ども」に徴兵検査が来ます。この時父である金子は気管支カタルであった息子を雨中に立たせ、徴兵不合格にしました。1945年再度の徴兵にも診断書を盾に「五十の父親」は徴兵を免れさせます。』
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