2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(65)

終末論の時代(1)

ジャーナリズムの死(1)


 今回から『羽仁五郎の大予言』の第五章「監獄へ(INTO JAIL)」と第六章「終末論の時代」を取り上げる。表題は「終末論の時代」を選ぶことにした。ちなみに、この二つの章の元になった対話はそれぞれ1974年11月・1976年11月に行われている。

 唐突ながら、沖縄問題から入ろう。いま、辺野古への新基地建設をめぐる沖縄の人たちの怒りがひしひしと伝わってくる。私も沖縄の人たちの怒りを共有したいと思った。4月9日東京新聞が『辺野古への新基地建設に反対するための「辺野古基金」の創設』を報じていた。わずかながら、私もその呼びかけに応じた。琉球日報の報道によると、辺野古基金への寄付は1週間で4600万円に達したという。

 この沖縄の基地問題はアメリカ政府の傲慢さと日本政府の追従ぶりの合作である。それは1971年6月に調印された沖縄返還協定で作られた。ニクソンと佐藤栄作の合作である。岸信介―佐藤栄作―安倍晋三と、売国奴一族が日本を売り渡し続けている。(以下の引用文は『オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史』からです。)

 1971年6月、アメリカと日本は沖縄返還協定に調印し、1972年5月に正式に変換が実現する運びとなった。沖縄をベトナムの作戦基地として、あるいは核兵器の保管場所として利用してきたアメリカに、日本人は反感を募らせていた。その気持ちは沖縄の住民も共有していた。新しい協定によれば、アメリカは沖縄を日本に売り戻すが、島内の基地はそのまま残し、有事の際には出撃基地として引き続き使用される。日本は沖縄を「買い戻す」ために法外な金額をアメリカに支払ったばかりか、基地の維持費のかなりの部分を毎年負担することにまで同意した――ほかの地域では、アメリカは基地の受け入れ国に対して貸借料を支払うか、少なくとも維持費を十分に負担しているというのに。おまけに、佐藤栄作首相は沖縄返還後のアメリカ軍による核兵器持ち込みをひそかに認めたので、せっかくの協定に汚点をつけてしまった。

 沖縄はその10年以上前から論争の種になっていた。1960年、アメリカと日本のあいだで相互協力および安全保障条約、いわゆる安保が締結される。この条約はアメリカ軍の沖縄占領ならびにほかの地域での駐留を引き続き認める内容だった。各方面から反対の声があがり、抗議運動のあまりの激しさに、佐藤栄作の兄にあたる岸信介首相の政権は退陣に追い込まれる。おまけに岸首相は、日本の憲法は核兵器の開発を禁じていないと国会で発言する失態まで演じた。核兵器の開発には、ほとんどの日本人が強い嫌悪感を示していたのだ。

 駐日アメリカ大使のダグラス・マッカーサー(二世)は
「反軍国主義的感情、平和主義、曖昧な国民性、核アレルギー、知識人や学者のマルクス主義への傾倒が、この国の中立化をひそかに引き起こす」
と危惧した。

 その前年、マッカーサー大使は日本の最高裁判所長官に圧力をかけ、東京地方裁判所の判決を覆してしまった。それは、「戦争能力」を持つアメリカ軍の日本駐留は、日本の平和憲法のなかで戦争放棄を謳った第九条に違反するという内容だった。ちなみにこの憲法は、大使の叔父にあたるダグラス・マッカーサー司令官の草案がたたき台になっている。

 第九条には「日本国民は、国権の発動たる戦争」を「永久に放棄」して、「陸海空その他の戦力は、これを保持しない」と記されている。同じ時期、日本政府はアメリカとの一連の「密約」の締結にも取りかかり、アメリカの核戦略ならびに戦闘準備を日本政府は支援することがまず決められた。なかでも言語道断なのが「核兵器を搭載したアメリカ海軍の艦船が日本の基地に寄港する際、あるいは日本の領海を通過する際に事前協議は必要ない」という「暗黙の了解」である。

 ニクソンといえば《『羽仁五郎の大予言』を読む》の最初に取り上げた「チリのクーデター」という悪行があるが、「ベトナム戦争」「カンボジア空爆」「ラオス爆撃」と、悪行のオンパレードである。オリバー・ストーンは、「歴史家キャロリン・アイゼンバーグの的確な指摘」として次の文を紹介している。
「国民からもプレスからも、政府官僚からも海外のエリートからも、いっさい請われずに三つの国への軍事行動を起こし、しかも泥沼化させた大統領は、アメリカ史上でもリチャード・ニクソンしかいない」。
 また、ベトナム戦争をめぐってニクソンとキッシンジャーが交わした「悪魔の会話」というほかないとんでもない会話が記録されている。

 ニクソンは南部のあちこちに爆撃を加え、ハイフォンに地雷を敷設していたが、1968年から北ベトナムの都市への爆撃も始めていた。ハノイを「木端微塵に」してやると息巻き、「すごい爆弾をお見舞いしてやるぞ」と宣言した。民間人の犠牲者は膨れ上がったが、ニクソンは良心の呵責といっさい無縁で、キッシンジャーにこう語った。
「きみと私は、ひとつだけ意見が違う……爆撃だよ。きみは民間人の犠牲を極端に気にするが、私はちっともかまわない」。

 そこでキッシンジャーはニクソンに対し、慎重になるのは政治的な計算のうえで、人道的な理由からではないと説明した。
「私が民間人のことを気にするのは、あなたが世界中から虐殺者として非難されては困るからですよ」。

 この残忍極まりないニクソンがウォーターゲート事件(野党・民主党本部があるウォーターゲート・ビルでの盗聴と司法妨害)で失脚する。

 だいぶ長くなったが、以上は第五章の表題「監獄へ(INTO JAIL)」の意味を理解するための前書きでした(以下は『大予言』による)。

 羽仁さんは田中角栄の金脈事件を追求しきれないマスコミの不甲斐なさを嘆き、当時の『東京大学新聞』の「監獄入りを辞さない精神、それがニクソンを追い込んだアメリカの新聞だ」という記事を取り上げている。

 ウォーターゲート事件でニクソンを追い詰めたのは「ワシントン・ポスト」紙だった。そのときの新聞社の社長キャサリン・グレアムが、取材に当っていた若い記者に
「いざとなれば、私が監獄へ入ります」
と励ましていたという。

 また、『ニューヨーク・タイムズ』が国防省のベトナム戦争秘密文書を入手したとき(エルズバーク事件 エルズバーグがニール・シーハン記者にコピーを渡した))、顧問弁護士が全員反対を唱えていたが、社主のザルツバーガーは、記者を信頼して公表に踏み切った。しかも、そのとき彼が編集局へ貼り出した標語が「INTO JAIL」つまり「監獄へ」だった。それが記者たちの合言葉になって、社内のすべての人間が「INTO JAIL」といいながら頑張ったという。羽仁さんはこの標語を第四章の表題に選んだのだった。

 ぼくは、今日本の新聞が掲げる標語があるとすれば、それは《INTO JAIL》しかないと思うんだ。少なくとも《新聞が守るなんでも言える国》なんていうシラジラしいものであってはならないんだよ。日本人には監獄という言葉がピンとこないとしたら《牢獄へ》でも、《刑務所へ》でもいいんだ。

 田中角栄の金脈事件を追及するということは、新聞記者も監獄へ入れられるかも知れぬという覚悟をして取材し発表していくような性質のものなんだよ。あのキャサリン・グレアム女史やザルツバーガーの言葉をジャーナリストは忘れてはならないと思う。

 『ワシントン・ポスト』は立派な新聞だとか、『ニューヨーク・タイムズ』はよくやるといったような問題ではなく、日本の現状を救うには日本の新聞がしっかりしなくてはだめということを新聞人が自覚する以外にないんだ。朝日の広岡知男君(当時の社長)にしても、このグレアム女史の言葉を前にして恥ずかしくはないのだろうか。

 『東京大学新聞』は、もうひとつ重要なことをいっている。それは、いわゆる新聞社の横の連帯についてだ。ベトナム秘密文書を連載し始めた『ニューヨーク・タイムズ』は、国防総省の訴えで裁判所から記事差し止め命令を出された。ところが二、三日たつと、その続きが『ワシントン・ポスト』に連載され始めたんだ。これもまた記事差し止め命令を受ける。すると今度は『ロサンゼルス・タイムズ』がその続きを載せたんだね。むろん記事差し止め命令が出された。これを引き継いだのは『ボストン・エスクワイヤー』なんだ。つまりつぎつぎに新聞が連帯して闘い続けたんだよ。

 こういうふうに、ひとつの新聞が弾圧を受けたら、全部が黙ってしまうのではなく、日本でいえば朝日がやられたら毎日が引き継いで、毎日が弾圧を受けたらすかさず読売がやるというふうにやらなくては、とてもあすこまでやれないんだよ。それができなかったから、東条が政権をとり、侵略戦争を始め、とうとう原爆を落とされるところまで行ってしまったんだ。

 自分が監獄へ行く決意をすれば、それは監獄へ行かなくてすむことになる。自分が監獄へ入るのをいやがったときに、結局入れられるハメになってしまう。原爆というのは、もっとひどいんだ。それを忘れちゃいけない。これは、ぼくだけでなく、日本人全体がこの間の戦争では、自分が捕まるのはいやだというので、ことにインテリはみんな逃げてしまった。捕まった人はほんの少数だったが、三木清や戸坂潤のように獄死させられている。それは、みんなで監獄へ入る決心をしなかったからなんだ。相手を追い落とすためには、こちら側の決意がなければできない。ここのところが実に大切なんだ。

 節を曲げずに逮捕され拷問も受けた羽仁さんの言説だから説得力があるが、じゃおまえはどうすると問われれば、情けないことながら、これまでのようにせいぜい非暴力直接行動の最後尾について行くぐらいで、それ以上は「私にはできません」としか答えられないだろう。

 次回は、上の引用文で触れられている戦中のジャーナリズムの死と、死にいたる道を進みつつあるような現今のジャーナリズムの有様についての談話を読むことにしよう。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1980-600401ea
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック