2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(57)

権力が教育を破壊する(40)

教育反動(32):中曾根臨教審以後(3)


 天皇敬愛教育の学習は新学習指導要領の社会科(小学校)に集中している。これはこれまで見てきたように、自民党の強い圧力を受けての結果である。

 かつて1958年の学習指導要領改訂の際に、小学校6年社会科の憲法学習の目標として
「国家の理想、天皇の地位、国民としてのたいせつな権利や義務」
が明示されていた。象徴概念を不当に拡大した天皇制中心の憲法原理を、前面に押し出し、位置づけたのだった。具体的には、「第6学年2内容(2)ウ」の項で
「日本国憲法には国家の理想、天皇の地位、国民としての権利及び義務などの重要な事柄が定められていることを調べて、それらは国家や国民生活の基本であることを理解すること」
と述べ、さらに「内容の取扱い」において、
「天皇については、日本国憲法に定める天皇の国事に関する行為など児童に理解しやすい具体的な事項を取り上げ、学習との関連も図りながら、天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること」
を挙げている。「など」や「その他」は法律のそこここに現れる反知性主義者たち愛用の用語である。この語一つでどのような拡大解釈も可能となり、あらかじめ法律はざる法となるように仕組まれている。これに対する久保さんの批判は次のようである。


 ここには、第一に憲法原理を歪曲して、子どもたちに憲法を学習させようとする意図があるということである。文部省の『小学校指導書 社会編』(1989-平成元-年6月)には、
「基本的人権の尊重、国民主権、平和主義は、日本国憲法の基本的な原則」
であると書いている。しかし、文部省が法的拘束力があると主張している学習指導要領には、憲法三原則を理念の世界に追いやり、象徴であるにすぎない「天皇の地位」を真正面にとらえて、あたかも天皇が国家の基本であるかのように位置づけているのである。

 これまでも、のべてきたように、天皇は、憲法規定においては、象徴であるにすぎないのである。宮沢俊義は、

 本条(第一条)は、明治憲法のもとで天皇がもっていたような統治権の総攬者たる地位を日本国憲法の天皇に対しては否認し、これにもっぱら国の象徴たる役割を与えることをその狙いとする。その趣旨は、積極的に天皇が国の象徴たる役割をもつことを強調するにあるよりは、むしろ、消極的に天皇が国の象徴たる役割以外の役割を原則としてもたないことを強調するにある。……要するに、本条の規定は、天皇の国の象徴以外の役割を原則として否認することのほかは、天皇の象徴としての役割を、創設的に規定したのでなく、単に宣言的に定めたにすぎない、と解すべきである。

とのべ、象徴概念の拡大を厳しく否認しているのである。

 前述の学習指導要領の「内容の取扱い」においては、「天皇については、日本国憲法の定める天皇の国事行為など児童に理解しやすい具体的事項を取り上げて指導し、……天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること」を要求している。天皇の「国事行為」は、憲法第7条によって厳密に規定され、
「憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること、国会を召集すること、栄典を授与すること、外国の大使等を接受することなど」
を行うことになっている。しかし、これらの冷厳な行為が、子どもたちに感動を与え、天皇に対し、尊敬、親しみの心を誘発させるものになるとは考えられない。したがって、「国事行為など」の「など」の行為にそれを求めなければ、子どもの心にアピールしない。

 すなわち植樹祭、国体などへの出席、大相撲などの観覧、誕生日参賀市民に対する挨拶などの「国事行為」以外の言動・行為に結びつけることにならざるをえなくなろう。

 ここに大きな矛盾が存在する。天皇の地位は、「象徴」であること、それ以外の何物でもないことは、前述のとおりである。そして、「象徴」であるがゆえに、天皇に対する「敬愛」を要求しながら、「象徴」そのものの性格からはそれを引き出すことはできず、「象徴」以外の行為から、それを求めなければならない、という矛盾である。それは、どこかに天皇を「元首」化しようとする意図があるからである。

 それは、象徴概念を不当に拡大するだけでなく、象徴そのものを倫理的概念に転換させ、さらに、天皇と国家を同心円的地位におき、天皇を尊敬し親しみの心をもたせるという倫理観を強要することに通じる。

 天皇に関する客観的知識を学習することと、その学習の結果、ひとりひとりの子どもが、天皇に対してどのような感情をいだくことになるかということとは別の次元の問題であろう。ここからも、天皇に対する「敬愛」の深化という倫理観の強要は、教育原則からいって誤りである、ということである。

 次に、久保さんの批判は、前回取り上げた修正(例二)に向けられる。この修正は社会科(第6学年)における歴史学習の「内容」の一つ
「イ・・・大和朝廷による国土の統一の様子について理解すること。その際、神話・伝承を調べて、国の形成に関する考え方などに関心をもつこと」
に対して、付け加えられた修正事項である。再録すると
「イの神話・伝承については、古事記、日本書紀、風土記などの中から適切なものを取り上げること」
である。

 神話教育は、1968年版学習指導要領において導入されたが、「古事記・日本書紀・風土記」からその教育内容を取り上げることを指示したのは、今回がはじめてである。さらに、小学校指導書においては、「古事記・日本書紀・風土記」などには、国の形成に関する考え方をくみとることのできる神話・伝承として、高天原神話、天孫降臨、出雲国譲り、神武天皇の東征の物語、日本武尊の物語などが記述されているので、それらを選んで指導することを明示している。

 私たちは「古事記・日本書紀・風土記」の史料としての価値や信憑性については『真説・古代史』シリーズで詳しく学習している。古田さんによって論破され尽くしているヤマト王権一元主義という歪曲された偽学問しか知らない(知っていたとしても「見猿聞か猿言わ猿」を決め込んでいる)反知性主義者たちが子供たちにウソを教え込んで、天皇家尊崇イデオロギーで洗脳しようとしている。天皇敬愛教育が憲法原理の歪曲によって構成されていたが、ここでは歴史の歪曲が臆面もなく貫かれている。これに対する久保さんの批判は次のようである。

これらの物語は、神話を材料としながらも、それを著しく書き改めていること、しかもその書き直しは、後代の天皇が天皇支配の正統性を確立しようという意図から行われたものである。しかし、このことについては、いっさいふれられていない。学習指導要領は、前述のように、
「歴史に関する学習との関連を図りながら、天皇についての理解と敬愛の念を深める」
ことを要求していた。歴史的事実や歴史学の研究の成果に立って、古代から現代にいたるまでの歴史を学習するならば、例えば、太平洋戦争に関する昭和天皇の戦争責任について学習するならば、天皇への敬愛の念はもちろんいだかず、天皇憎悪感さえ深めかねないであろう。

 記・紀神話の教育も、その神話を美化し、理想化して、天皇に対する尊敬の念やカリスマ性的帰依に、理性的にでなく、情緒的・感覚的に、さらに信仰によって誘導することになろう。かてて加えて、「君が代」=国歌斉唱や「日の丸」=国旗掲揚の強制は、それらが天皇制の記号である以上、この心情形成に、促進剤の役割を演じることになろう。

 先に、臨教審の答申においても、また教課審の答申も、教育全体の統一とて、一貫して徳育の重視を強調したことをのべておいた。学習指導要領の総則においては、「学校における道徳教育は、学校の教育活動全体を通じて行う」ものであるとしている。道徳の目標に「生命に対する畏敬の念」がかかげられたことの意味は大きく、かつ重大である。臨教審の教育基本法第一条の「人格の完成」に関する解釈において、つぎのようにのべていた。
「『人格の完成』は、いわば理想的な人間の類型であり、それは個々の自然的人間こえて普遍的、理想的、宗教的、超越的な究極の価値を永遠に求め続ける人間の営みの中にこそあるものである」
 これは、絶対者すなわち神を尊崇し、帰依すること、いいかえれば聖なるものに対する畏敬の念をもつことを意味するのである。したがって田中耕太郎が述べたような、「完成された人格の内容の中」には「当然国家や民族の意義と価値の認識、国家の権威と秩序の尊重……等が含まれる」という所説を援用して、臨教審は、「人格の完成」概念を拡大解釈していったのである。

 「生命に対する畏敬の念」も、「人格の完成」概念に酷似しており、両者は、究極的な価値を永遠に求め続けるという点において共通性を帯びている。

 「畏敬の念」が明確にのべられたのは、「期待される人間像」(1966-昭和41一年、中教審答申)においてである。
「生命の根源に対して畏敬の念をもつことである。人類愛とか人間愛とかいわれるものもそれに基づくのである(すべての宗教的情操は、生命の根源に対する畏敬の念に由来する)」
「国家を正しく愛することが国家に対する忠誠である。正しい愛国心は人類愛に通ずる」
「日本国を愛するものが、日本国の象徴を愛するということは、論理上当然である」
「天皇への敬愛の念をつきつめていけば、それは日本国への敬愛の念に通ずる。けだし日本国の象徴たる天皇を敬愛することは、その実体たる日本国を敬愛することに通ずるからである」。

 こうして中教審答申は「生命に対する畏敬の念」→「人類愛」→「愛国心」→「象徴を愛する」→「天皇への敬愛」へと三段論法式に推論して、「生命に対する畏敬」が「天皇敬愛に通じる回路」を導き出してきたのである。

 新学習指導要領においても、「生命に対する畏敬の念」(道徳目標)と「天皇についての理解と敬愛の念」(小学校6年社会)と「国を愛する心」(小学校5・6年道徳)、「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家の発展に尽くす」(中学校道徳)ことが強く連結されているのである。このように、「生命に対する畏敬の念」を道徳教育の中核に、いいかえれば全教科の中核に据えたのは、教基法の「人格の完成」概念を拡大解釈し、臨教審の提起した、
①ひろい心とゆたかな創造力、
②自主・自律の精神、
③世界の中の日本人、
という徳目に具体化し、そこに、愛国心、天皇敬愛の徳目をピラミッドの頂点に位置づけようとする意図があったからである。これは、昭和天皇死後の象徴天皇制を国際化時代において、いかに再編成していくかの教育政策的反映でもあったといえよう。しかし、これは、日本の未来への展望を欠いた選択肢であったというべきである。

 以上のような「日本の未来への展望を欠いた選択肢」がその後もまったく吟味されることなく、現在に至るまで固執されている。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(57)

権力が教育を破壊する(40)

教育反動(32):中曾根臨教審以後(3)


 天皇敬愛教育の学習は新学習指導要領の社会科(小学校)に集中している。これはこれまで見てきたように、自民党の強い圧力を受けての結果である。

 かつて1958年の学習指導要領改訂の際に、小学校6年社会科の憲法学習の目標として
「国家の理想、天皇の地位、国民としてのたいせつな権利や義務」
が明示されていた。象徴概念を不当に拡大した天皇制中心の憲法原理を、前面に押し出し、位置づけたのだった。具体的には、「第6学年2内容(2)ウ」の項で
「日本国憲法には国家の理想、天皇の地位、国民としての権利及び義務などの重要な事柄が定められていることを調べて、それらは国家や国民生活の基本であることを理解すること」
と述べ、さらに「内容の取扱い」において、
「天皇については、日本国憲法に定める天皇の国事に関する行為など児童に理解しやすい具体的な事項を取り上げ、学習との関連も図りながら、天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること」
を挙げている。「など」や「その他」は法律のそこここに現れる反知性主義者たち愛用の用語である。この語一つでどのような拡大解釈も可能となり、あらかじめ法律はざる法となるように仕組まれている。これに対する久保さんの批判は次のようである。


 ここには、第一に憲法原理を歪曲して、子どもたちに憲法を学習させようとする意図があるということである。文部省の『小学校指導書 社会編』(1989-平成元-年6月)には、
「基本的人権の尊重、国民主権、平和主義は、日本国憲法の基本的な原則」
であると書いている。しかし、文部省が法的拘束力があると主張している学習指導要領には、憲法三原則を理念の世界に追いやり、象徴であるにすぎない「天皇の地位」を真正面にとらえて、あたかも天皇が国家の基本であるかのように位置づけているのである。

 これまでも、のべてきたように、天皇は、憲法規定においては、象徴であるにすぎないのである。宮沢俊義は、

 本条(第一条)は、明治憲法のもとで天皇がもっていたような統治権の総攬者たる地位を日本国憲法の天皇に対しては否認し、これにもっぱら国の象徴たる役割を与えることをその狙いとする。その趣旨は、積極的に天皇が国の象徴たる役割をもつことを強調するにあるよりは、むしろ、消極的に天皇が国の象徴たる役割以外の役割を原則としてもたないことを強調するにある。……要するに、本条の規定は、天皇の国の象徴以外の役割を原則として否認することのほかは、天皇の象徴としての役割を、創設的に規定したのでなく、単に宣言的に定めたにすぎない、と解すべきである。

とのべ、象徴概念の拡大を厳しく否認しているのである。

 前述の学習指導要領の「内容の取扱い」においては、「天皇については、日本国憲法の定める天皇の国事行為など児童に理解しやすい具体的事項を取り上げて指導し、……天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること」を要求している。天皇の「国事行為」は、憲法第7条によって厳密に規定され、
「憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること、国会を召集すること、栄典を授与すること、外国の大使等を接受することなど」
を行うことになっている。しかし、これらの冷厳な行為が、子どもたちに感動を与え、天皇に対し、尊敬、親しみの心を誘発させるものになるとは考えられない。したがって、「国事行為など」の「など」の行為にそれを求めなければ、子どもの心にアピールしない。

 すなわち植樹祭、国体などへの出席、大相撲などの観覧、誕生日参賀市民に対する挨拶などの「国事行為」以外の言動・行為に結びつけることにならざるをえなくなろう。

 ここに大きな矛盾が存在する。天皇の地位は、「象徴」であること、それ以外の何物でもないことは、前述のとおりである。そして、「象徴」であるがゆえに、天皇に対する「敬愛」を要求しながら、「象徴」そのものの性格からはそれを引き出すことはできず、「象徴」以外の行為から、それを求めなければならない、という矛盾である。それは、どこかに天皇を「元首」化しようとする意図があるからである。

 それは、象徴概念を不当に拡大するだけでなく、象徴そのものを倫理的概念に転換させ、さらに、天皇と国家を同心円的地位におき、天皇を尊敬し親しみの心をもたせるという倫理観を強要することに通じる。

 天皇に関する客観的知識を学習することと、その学習の結果、ひとりひとりの子どもが、天皇に対してどのような感情をいだくことになるかということとは別の次元の問題であろう。ここからも、天皇に対する「敬愛」の深化という倫理観の強要は、教育原則からいって誤りである、ということである。

 次に、久保さんの批判は、前回取り上げた修正(例二)に向けられる。この修正は社会科(第6学年)における歴史学習の「内容」の一つ
「イ・・・大和朝廷による国土の統一の様子について理解すること。その際、神話・伝承を調べて、国の形成に関する考え方などに関心をもつこと」
に対して、付け加えられた修正事項である。再録すると
「イの神話・伝承については、古事記、日本書紀、風土記などの中から適切なものを取り上げること」
である。

 神話教育は、1968年版学習指導要領において導入されたが、「古事記・日本書紀・風土記」からその教育内容を取り上げることを指示したのは、今回がはじめてである。さらに、小学校指導書においては、「古事記・日本書紀・風土記」などには、国の形成に関する考え方をくみとることのできる神話・伝承として、高天原神話、天孫降臨、出雲国譲り、神武天皇の東征の物語、日本武尊の物語などが記述されているので、それらを選んで指導することを明示している。

 私たちは「古事記・日本書紀・風土記」の史料としての価値や信憑性については『真説・古代史』シリーズで詳しく学習している。古田さんによって論破され尽くしているヤマト王権一元主義という歪曲された偽学問しか知らない(知っていたとしても「見猿聞か猿言わ猿」を決め込んでいる)反知性主義者たちが子供たちにウソを教え込んで、天皇家尊崇イデオロギーで洗脳しようとしている。天皇敬愛教育が憲法原理の歪曲によって構成されていたが、ここでは歴史の歪曲が臆面もなく貫かれている。これに対する久保さんの批判は次のようである。

これらの物語は、神話を材料としながらも、それを著しく書き改めていること、しかもその書き直しは、後代の天皇が天皇支配の正統性を確立しようという意図から行われたものである。しかし、このことについては、いっさいふれられていない。学習指導要領は、前述のように、
「歴史に関する学習との関連を図りながら、天皇についての理解と敬愛の念を深める」
ことを要求していた。歴史的事実や歴史学の研究の成果に立って、古代から現代にいたるまでの歴史を学習するならば、例えば、太平洋戦争に関する昭和天皇の戦争責任について学習するならば、天皇への敬愛の念はもちろんいだかず、天皇憎悪感さえ深めかねないであろう。

 記・紀神話の教育も、その神話を美化し、理想化して、天皇に対する尊敬の念やカリスマ性的帰依に、理性的にでなく、情緒的・感覚的に、さらに信仰によって誘導することになろう。かてて加えて、「君が代」=国歌斉唱や「日の丸」=国旗掲揚の強制は、それらが天皇制の記号である以上、この心情形成に、促進剤の役割を演じることになろう。

 先に、臨教審の答申においても、また教課審の答申も、教育全体の統一とて、一貫して徳育の重視を強調したことをのべておいた。学習指導要領の総則においては、「学校における道徳教育は、学校の教育活動全体を通じて行う」ものであるとしている。道徳の目標に「生命に対する畏敬の念」がかかげられたことの意味は大きく、かつ重大である。臨教審の教育基本法第一条の「人格の完成」に関する解釈において、つぎのようにのべていた。
「『人格の完成』は、いわば理想的な人間の類型であり、それは個々の自然的人間こえて普遍的、理想的、宗教的、超越的な究極の価値を永遠に求め続ける人間の営みの中にこそあるものである」
 これは、絶対者すなわち神を尊崇し、帰依すること、いいかえれば聖なるものに対する畏敬の念をもつことを意味するのである。したがって田中耕太郎が述べたような、「完成された人格の内容の中」には「当然国家や民族の意義と価値の認識、国家の権威と秩序の尊重……等が含まれる」という所説を援用して、臨教審は、「人格の完成」概念を拡大解釈していったのである。

 「生命に対する畏敬の念」も、「人格の完成」概念に酷似しており、両者は、究極的な価値を永遠に求め続けるという点において共通性を帯びている。

 「畏敬の念」が明確にのべられたのは、「期待される人間像」(1966-昭和41一年、中教審答申)においてである。
「生命の根源に対して畏敬の念をもつことである。人類愛とか人間愛とかいわれるものもそれに基づくのである(すべての宗教的情操は、生命の根源に対する畏敬の念に由来する)」
「国家を正しく愛することが国家に対する忠誠である。正しい愛国心は人類愛に通ずる」
「日本国を愛するものが、日本国の象徴を愛するということは、論理上当然である」
「天皇への敬愛の念をつきつめていけば、それは日本国への敬愛の念に通ずる。けだし日本国の象徴たる天皇を敬愛することは、その実体たる日本国を敬愛することに通ずるからである」。

 こうして中教審答申は「生命に対する畏敬の念」→「人類愛」→「愛国心」→「象徴を愛する」→「天皇への敬愛」へと三段論法式に推論して、「生命に対する畏敬」が「天皇敬愛に通じる回路」を導き出してきたのである。

 新学習指導要領においても、「生命に対する畏敬の念」(道徳目標)と「天皇についての理解と敬愛の念」(小学校6年社会)と「国を愛する心」(小学校5・6年道徳)、「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家の発展に尽くす」(中学校道徳)ことが強く連結されているのである。このように、「生命に対する畏敬の念」を道徳教育の中核に、いいかえれば全教科の中核に据えたのは、教基法の「人格の完成」概念を拡大解釈し、臨教審の提起した、
①ひろい心とゆたかな創造力、
②自主・自律の精神、
③世界の中の日本人、
という徳目に具体化し、そこに、愛国心、天皇敬愛の徳目をピラミッドの頂点に位置づけようとする意図があったからである。これは、昭和天皇死後の象徴天皇制を国際化時代において、いかに再編成していくかの教育政策的反映でもあったといえよう。しかし、これは、日本の未来への展望を欠いた選択肢であったというべきである。

 以上のような「日本の未来への展望を欠いた選択肢」がその後もまったく吟味されることなく、現在に至るまで固執されている。
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