2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(58)

権力が教育を破壊する(41)

教育反動(33):21世紀に入って(1)


 <教科書C>は1998年~1999年に改訂された学習指導要領の批判で終わっている。今回からは、その後現在に至るまでの21世紀における教育政策の実態を追っていきます。<教科書E>を用います。

 ちょっと復習すると、学習指導要領改訂を方向付けた基本理念は中教審が答申した「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」であり、次の二点がその柱となっていた。
①道徳心・愛国心の形成(不易)
②「生きる力」(「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断・行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」)の育成(流行)


 ①ではその価値を自明視しているが、これが②の主体的に判断・行動するという「生きる力」と矛盾しているという自覚が、自民党・文部科学省(2001年に再編成されて名称が変わった。以後は文科省と略記する)には全くないようだ。この問題は21世紀になっても不問に付されたまま引き継がれていく。21世紀に入ってからの教育破壊状況を見ていこう。

 21世紀に入ると国家による教育改革の策定は文科相の諮問機関である中教審ではなく、臨教審と同じように、首相の強い意向によって設置された私的諮問機関である「教育改革国民会議」や「教育再生会議」などが中心となって推し進められていった。これは、財界の意向を受けた自民党による教育支配の動向がよりあからさまになってきたということにほかならない。

2000年3月
 首相(小渕)の私的諮問機関「教育改革国民会議」を設置。
同年12月
 教育改革国民会議、最終報告「教育を変える17の提案」を提出。
2001年1月
 文科省、「21世紀教育新生プラン」を発表。

 文科省のプランは教育改革国民会議の提案をほぼ全面的に引き継いだものであり、それによる教育改革の具体的措置を示したものである。

 同プランは、「日本の教育が危機に瀕している」との教育改革国民会議の認識をそのまま継承し、その危機的状況として次の三点を挙げ、その対応策を提言している。

第一点
 不登校、校内暴力、学級崩壊、凶悪な青少年犯罪が続発していることと、その背景に家庭や地域社会の「教育力」の低下と、過度に個人の尊重を強調し「公」を軽視する傾向が看取される。
<対応策>

 「家庭教育手帳」「家庭教育ノート」の作成・配布。

 道徳の副教材「心のノート』の作成・配布(2001年度から実施)。

 奉仕活動の充実(2001年7月に「学校教育法」「社会教育法」を改正)。

 出席停止制度の要件の明確化。

第二点
 行き過ぎた平等主義による教育の画一化や過度の知識の詰め込みにより、子どもの個性・能力に応じた教育が軽視されている。
<対応策>

 全国的な学力調査の実施。

 中高一貫教育の推進。
③大学への17歳入学の促進

第三点
 科学技術の急速な発展、経済社会のグローバル化・情報化など社会が大きく変化する中で、これまでの教育システムが時代や社会の進展から取り残されつつある。
<対応策>

 指導力不足教員に対する人事管理システムづくり。

 各学校における評価システムの確立。

 新しいタイプの学校(コミュニティ・スクール)の設置の促進。

 第二点は教育への競争原理の導入にほかならない。このことについて思い出したことがある。教育改革国民会議の座長は江崎玲於奈だったが、江崎が座長の時に発したトンデモ発言を取り上げて批判したことがある。このブログを立ち上げた最初のテーマ『教育について』の中の一節で『「非才、無才」が反逆する』という記事で、もう10年ほども前の記事である。こういう愚か者が集まって、偉そうに教育を論じているのだと、暗澹たる気持ちになったのだった。

 教育への競争原理導入を批判した記事がもう一つあった。『今日の話題』の中の一記事で、『フィンランドの教育』である。

 さて、この文科省による「改革プラン」について山本さん(<教科書E>の著者です)は、「問題に対する事実認識」の妥当性、「競争原理導入」の妥当性、冒頭で指摘した「徳育と知育を要請する論理」の不整合性、という三つの問題点を指摘して批判している。そのまま全文引用しよう。

 「教育改革国民会議報告」に基づくこれらの施策と、その前提をなす教育上の基本認識に対しては、いくつかの問題を指摘することができる。

 第一に、改革プランの事実認識に関わる実証性の問題である。例えば、「教育的危機」として取り上げられている青少年犯罪の発生率についていえば、日本は先進諸国の中で極めて低い水準にあった。1996年時点での少年による殺人の発生率は、アメリカが日本の約14倍、ドイツが約6倍、フランスとイギリスが約5倍の水準であった。いじめや校内暴力についても、必ずしも日本の状況が他の先進諸国と比べて際立って悪化していることを示すデータが存在するわけではなく、さらに、その原因が学校教育のあり方や「公」軽視の傾向にあることを裏づける客観的根拠が提示されているわけでもなかった。問題に対する事実認識が、実証的なデータではなく情緒的な印象に基づくものだとすれば、その施策の妥当性・有効性は根底から再吟味されねばならないはずである。

 第二に、子どもの個性・能力に応じた教育や、新しいタイプの教育システムづくりへの対策として、習熟度別学習の普及や中高一貫校の設置、あるいは学校選択制への移行など、いわゆる競争原理の導入がその基軸をなす観点とされている点である。もちろん、「行き過ぎた平等主義」や「時流に取り残された教育システム」という認識自体の正当性が尋ねられる必要があることはいうまでもないが、競争原理の導入が社会的・経済的弱者を切り捨ててしまう恐れはないのかや、競争原理が「教育の私事化」を促進し、それが逆に「個」の過度の尊重や「公」軽視の風潮を激化させる恐れはないのかなど、丁寧な議論を要する問題が残されていることは否めない。

 そして第三に、複数の課題を提起する場合の、各課題間の整合性の問題についてである。例えば、「教育改革国民会議報告」では、「個々人の才能の伸長」のためには「一律主義を改め、個性を伸ばす」ことが求められつつも、「人間性豊かな日本人の育成」のためには「道徳の教科化」が示唆され、「奉仕活動の義務化」が謳われている。つまり、知識・技術に関わる側面では、個性化や自由化が叫ばれながら、道徳や国家意識に関する側面では、画一化や他律化が自明の前提とされているように見えるのである。だが、この「知」と「徳」との教育を要請する論理の不整合(さらに不整合が生じていることへの無自覚)が、個々人の成長の意味を個々人の内部にて分裂させてしまうことになりはしないのか、そのことが問われねばならないはずである。

 ところで、この、「知」は時代の進展に応ずるものを、「徳」は普遍的価値に基づくものを、という二重の教育要請は、この国が「制度としての教育」を推し進めようとして以来の全体的傾向といえ、さらに戦後、高度経済成長期の「人づくり」政策以降に最も顕著に認めることのできる教育政策上の特質と評することができる。そして、戦前(とりわけ昭和戦前期)において、「知」と「徳」との統合を「国体精神」に求めようとする思考様式が存在した(「国体精神」の涵養が、「知」「徳」の統合を可能にする)ことに着目するならば、戦後において(少なくとも天野貞祐文部大臣の時代から)一貫して「愛国心」育成の必要が強調されてきたことの理由も、この問題に関連づけて理解することができるかもしれない。

 すなわち、国を愛し、国の発展に尽くそうとする心の形成が、一方で「流行」としての「知」を開拓し、他方で「不易」としての「徳」を受容する人格の基盤となる、という思考様式の存在可能性である。実際「教育改革国民会議報告」は「教育基本法」の改定を求め、新しい基本法には「自然、伝統、文化の尊重、そして家庭、郷土、国家などの視点」を盛り込むべきことを強く要請した。「二十一世紀教育新生プラン」も、「教育基本法」の見直しを中央教育審議会に諮問するスケジュールを公表した。だが、「愛国心」を基盤に個々人の人間形成(「知」「徳」の涵養)を推し進めようとする論理は、まさに「国家による国民形成」それ自体を支える論理というべきである。その意味で、21世紀を展望する教育政策プランといっても、それは依然として「国家による国民形成」という論理的枠組みの内部に所在し、そこからの離陸を企図するようなものではなかったというべきである。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1970-6c5d6d3a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック