2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(55)

権力が教育を破壊する(38)

教育反動(30):中曾根臨教審以後(1)


 (今回からは教科書として、<教科書C> 久保義三著『昭和教育史』の外に、<教科書E> 山本正身著『日本教育史』を追加します。)

 久保さんは臨教審の答申を「21世紀に向けての真の教育改革たりえず、世界史の流れにも背を向けていくものである」と厳しく批判したが、その答申はその後の教育政策のあからさまな国家主義的反動化に引き継がれていった。臨教審後の教育反動の流れを追ってみよう。

1985年9月
 文部大臣、教育課程審議会(会長・福井謙一 以下「教課審」と略す)に「幼稚園、小学校、中学校及び高等学校の教育課程の基準の改善について」を諮問。

1987年8月
 臨教審が設置期間満了。

1987年12月24日
 教課審、文部大臣に答申。

1989年2月10日
 その答申に基づいて、文部大臣、「幼稚園教育要項、小・中・高校の学習指導要領改訂案」を公表。

1989年3月15日
 上記「案」に重要な変更が行われ、文部省告示第24号として告示。

1989年4月
 中央教育審議会、再開。
 教育政策に関する議論は、再び中教審に委ねられることになった。

 1996年7月
 中教審、「二十一世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の第一次答申を発表。

 この答申では、臨教審が持ちだした教育における「不易」と「流行」という概念を引き継いでいる。答申が主張するところはおおよそ次のようである。

 第一に、教育には、どれほど社会が変化しようとも「時代を超えて変わらない価値のあるもの」(不易)を二点挙げて、それらを涵養する教育が極めて重要だとしている。  一つは
「豊かな人間性、正義感や公正さを重んじる心、自らを律しつつ、他人と協調し、他人を思いやる心、人権を尊重する心、自然を愛する心」
などの道徳心であり、もう一つは
「子供たちにその国の言語、その国の歴史や伝統、文化などを学ばせ、これらを大切にする心」
すなわち、国家に対する帰属意識や忠誠心(愛国心)である。

 第二に、答申は、教育は「時代の変化とともに変えていく必要があるもの」(流行)に柔軟に対応していくことも必要だとする。すなわち、
「国際化や情報化などの社会の変化に対して迅速な対応する」
とともに、将来の社会変化に対応するため
「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断・行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」
を育むことも重要な課題だとした。そして、そうした資質や能力のことを「生きる力」と呼んだ。

 こうして、21世紀に向けて、国際社会の中で活躍できる日本人を育成するために、
①道徳心・愛国心の形成(不易)
②「生きる力」の育成(流行)
という二つの方向性が打ち出された。

 1989年は1月7日に天皇裕仁がなくなっている。そのことが学習指導要領改訂や中教審の答申に大きな影響を与えただろうことは容易に想像できる。久保さんは学習指導要領改訂について
「このように、幼稚園から高校までを一斉に改訂するのは、戦後はじめてであり、昭和の終焉にふさわしく、その規模においても、その質においても空前であった。」
と述べている。そしてその内容たるや、さらに輪をかけて「21世紀に向けての真の教育改革たりえず、世界史の流れにも背を向けていくもの」であった。まさに、学習指導要領改訂は反知性主義・歴史歪曲主義というイデオロギー(虚偽意識)にがんじがらめになって行われていたのだ。久保さんの分析を追っていこう。

 教課審の答申は、中教審答申を参考にしている点もあるが、前述した臨教審答申から重要な指針や教育内容の改善策について、多くを負っている。就中道徳教育の強化がその最たるものである。

 したがって学習指導要領改訂は、小学校低学年の社会、理科を廃止して生活科の新設、高校社会科を解体し、地理歴史科と公民科に分割したこと、国旗・国歌の強制、歴史上の人物名の明示、神話教育における『古事記』・『日本書紀』等の指定、天皇の地位に対する理解と敬愛の深化に及んでいるが、いずれも、道徳教育の強化に収斂していくものであった。

 しかも、道徳の内実となるものは、天皇に対する敬愛と国を愛する心である。この意味で、学習指導要領の改訂は、個々ばらばらに分散孤立して、各教科内容が改訂されたものではなく、昭和天皇の死去に際して醸し出された予期しない復古的風潮を背景にして、天皇敬愛を核とする、徳育重視の教育観によって、首尾一貫しているのである。

 学習指導要領が「徳育重視の教育観によって、首尾一貫している」流れの源泉はやはり臨教審であった。

 高校社会科を地理歴史科と公民科に分割するという構想の発端は、臨教審における教育目標論の審議過程においてであった。すでに前項においてのべておいたように、臨教審においては、21世紀に求められる日本人の資質とそれを達成するための教育目標として、

一、ひろい心とゆたかな創造力、
二、自主・自律の精神、
三、世界の中の日本人、

を挙げたのである。そして、その項目の説明において、
「世界から信頼される日本人にふさわしい礼節、礼儀作法をしっかりしつけること、日本の豊かな歴史、伝統、文化を大切にし、国を愛する心を育くむこと、……初等中等教育における社会科の在り方を見直し、世界地理、日本地理、世界史、日本史の基礎・基本をしっかりと教えるようにすること、……」
が強調された。

 このように「世界の中の日本人」であるためには、日本人としての自覚をすることであり、愛国心を高めることである。そのためには、これまでの社会科を解体し、地理・歴史を独立させ、しっかりと学習させることであるとしたのである。これは、臨教審第二次答申として、中曾根首相に答申されたのである。

 教育課程審議会が教育課程問題を審議の最中の1987年10月2日に、リクルート事件に関係した高石邦男文部次官が二回も総理官邸で中曾根首相に会い、そのとき、「地理と歴史は大切だ」という首相の意向が伝えられ、高石次官がその実現を引き受けたという。その後、高石次官は、歴史独立、世界史必修へと大きく踏み込み、その結果、同年11月13日の高等学校教育分科審議で、社会科解体案が決定された。この詳細については市川博「学習指導要領を書いたのは誰か」(「世界」1989年11月号)にのべられている。

 教育内容そのものに対する政治権力の介入は、教課審レベルだけでなく、学習指導要領の起草過程においても、不当な圧力が加えられていたという。次のようである。

 中島源太郎は、文相に、1987(昭和62)年12月に就任した。翌年2月の学習指導要領案では、日本史については12の歴史区分を設け、「日清・日露戦争と国力の充実」の項にふさわしい人物として伊藤博文と小村寿太郎の名前が上っていた。その後、4月案では小村寿太郎が消え、かわりに東郷平八郎が入っていた。それが5月16日の『朝日新聞』にスクープされ、文相もそれを知って驚いたという状況であった。

 文相は、その取り消しを担当者に指示し、省議でも反対であると発言し、また内閣改造で後任の西岡武夫文相との事務引き継ぎの際、
「小学校6年で教える社会科の歴史に東郷平八郎を入れることに反対です」
とその一点だけを申し送り事項にした。しかし、結局それは受け入れられなかった。これを見ても、東郷平八郎を入れるということについて、相当強い圧力があったことが理解される。

 その圧力集団の一つが、自民党文教族で構成される「初等中等教育に関するプロジェクトチーム」であった。

 ついでながら、現在、塾マネーがらみの政治資金問題で追及されている下村文部科学大臣は文教族としてのキャリアを積んでのし上がってきた人である。このお人、親学という全く反知性的な偽学問の信奉者である。こういう人にこそ道徳教育が必要だ。

 さて自民党文教族が教育政策議論にどのような圧力を掛けていたのか。(次回に)
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