2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(52)

権力が教育を破壊する(35)

教育反動(27):中曾根臨教審(5)


(2) 教育基本法への対応

 「中曾根臨教審(3)」で指摘したように、臨教審法第1条は
「教育基本法の精神にのっとり、その実現を期して各般にわたる施策につき必要な改革を図る」
とうたっている。これについて久保さんの
「これは一つには、野党対策でもあり、二つには、こと荒立てて教育基本法改正といわなくても、解釈改法により、実質的に改正の目的が達成されるからである。」
という論評を紹介した。では、臨教審は具体的にどのように教基法の「解釈改法」を行っていたのか、見てみよう。

 久保さんは、「審議経過の概要(その2)」を用いて、教基法をめぐる臨教審の審議を分析している。それによると、教基法に対する評価としては、積極的な評価や消極ながら評価するものがあったが、条文改正の主張はほとんどなかったという。しかし、今後とも「教育の目標」論議を深めていくことになり、それに関連した討議の中では、「教育憲章」を新たに制定せよ、「国会決議も一つの方法である」という提唱もなされたという。

 「教育の目標」論議では
「『人格の完成』に自己を内から律する価値を入れなければならない」
という主張に対しては、
「内面的規範に立ち入るのはよくない」
という意見があり、
「国会決議」に対しては
「国会決議になじむとは考えられない」
という意見があったという。
 あるいは、
「簡潔な内容で、かつ国民大多数の合意が得られるものであれば、必要性を提起する意義もある」
との意見も見られた。そして、教育の目標を一律に論ずることはきわめて困難である、とされた。

 上の意見の中で「内面的規範に立ち入るのはよくない」というしごく真っ当な意見があったことが注目される。それが、共通見解として合意されていけば、現在のアベコベ政権の教育政策(折しも、2月4日、文部科学省が内面的規範に土足で踏み込むような「道徳正式教科化」改定案を公表した)も含めて、異なった局面が展開されたかも知れないと思えるが、残念ながら、これは少数意見にとどまったようである。

 自民党が教基法を問題視してきたのは、主として第一条の教育目的条項に対してであった。教基法の教育目的条項には、愛国心・伝統文化の尊重などが盛られていない、という不満を提起してきたのだった。

 臨教審の「教育の目標」論議について、久保さんは次のように解説している。この解説はアベコベ政権の「道徳正式教科化」指向への批判ともなっている。

 教育目的といえば、当然いかなる人間を形成すべきか、どのような国民的素質をもった個人を育成すべきか等々に関わってくるのである。したがって、このような教育目的に関する事項は、市民社会においては、それぞれの市民に、また子どもの教育に直接責任を有する両親を含む国民の自主的判断に委ねられたり、あるいは宗教的倫理観が、それに代わることが一般的であった。それを、教育基本法第一条のように、法律において明文化することの必然性は、長く国民の教育目的を教育勅語に依存せざるをえなかった、天皇制国家の特殊性から由来するところが大であったといわなければならない。

 法律において明文化される教育目標が、人類普遍の価値であるにせよ、あるいは基本的人権に根ざす教育理念を包含したものであれ、その妥当性は、依然問われなければならない性質のものである。そういった性質のもの、すなわち個人の価値観、世界観、思想および倫理観のような、個人の内面に関わる事項を包含する教育目的を、法律で規定することには、問題がある、ということである。もっと強くいえば、それは、日本国憲法規定と両立しえない、ということである。

 その意味で、前述の意見すなわち「内面的規範に立ち入るのはよくない」の見解は、重要である。

 臨教審の委員の中で教基法の見直しを積極的に主張したのは有田一寿(九州工業学園理事長)と金杉秀信(同盟副会長)であった。
有田発言
「わたしは全面的改正とまではいいませんが、やはり宗教心の涵養だとか国を愛する心だとか、または伝統文化の尊重だとかは加えるべきだと思います」
金杉発言
「『人格の完成』とありますが、それは具体的にどんなことなのか。あいまいな点が目につきます。このようなことを克服するためには、やはり『教育基本法』を見直すべきだ、とわたしは考えています」

 さらに、金杉は、臨教審合宿審議において、一歩踏み込んで、教基法の成立過程を調査した結果から、
「親子・家族への情愛、弱者やお年寄りへの思いやりの心、歴史・伝統の尊重、独立自尊の精神といった人類普遍の道徳律を、あえて教育基本法に条文化しなかったのは、高橋文相答弁にもあるように、教育勅語はそのまま存続するとしたからである。……」
と述べている。つまり、その失われた部分(教育勅語)を、今こそ教基法において補うべきではないか、と主張しているだ。

 久保さんは続いて「審議経過の概要(その3)」を取り上げている。そこでは、教基法の教育目的に関して
「教育の目標 ― 教育基本法の精神が、今後の我が国の教育に生かされるよう、その正しい認識の確立に努める。それを基礎に、21世紀に向けての教育の具体的・実践的な目標と方法を明確なものとするよう努力すること」
が意図され、具体的な教育目標が提示されている。その教育目標を検討する前に、久保さんはそのよって立つ理論的根拠を分析している。それを読んでおこう。

 「概要(その3)」は、まず、教基法第一条の「人格の完成」について論じている。その教基法第一条に対する久保さんの基本的姿勢は次の通りである。

《人格とは、「道徳的行為の主体としての個人」(『広辞苑』)であり、そのような個人の道徳的発達を期することが、人格の完成に通ずるものとなる、と解したい。しかも、その徳性の内容 ― 社会生活を営むうえで、ひとりひとりが守るべき行為の内面的規準 ― は、市民社会の構成員、国民、親に委ねられるべきものである。》

 このような教基法第一条についての真っ当な見解に対して、臨教審という政権お気に入りの知識人組織は、その議論を見ると、全くの反知性主義者の集まりと言わざるを得ない。私はそういう人たちの知性の本質を虚偽意識(イデオロギー)と呼んでいる。その典型的な例が見られるだろう。久保さんの論評を読んでいこう。

 この「概要」においては、
「教育的努力の究極の目標としての『人格の完成』は、いわば理想的な人間の類型であり、それは個々の自然的人間をこえて普遍的、理想的、宗教的、超越的な究極の価値を永遠に求め続ける人間の営みの中にこそあるものである」
とのべている。これは、まさに人知を超えてすぐれた、尊崇すべき存在であり、宗教的信仰の対象でもある神を求めているのである。

 この「概要」において、多くを引用している田中耕太郎の『教育基本法の理論』には、「最も崇高な意味における完成された人格の像は神でなければならない」とのべている部分がある。臨教審も、立論の根拠を田中耕太郎の所説に依拠している。神の存在は、単一でなく、多くの神々が存在する。法によってあるいは、国家権力によって、特定の単一神を独占的に、そこに位置づければ、私にとっての神は他人にとっての悪魔であるかもしれない。したがってそこに神々の対立が引き起され、限りない抗争に発展しかねない。

 田中耕太郎自身、「国家が法律を以て間然するところのない教育の目的を明示することは不可能にちかい」さらに「如何に教育思想が混乱し不明確であるにしろ、道徳の徳目や教育の理念に関する綱領のごときものを公権的に決定公表することは、国家の任務の逸脱であり、パターナリズムかまたはファシズム的態度といわなければならない」とさえいっている。このように田中は、国家権力が教育目的や道徳の徳目の在り方に介入することを峻拒したのである。それにもかかわらず、教基法第一条を規定したことについては、「法が教育の目的やその方針に立ち入ったのは、過去において教育勅語が教育目的を宣明する法規範の性質を帯びていた結果として、それに代るべきものを制定し以て教育者の拠りどころを与える趣旨に出」たとのべ、法の介入を是認するとともに、歴史的事情を免責の根拠としていた。

 臨教審は、田中のこの重要な所説を意図的に無視して、道徳の具体的な徳目にまで介入するのに好都合な部分のみを引用し、立論の根拠にしているのは公正ではない。後述するように、臨教審は「教育の自由化」を当初教育改革の旗印としたが、その冒頭に教育目的、道徳教育の国家権力からの自由化を位置づけるべきであったが、現実は、まさに逆の方向に走ったのは、その自由化の内実が紛い物であったことの証左であった。

 「概要(3)」では、田中耕太郎自身が立法者意志とは異なることを断りながらのべている箇処を、あたかも立法者意志のごとく権威あるものとして引用している。それは、つぎの部分である。

「完成された人格の内容の中には、当然国家や民族の意義と価値の認識、国家の権威と秩序の尊重、民族とその文化に対する理解と愛、国民としての義務と責任の自覚、公共心の涵養等が含まれる。」

 これは、人格概念を不当に拡大し、とくに政権担当者の立場からの、倫理的・道徳的観念を超越した、国家主義イデオロギーの強要と受け取られかねない危険さえあるものである。臨教審は、このような観点にたって、「21世紀に向けての教育の目標」を設定している。目標は目的を具体化したものであり、「人格の完成」の目的を、さらに具体化したものとして、それは、徳目の設定にあたる。これこそ、国家権力がもっとも抑制しなければならないものの一つである。

 その目標は、
一、ひろい心とゆたかな創造力、
二、自主・自律の精神、
三、世界の中の日本人、
をかかげている。

 このうち、三の世界の中の日本人について見てみよう。その説明で、
「これからの日本人は、狭い自国の視野の中だけではなく、広い国際的、地球的、人類的視野の中で日本人としての自覚を形成するという基本に立つ必要がある」、
そして
「こうした目標を達成するために必要なことを例示すれば、美しい、正確な国語能力を身に付けさせること、世界から信頼される日本人にふさわしい礼節、礼儀作法をしっかりとしつけること、日本の豊かな歴史、伝統、文化を大切にし、国を愛する心を育くむこと、……初等中等教育における社会科の在り方を見直し、世界地理、日本地理、世界史、日本史の基礎、基本をしっかりと教えるようにすること……」
をのべている。世界の中の日本人の形成といってみても、ポイントは愛国心を喚起することに尽きるようである。しかも、そのために小・中・高校における社会科を解体し、地理・歴史を分離・独立させようと目論んでいるのである。徳目の細目を強要したり、そしてその目的のために、重要な教科目の再編を提示するにいたっては、寄って立つ自己の立場から逸脱するも甚だしいものがある。

 このような例は、
一、ひろい心と豊かな創造力、
についてもいえる。

「ひろい心を育くむ最初の揺りかごとしての家庭を大切にすること、とくに、幼児期から少年期において、子ども同士でのびのびと遊び、楽しみ、運動することを教えること……大人の側からの過保護、過干渉、過剰管理にならないよう厳しく自制し……」
とのべているのを見ると、私的領域である家庭の在り方まで、過干渉し過剰管理しようとしている。これこそ政府は、厳しく自制すべきであり、そのようなことが可能になる環境整備こそ、国家権力の役割であろう。

 こうして、臨教審は、教育基本法に対しては、その第一条の「人格の完成」概念を、国家主義の観点から不当に拡大解釈し、その目的達成のために、徳目に当たる三つの具体的目標を設定し、愛国心の涵養や家庭の在り方まで方向づけたのである。これは民主主義の政府が立ち入ることのできない領域であることを確認すべきである。

 金杉が教育勅語から引き出した具体的な道徳教育項目は、このように臨教審においてより詳細に議論されていた。そして、この臨教審で行われた議論が、現在のアベコベ政権の「道徳正式教科化」案の学習内容にしっかりと盛り込まれている。小学校1・2年では19項目、小学校3・4年は20項目、小学校5・6年と中学校で22項目の学習内容があり、これを検定教科書を用いて教育し、記述式で評価するという実にあきれるほかないトンデモ案である。この案を作った方々、自らを省みて忸怩たる思いはまったく起こらない鉄面皮、いや失礼、聖人なのだろうか。参考までにその学習内容案の画像を添付しておこう(東京新聞より転写)。

道徳教科化学習内容1 道徳教科化学習内容2
道徳教科化学習内容3
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