2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(48)

権力が教育を破壊する(31)

教育反動(23):中曾根臨教審(1)


 「権力が教育を破壊する」の聞き書きは1974年6月に行われている。従って、当然中曾根康弘による臨教審(臨時教育審議会)のことについては何もふれていない。ちなみに、中曾根が臨教審設置の方針を決めたのは1984年であり、羽仁さんが亡くなったのは1983年である。

 中曾根臨教審はそれまでの教育反動を集大成し、その後のさらなる国家主義教育の指針を提示した点で、今日の教育への絶対的な権力介入を推進した結節点であった。そこで、『・・・大予言』とは離れるが、最後に中曾根臨教審の学習をしておこうと思った。本題に入る前に一言触れておくと、中曾根は敗戦時は海軍主計中尉だったが、もともとは内務省の官吏であり、戦後また内務省官吏に復帰している。内務省官吏といえば、羽仁さんは内務省と文部省の間の次のような関係を指摘している。

 ぼくの『都市の論理』ができた時に、一高時代の同級生がお祝いをやってくれたんだね。そこへ佐藤得二君(管理人注:仏教学者)が来てね、彼は、戦後日本の教育の民主化の時に安倍能成に口説かれて、無理に文部省に入った男なんだ。そして彼は何とかして文部省の民主化を図ろうと努力したんだよ。その彼がその会に出て来て、ひと言「『都市の論理』に書いてあることは、本当だ。それは、私が文部省にいて実際に体験した。文部省は最悪の汚職の巣窟だ。それと闘って私は敗北した」というんだね。だいたい文部省というのは、もと内務省なんだよ。敗戦によって内務省は廃止されたが、その内務官僚はすべて文部省に入った。だから、今でも、文部省の幹部で実際に教育に一日でも関係した人は、一人もいない。

(以下は教科書Cを用いています。)

 さて、臨教審は「権力が教育を破壊する(21)」でふれたように、中曾根以前に鳩山内閣によって閣議決定(1956年1月27日に)されたものがある。このときの臨教審は審議未了で廃案になっている。この審議会は中教審(中央教育審議会)とどう違うのだろうか。

 中教審が文部大臣の諮問機関であるのに対して、臨教審は首相直属の教育諮問機関である。日本国憲法・教育基本法体制の下での教育行政は、政治的中立性が強く要請される領域である。従って、首相の意向が強く反映されるものとなる首相直属機関の設置はその妥当性が大きく問われなければならない。「戦後政治の総決算」の一環として「教育改革」を掲げ、その教育改革は、政府全体の取り組むべきものであって、もはや一文部省の省庁によってなしうる課題ではないと位置づけている中曾根臨教審については、ことさらそのことを強調しなければならない。

 教科書Cは、それを検証するために、「まず日本の現代史において、教育改革という名の下に、内閣総理大臣直属の教育会議がどのような役割を演じたのかを明らかにしておくことが必要である」と言い、その歴史をたどっている。

 以下のように、臨教審と同じ役割を演じた機関は過去に6回設置されている。
① 1917(大正6)年
   臨時教育会議
② 1921(大正10)年
   臨時教育行政調査会
③ 1924(大正13)年
   文政審議会
④ 1937(昭和12)年
   文教審議会
⑤ 1937(昭和12)年
   教育審議会
⑥1946(昭和21)年
   教育刷新委員会・教育刷新審議会

 ⑥と関連して一つ確認しておくと、1949年5月に吉田首相が「文教審議会」(翌年4月に文教懇話会と改称)を設けているが、首相直属の諮問機関としては⑥が設置されていたのであり、吉田の文教審議会はあくまで私設の諮問機関であった。
(詳しくは「権力が教育を破壊する(10)」をご覧下さい。)

 ①~⑤の大日本帝国時代の教育会議について、教科書Cは次のように解説している。

 戦前の教育に関する事項は、法律によらず勅令によって制定されていた。したがって教育勅令は、帝国議会においてではなく、枢密院において審議され、天皇の裁可によって発布された。そのために、重要な教育勅令案の基礎となる教育政策の形成は、これらの教育会議において、審議、作成されたのである。とくに前述の①とかの臨時教育会議は、その「官制」の公布に当たって、「上諭」(天皇の裁可を表示したもの)が付されたことによって、一段とその権威を高めたのである。

 ①の臨時教育会議は、寺内正毅内閣が、明治中期以来懸案になっていた学制改革問題の解決、いいかえれば、第一次大戦の経験に基づく、総力戦体制に即応する教育制度の再編成等の必要に迫られて設置されたものである。総裁以下38名の委員は、山県有朋系の官僚、軍閥の代表、枢密顧問官、三井、三菱財閥の代表、貴族院議員などが大半を占めていた。そして、会議の運営も山県系の委員によってリードされ、発言の内容および順序も、あらかじめ、彼らによってとりきめられていたほどである。したがって、この会議の速記録には、支配層の教育に対する強い危機意識がはっきりと示されていた。

 この危機意識の中で立案された教育改革の構図 ― 軍国主義教育、国家主義教育への方向づけ ― は、重大な影響力を行使し、結局、後になって無慈悲な国家権力によって、より激しい形で、それらは実現されていったと見ることができよう。

 ⑤の教育審議会は、中国に対する侵略戦争遂行に必要な教育制度の改革について審議するために、近衛文麿内閣によって設置されたものである。そこでの課題は、「国体の本義の徹底」(天皇制イデオロギーの教化)、「国民大衆の教育の拡充」「国民体位の向上」「科学及産業教育の振興」、そして「真の人物を育成し、創造的実践的性格を鍛錬する」ことなどであった。これらの課題を審議するために総裁以下67名の正委員が任命されたが、その官職等の構成は、臨時教育会議のそれと類似していた。

 そこでは、青年大衆を戦闘要員として訓練するために、青年学校就学の義務化、従来の小学校を改め、国民学校とし、義務教育年限を2年延長するという注目すべきことが計画された。しかし、国民学校は「皇国ノ道」と称する天皇への無定量の忠誠の徹底という、戦場に赴く兵士たるべき皇国民の錬成の施設と化したのである。

 こうして、⑤は①の総仕上げでもあった。これら二つの内閣総理大臣直属の教育会議の教育改革プランは、いずれも教育の政治・軍事への隷属徹底化を強行したものでしかなかった。

 これまで「権力が教育を破壊する」と題して、⑥による戦後教育の民主化、それを破壊し続けてきた教育反動について詳しく学習してきたのだった。⑥は①・⑤とは全く異なる性質の教育会議であることはすでに私たちの知るところであるが、教科書Cがそれを簡潔にまとめているのでそれを転載しておこう。

 これに対して、⑥の戦後の教育刷新委員会は、同じ内閣総理大臣直属の教育会議でも、前二者とはまったく異質のものであった。アメリカ軍の占領下という状況においてではあったが、従来の軍国主義的・超国家主義的な日本の教育制度を民主的に改革するための会議であった。

 特徴的なことは、委員長(安倍能成・南原繁)以下49名の委員会構成は、「教育のあらゆる分野における代表的な権威者を網羅し」、「全然官僚的要素を含んでいない点」であった。学者・教育家の自主性を最大限に尊重した会議であった。

 かてて加えて教刷委では、諮問に対する答申というものは一件もなく、すべて自主的な建議と声明書に終始したのである。もちろん、占領軍の指示と示唆があったことも事実である。しかし、それらの建議等は、教育理念、学校制度、教育行政、教育内容等の教育の全分野にわたり、民主主義的教育改革原則を提示し、そして、教育基本法の制定に結実していった。六三制学校制度も、教刷委の自主的な教育改革プランの反映であった。

 こういった戦後教育改革を、一層推進するのではなく、一歩一歩なしくずし的に後退させていったのは、相つぐ保守政党の内閣であった。教育委員会の公選制から任命制へ、文部省の権限強化、学習指導要領の大綱的基準から法的拘束化へ、教科書検定の検閲的性格へ、そして教育現場における管理強化など、すべてそうである。

 中曾根臨教審は、⑥とはまったく性質を異にし、戦前の教育会議に酷似したしろものである。次回から、その政策意図と審議の結果をみていこう。
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