2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(47)

権力が教育を破壊する(30)

教育反動(22)


勤評その後

 勤評の最大のねらいは組合の分断・弱体化にあった。その目的を補強する形で進められたのが「学校管理規則」である。これが制定されていく経緯も勤評の場合とそっくりである。(以下は教科書Aによる。)

 1956年6月2日に警官500人を動員して「地方教育行政法」案を強行採決したあと、間を置かず文部省は「公立小・中学校管理規則要項試案」を作成して各地方に提示する。それを受けて、同年9月はじめ、都道府県教育長協議会が文部省試案をより詳細にした協議会試案を作成する。各都道府県・市町村は、これら都道府県教育長協議会の定めるモデルを模倣して学校管理規則を作成していった。そのようにして制定された都道府県・市町村の学校管理規則の内容は、おおよそ次のようである。

(1)
 教師の教育課程編成に制限を加え、教育委員会に法的な最終責任を、校長に実際上の責任を与えた。
(2)
 教科書採択の実権を教育委員会が確保し、準教科書、学習帳・日記帳・練習帳などの補助教材について教育委員会の承認または教育委員会への届出制を明確にした。
(3)
 振替授業の承認・届出制を規定
(4)
 教師の校務分掌の性格をあきらかにし、校長が教師に命じうるものとした。
(5)
 職員会議は校長の諮問機関としての性格しかもたないことを強調した。

 このように、これまで教師・教師集団に事実上の責任があるとされ、またはそうあることが当然だとされたことがらについて、微に入り細にわたって規制がおよび、教師は教育活動を行なう主体者としての地位を法制面で掘り崩されていった。

 このような校長の職務権限の強化ととも、さらに1957年には「校長を助け、校務を整理する」ために教頭職を新設している。またさらに、校長・教頭の管理者意識を高め、教師集団からの離脱を促進すべく、1958年には校長に、1960年には教頭に管理職手当を支給することを決めている。さらにその後、1966年には校長・教頭の教職員組合への加入禁止を決めている。この校長・教頭の組合からの隔離は1965年6月14日に批准したILO第87号「結社の自由及び団結権保護条約」の対抗処置として改悪した国内法を根拠としている。何のための条約批准だったのか。ちなみに、「International Labour Organization」さんはこの条約の概要を次のようにまとめている。

 国際労働機関憲章がその前文において、結社の自由の原則の承認こそ労働条件を改善し、平和を確立する手段であると宣言し、フィラデルフィア宣言が、表現と結社の自由は不断の進歩のため不可欠であると述べていることを考慮して採択されたもの。

 1949年の団結権及び団体交渉権条約(第98号)とともに基本条約の1つ。

 条約で決められている主なことは次の通り。
 労働者及び使用者は、事前の許可を受けないで、自ら選択する団体を設立し、加入することができる。
 労使団体(連合体も含む)は、規約を作り、完全な自由のもとにその代表者を選び、管理・活動を決めることができる。
 行政機関はこれらの権利を制限したり、その合法的な行使を妨げたり、また、労使団体を解散したり、活動を停止させたりしない。
 労使団体は以上の権利を行使するに際してはその国の法律を尊重しなくてはならない。
 他方、その国の法律は、この条約に規定する保障を害するようなものであってはならない。

 このような管理職と一般教員の分断をしたうえ、さらに一般教員間の分断を計ろうとしたのが勤評による昇給という分断政策であった。

 以上に取り上げた事柄以外に、公選制教育委員会を任命制教委に強引に法改正をしたことから始まった教育の反動化政策は、さらに学習指導要領の法的拘束化、全国一斉学カテストの強行、教科書検定の検閲化と次々に打ち出されいった。このような教育政策の展開は、戦前以上の教育の中央集権化と教育に対する政治的介入を計ったものにほかならない。

 私は1962年に東京都立高校の教員になっているが、そのときから退職時まで、自民党・文部省の意図にもかかわらず、教職員の分断政策に関してはそれを無化して、少なくとも東京都では従来の職員会議を中心とした民主的な学校運営が続いている。また、勤評による昇級は全員に順番に割り当てていたし、勤評は移動の際の資料としても全く使われていなかったと思う。教科書Dは民主的学校運営を護った事例として大阪・高槻市の闘いを取り上げている。その部分を引用しておこう。

 大阪府の勤評攻撃は、57年の学校管理規則制定阻止闘争を前哨戦として、58年から本格化していく。

7月4日
 大教組が4日間の2・2・3・3休暇闘争に入る。
10月
 府教委が勤評試案を一方的に通告
10月29日
 大教組が府庁ピケを行う中、府教委が一分間で実施を決定
11月5日
 大教組が全日ストライキを決行、権力による強制捜査、事情聴取の攻撃

 その後、3月末まで攻防がつづき、30地教委のうち27の地教委で評定書提出を完全阻止していた。

4月20日
 高槻市教委が職務命令で校長を京都市内に呼びだし、評定書を強奪
4月21日
 高槻市教組が校長団交

 この交渉で、「今回とった行動に対する責任を反省し、校長会は改めて組合と話し合う。依って当分の間出校しない」との念書を取り、その後35日間にわたって全校長の登校を阻止することとなった。その間の校長不在中の学校運営について、闘争委員会が次の方針を下ろした。

 校長不在中の学校の運営は、分会責任者並びに教頭が合議の上、もっとも民主的な運営をなすこと、

 民主的・自主的な学校運営の基本方針を樹立すること(・・・・)、

 職員会議規則を定め、最高決議機関とすること

5月24日
 高槻市教組、校長合同による市教委交渉

 ここで「勤評の無効宣言をなし、府教委へ内容証明付きで送付する。勤評書は三者で管理する」ことが確認された。

 このような攻防の中でつくりあげられたものとして、たとえば「高槻市立第二中学校職員会議規則」は次のように規定されている。
「学校の運営に関しては民主的且つ自主的態度を堅持します」
「職員会議は最高の議決機関であります」
「職員会議は全教職員平等の立場で構成します」
「校長が職員会議で決定した事項と異なる運営並びに専決事項としてなした行為で疑義が生じた場合は職員会議の名のもとに抗議又は取消を要求することができる」

 このような闘いが大阪府下全域で行われたのであるが、府立高校では校長という校長が次々と病院に逃げ込み、その間、高槻市におけるような現場労働者による学校運営がなされ、教育労働者の職場支配権が打ち立てられていったという。職員会議の最高議決機関化やその後の主任制度の形骸化の取り組みは、すべて勤評闘争以来の職場支配権から生まれてきたのだ。

 以上みてきたように、勤評闘争は成績主義・能力主義という賃金体系改悪攻撃を阻止してきた下地となった歴史的な闘いであった。 つまり、勤務評定の賃金への反映を阻止した勤評闘争が官公労全体についての防波堤の役割を果たしてきたのだった。その後、71年の中教審答申において五段階賃金体系が打ち出され、人材確保法、教頭法制化、主任制などの団結破壊のための「職務職階給」攻撃が繰り出されてきていたが、2000年頃までは基本的な年功賃金が堅持されていた。

 教科書Dは勤評闘争後のことを「新たな人事考課制度の導入によって、ようやく東京から部分的な賃金格差攻撃が始まったという段階だ」と締めくくっている。教科書Dが出版されたのは2004年であるが、教科書Dの指摘は、もちろん、石原慎太郎の教育破壊攻撃のことを指している。

 私がこのブログを始めた動機は、2003年の日の丸・君が代を強制するいわゆる10・23通達への怒りであった。石原が行ってきた「教育の不当支配」のための悪行を列挙すると、
校長権限の肥大化と職員会議の形骸化
副校長・主幹という中間管理職の強化と教員分断
人事考課・強制異動という足枷首枷
などが挙げられる。この中の人事考課制度こそが形骸化した勤評に代わって打ち出された施策である。

(石原の教育破壊については「石原の都立学校支配の実態」などを初め時にふれて書いてきたので繰り返さない。)

(人事考課制度については「「教職員評価(育成)制度の現状と課題」」さんが詳しく論じているので紹介しておきます。)
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