2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(43)

権力が教育を破壊する(26)

教育反動(18)


(年の瀬に臨んで少しは身辺整理をしようと思い立ちましたが、結局たいしたことができませんでしたのに、時間は容赦なく過ぎ、ついつい更新がおろそかになりました。気を取り直して再開します。)

 これまでにも何回か引用したように『大予言』には時折矢崎さんのコメントが挿入されている。次の文章もその一つである。

 教育問題について話す羽仁五郎は、熱心であるばかりか、心底から怒りに燃えている。 次の時代を作るのは、とりもなおさず現代に生きる若い人達だ。彼等がまともな教育を受けられない現実を、教育問題に首を突っ込めば突っ込むほど、いやというほど知らされることになる。未来をつくる人間が、それこそ安易で、権力側の思惑だけを押しつけられることこそ、たしかに犯罪そのものではあるまいか。

 全く同感である。「権力側の思惑だけを押しつ」けるために教科書検定が強化され続けられてきたが、それと双璧をなすあくどい「犯罪そのもの」といえる制度が教員に対する「勤務評定」(以下「勤評」と略記)である。今回からこれを取り上げる。

 戦後教育史で初めて勤評が登場するのは1956年である。

1956年

11月1日
 愛媛県教育委員会、勤務評定(勤評)による教職員の昇給昇格の実施を決定。11月18日小中高等学校校長集会、勤務評定拒否を決議。

 愛媛県は大きな赤字を出して、1956年5月、地方財政再建法の適用県となった。県は財政再建のための施策の一つとして教職員の定期昇給の抑制を打ち出した。その実行にかこつけて勤評を持ちだしたのだった。しかし,それは表面的な理由であって,勤評の最大のねらいは組合の分断・弱体化にあった。「地方教育行政法」による任命制教育委員会が発足したのが10月1日であり、任命制教育委員会による悪行の嚆矢と言ってよいだろう。

1956年

3月30日
 愛媛県教育委員会、勤評による人事を発令し、450名の教員の昇給停止。4月3日34名の校長を処分。

 愛媛の勤評問題は,やがて全国的な問題となっていく。文部省・教育委員会と日教組との間の激しい抗争となり,文部省は,教育長協議会と全国校長会を開催し,学校管理の強化,教職員組合の厳正な処分を呼びかけ,教員の政治的中立,道徳教育の強化を求めた。

 これに対し,日教組は,「非常事態宣言」で,勤評を教員の自主性を奪い,組合活動を封じようとするものととらえ,ストライキを組むなどして激しい反対闘争を展開した。学者・文化人のあっせんなどもあったが,勤評はしだいに各都道府県で実施されるようになり,教育委員会や校長の学校管理権が強まり,教員の自由な教育活動は大きく制限されることになった。(以上、教科書Bによる。)

 もちろん、勤評は愛媛県が思いついたことではない。その淵源は「地方教育行政法」の成立と時を同じくして自民党が具体的に策定していた教育に対する国家の統制と日教組対策の方策にある。その中で「文部省の措置すべき事項」として、次のような方策を打ち出している。(以下は教科書Cによる。)

一、
 日教組の性格を明確に認識して、これに対し、交渉的態度で臨まない。
二、
 新教育委員会法に規定された文部省の指導性を高める。
三、
 都道府県教育長をよく握って各種の措置を通じて服務の厳正をはかり、状況によって文部大臣は教育長の進退について事実上の措置をとる。
四、
 文部省地方課を強化拡充し、教育委員会を握るとともに、教組運動を主管する機構を整備する。
五、
 視学官制度を拡充し、その態勢を整えて視学官の査察、復命を厳正にする。
六、
 教育研修会などの教育集会を文部省主催ないし、教育委員会との共催で活発に行う。

 また、「教育委員会の措置すべき事項」として、
「学校管理規則を速かにかつ的確に制定し学校管理を厳正にする。教職員の服務監督の強化をはかり勤務評定を励行する。校長・教頭の管理的立場を明確にし、その給与体系その他必要な措置を講ずる。職員団体の専従職員も必要最少限度にとどめ、いわゆるヤミ専従をなくする」
等、詳細にその方策を樹立した。これは、視学官制度を除いては、いずれも寸分違わず文部省によって、爾後実施されていったものである。

 さて、愛媛県における勤評問題の顛末を詳しく見ておこう。愛媛県教育委員会が出した勤評の要項内容は次の通りである。

『教員一人ひとりについて、
①勤勉さ ②積極性 ③責任感 ④速度 ⑤確実性 ⑥注意力 ⑦理解力 ⑧知識と技術 ⑨規律 ⑩協調性 ⑤整理整頓
の11項目についてABCDEの五段階評価を行い、さらに全項目を総合評価して甲乙丙丁戊の等級に分ける。』

 何ともばかばかしい評価項目ではある。自民党のお眼鏡にかなう鋳型に教師をはめ込もうと躍起となっている。自民党文教族・文部省官僚とその支配下の役人・御用学者の人間観の浅薄さのほどがよく表れている。

 以下、教科書Cからそのまま引用する。

 これに対して、県教組は世論の支持を得て、座りこみ戦術やハンストを織りまぜ、撤回交渉を執拗に繰り返した。この強い反対のため県教委も10月30日、徹夜交渉の席上
① 4、6、7月の昇給は従前通り実施する
② 勤務評定は今後の研究課題とする
という教組の要求を容れた。

 しかし翌11月1日、県教委は県自民党首脳の圧力に屈し再び一転して「勤評実施」を決めてしまった。

 県教組は、これに対して「もはや県教委を信頼することはできない」との闘争宣言を発表した。校長もほとんど組合に加入していたため、校長会も組合に同調していた。11月18日には松山市の校長集会に、県下小・中・高校の740名の校長のうち700名を超える校長が参集した。集会では「私ども県下800の校長は差別待遇を前提とする勤務評定については公正な世論と、教育の混乱と職場の民主的な秩序を破壊するものであることを確認し、 校長集会の総意をもって勤務評定成績評定は到底これを行ないえないことを宣言する」とともに、断固として「書かない」ことを表明した。しかし、県側は地方議員やPTA幹部を通じて、組合脱退と評定書提出を校長に対して各個撃破をはかったのである。

 そうした中で、12月に入ると松山市内のいわば中心校の校長たちがまずおとされた。市内の校長20名が組合脱退を表明し、勤評書を提出したことは、県下の校長に大きな影響を与えずにはおかなかった。年内には周桑郡34名の校長を除く県下の全校長が教委の業務命令に従って勤評を提出した。周桑郡の34名の校長は450名の組合員と団結して最後まで提出を拒んだが、翌年の4月3日遂に提出に追いこまれた。周桑地区では県の指示する評定とは別に全員「優良」の評定を提出した。しかし、県はこれでは評定ではないと断定し、校長34人全員を4ヶ月1割の減給処分に付し、組合員450人に対して昇給ストップの処分を断行した。

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