2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(42)

権力が教育を破壊する(25)

教育反動(17)


 今年10月に発刊された内田樹著『街場の戦争論』について、内田さんは週刊プレイボーイからインタビューを受けた。その記事が内田さんのブログに全文掲載されている(「週刊プレイボーイインタビュー記事」)。 この記事は全文読むに値すると思った。この中に前回紹介した保阪正康さんの談話と同じスタンスで、歴史修偽主義のような破廉恥な言論がまかり通るようになってしまった淵源をさらに簡潔に分かり易く論じている部分があったので、それを転載させていただこう(太字がインタビュアーの質問)。

――世代的な責務とは?

内田
 父親たちの世代、「戦中派」には「戦争経験について語らない」という一種「暗黙の了解」のようなものがあったように思います。戦地で実際に行なわれたことや見たことについては子どもたちには語らない。もとは「善意」から出たことだと思います。「戦争がどれほど醜悪で過酷なものか、自分たちがどれほど残酷で非情だったか、そういうことは子供たちには伝えまい。無言で墓場まで持って行こう。子供たちは無垢な戦後民主主義の申し子として未来の日本を担って欲しい」そういう思いだったのではないかと思います。だから「黙して語らず」を貫いたのだと思います。

 しかし、そのせいで「戦争の記憶」は次世代に語り継がず、僕たち世代は戦争を「済んだこと、早く忘れるべきこと」として、戦争について深く踏み込んで総括する機会を逸してしまった。そのことの負の側面が、現代日本の足腰を致命的に劣化させている、そう感じます。

 なぜ「戦中派」は戦争を語らなかったのか? あるいは語れなかったのか? そしてそれが戦後70年にどんな影響を与えたのか?世の中から「戦中派」がどんどんといなくなっている今、少なくとも「沈黙を貫いた父親世代」の屈託した表情だけは記憶している僕たちの世代が証人として、その〝沈黙の意味〟を再構成しなければならない、そう思ったのです。

――「戦争」が語り継がれなかったことによる歴史の断絶によって表面化した「負の側面」とは、具体的にどういうことですか?

内田
 最も顕著なのは「歴史修正主義」の登場でしょう。これは日本に限らず、ドイツやフランスでも同じなのですが、戦争経験者世代が社会の第一線から退場しはじめると、どこでも「歴史修正主義者」が現れます。

 彼らは歴史の「生き証人」がいなくなった頃を見計らって登場します。「戦中派の沈黙」ゆえに戦争の記憶が伝えられなかった戦後日本では、とりわけ歴史修正主義は暴威をふるいました。現場を見た生身の人間がいなくなった頃になって、断片的な文書だけに基づいて、戦争について言いたい放題の「事実」を語り出した。

 従軍慰安婦の問題にしても、実際に戦地で慰安所に通っていた兵隊たちが生きていた間は「強制性はなかった」「軍は関与していない」などということをうるさく言い立てる人間はいなかった。慰安婦がどういう制度であるかを誰でも知っていたからです。証人たちがいなくなった頃になってはじめて「慰安婦問題は捏造だ」と言い出した。ヨーロッパにも「極右」の政治家はいますけれど、安倍晋三のような極右が総理大臣になれたのは世界で日本だけでしょう。

 さて、そのアベコベ政権の教育破壊政策を俯瞰して、教科書問題を終わることにしよう。

<その手法>
 首相主宰の教育再生実行会議で基本方針を決める。それを文部科学省に指示し、新たな政策を次々と実行に移す。これまでに打ち出された政策は次のようである。

<1> 教育委員会制度の改悪
 6月に自治体の首長の権限を強化する改正地方教育行政法が成立している。教育委員長と教育長は新ポスト「教育長」に統合され、首長と教委が協議する「総合教育会議」が新設される。

<2> 「学校教育法及び国立大学法人法」の改悪
 6月に成立している。学長の権限を強化し、大学の自治を否定する改悪である。

<3> 教科書国定化への一層の関与
 1月に「教科書検定の改善について」を告示。その中の「教科用図書検定基準の改正」では次のように述べている。
「検定基準のうち、社会科(地図を除く)固有の条件(高等学校の検定基準にあっては地理歴史科(地図を除く)及び公民科)について以下を改正。
 ①
  未確定な時事的事象について記述する
 場合に、特定の事柄を強調し過ぎていた
 りするところはないことを明確化する。
 ②
  近現代の歴史的事象のうち、通説的な見
 解がない数字などの事項について記述する
 場合には、通説的な見解がないことが明示
 され
、児童生徒が誤解しないよう
 にすることを定める。
 ③
  閣議決定その他の方 法により示された
 政府の統一的な見解や最高裁判所の判例
 がある場合には、それらに基づいた記述
 がされていること
を定める。

<4> 「道徳」を教科化する企み
 これについては、サイト「週間金曜日ニュース」に投稿された俵義文さんの記事『「道徳の教科化」答申で文科省は2018年度実施を表明――考え方や行動まで評価対象に』がその答申の内容を簡潔にまとめ、適切な批判をしているので、それを転載させて頂く。

 そもそも「道徳の教科化」は第一次安倍政権の「教育再生」政策の「目玉」の一つだった。これが政治課題として急浮上したのは、11年、滋賀県大津市の中学生が自殺した事件である。13年1月24日に設置された首相直属の「教育再生実行会議」は、同年2月に「いじめ問題等への対応について(第一次提言)」を出し、いじめをなくすために道徳の教科化が必要だと主張した。それを受けて下村博文文科相は、同年3月に「道徳教育の充実に関する懇談会」を設置。その後、異例の早さで手続きが進められた。中教審の道徳教育専門部会が今年9月19日にまとめた案を、中教審は同月末の総会で大筋了承し、10月の総会で一部修正して答申を出している。

 「答申」は、「道徳教育の使命」は「人格の基盤」となる「道徳性」を育てることにあり、道徳教育は「教育の中核をなすべきもの」としている。これにもとづいて、
(1)
 道徳を「特別な教科 道徳」(仮称)として正規の教科に格上げして道徳教育を義務化する、
(2)
 「特別な教科 道徳」を「要」として学校の教育活動全体を通じて道徳教育をより確実に展開するよう教育課程を「改善」する、
(3)
 国が検定基準を定める検定教科書を導入する、
(4)
 数値での評価はしないが、子どもの「作文やノート、質問紙、発言や行動の観察」などをもとに評価を行ない「道徳教育の成果として行動面に表れたものを評価する」、
(5)
 授業は原則学級担任が担当する、
(6)
 授業時数は当面週1コマ(年間35時間)、
(7)
 道徳教育推進リーダー教師を地域に設置する、
(8)
 家庭や地域と連携して行なう
――などとした。さらに、現在、道徳の時間がない幼稚園や高等学校、特別支援学校でも道徳教育を「充実」することも提言している。

紙幅がないので「答申」の問題点として、次の二点を指摘したい。

 第一次安倍政権の時、「道徳の教科化」を諮問された中教審は道徳の教科化は「実現困難」としたが、その主要な理由の一つが評価の問題だった。正規の教科にすれば当然「評価」が必要になるが、道徳を5段階などの数値で評価するのはなじまない、ということだった。そこで、今回の「答申」は、数値による評価はしないとした。

 だが一方で、子どもの考え方から行動まで、全面的に評価の対象としている。これは、ある意味では数値による評価以上に重大な問題を孕む。子どもは考え方や意見、行動など全人格を評価されるので、「良い評価」を得るために、発言・行動したりするようになる。評価される子どもも評価する教員も、大変な負担を強いられることになる。子どもの心と身体は深刻な分裂に追い込まれ、今よりストレスをためこむ。そのストレスが「いじめ」など「問題行動」をいっそう増加させるのではないかと危惧されるのだ。前提として国連「子どもの権利条約」違反でもある。

 道徳の検定教科書の発行も重大である。国家が定めた特定の徳目(価値)を検定基準として教科書を作成し、それだけが唯一正しい「日本人の道徳」だとして「愛国心」をはじめとした特定の価値観を教え込むことになる。これは、憲法が定める「思想・良心の自由」を踏みにじり、国家が定める「愛国心」「公共の精神」などの徳目(価値観)を子どもたちに押しつけるものである。

 安倍「教育再生」政策の真の狙いは、グローバル企業のための「人材」と「戦争する国」の「人材」(兵士およびそれを支える国民)をつくることにある。そのために道徳を正規の教科に“昇格”させ、全教科の上におき、「愛国心」などを植えつける“教育”の強化を図っているのであろう。本件についての資料は、URL「俵のホームページ」 でも報じている。
(俵義文・子どもと教科書全国ネット21事務局長、10月31日号)

 <1><2><3>については、8月4日に東京歴史科学研究会が「安倍政権による一連の教育制度の改悪に反対する声明」を出している。その中から<3>についての批判を転載しておこう。

①については、
 第一に「通説的な見解」とは何かという論点は、学界における議論に委ねられるべきことである。「通説的な見解」の有無を国家が権力的に決定することは問題である。第二に、戦争や植民地支配に関して、学問的には成り立たない説をとりあげることで、「通説的な見解がない」という結論を導きだし、戦争責任・植民地支配責任を曖昧にすることが意図されている。

②は、
 政府見解や最高裁判例が正当な説であるとして記述することを、検定合格の要件としたものである。たとえば、現行憲法において集団的自衛権の行使は認められるとの政府見解が、正しい憲法解釈であると位置づけて記述しなければ、検定不合格になるといった問題が生じることが憂慮される。教科書の事実上の「国定化」につながる危険性をはらんでいる。

 次いで、文部科学省は、2014年4月に教科書検定審査要項を改悪した。同要項には、「教科書としての基本的な構成に重大な欠陥が見られる場合等に検定不合格と判定する方法について、教育基本法に示す教育の目標並びに学校教育法及び学習指導要領に示す目標等に照らして判断する旨を明確化する」との文言が追加された。現行の教育基本法には「我が国と郷土を愛する」態度を養うとの目標が掲げられている。国家が定める思想と教科書が合致するかどうかを、審査基準とすることは、重大な問題である。

 そもそも教科書検定制度自体が、国家による教育に対する不当な介入であり、違憲であると考えられる。今回の教科書検定関連の規定の改悪は、こうした検定制度の問題性をいっそう増幅するものである。

 なお最後に、この教科書検定の改悪については、俵さんが事務局長を務めている「子どもと教科書全国ネット21」も声明を出している。この声明では、これまでの教科書検定改悪の歴史や、実際に使われている教科書の記述を具体的に指摘したり、かなり詳しく論じているので紹介しておこう。
 サイト「子どもと教科書全国ネット21」の「トップページ」の左側の項目から
「【声明】近隣諸国条項を骨抜き・無効化し、政府による教科書統制を極限まで強める文部科学省の検定基準改悪案に反対する」
をクリックすると読むことが出来ます。
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