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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(38)

権力が教育を破壊する(21)

教育反動(13)


1956年

1月16日
 自民党文教制度調査特別委員会、教育委員会制度改正要綱を発表。

委員の公選廃止、教員任命権を県教育委員会に移す、ことなどを内容としている。

1月27日
 臨時教育制度審議会設置法案(臨教審法案)を閣議決定。

 教育基本法改正を含め、教育制度全般にわたる改革のため、内閣直属の審議会を設置するための法案(後に詳しく取り上げる)。

3月6日
 教育委員会制度改正要綱を閣議決定。

3月8日
 「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」案(地教行法)として国会に上程。

 この法案は、公選制教育委員会を廃止し、教育行政の中央集権化と官僚統制を企図したものである。「任命制教委法案」とも呼ばれることもあるが、教育委員会法の改悪にとどまるものではない。この法案の主要な内容は次のようである(教科書Aによる)。


 教育委員は公選を廃止し、首長による任命とする、

 教育長の上部機関による承認制(都道府県は文部大臣、市町村は都道府県教委による)、

 文部大臣、都道府県教委の措置要求権の明定、

 指導主事に事実上の命令監督権を付与、

 教科書以外の教材の届出、承認制、

 予算および条例の原案送付権の廃止、

 勤務評定、学校管理規則の作成、実施、

 「県費負担教職員」の任免権を都道府県教委に移行する、
など・・・。

 これは、戦後新たに発足した教育行政機構の根本的な変更を意味するものであった。このことは、なによりも、教育委員会法第一条が掲げていた根本理念、すなわち、
「この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政令行うために教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする」
という文言が全文削除されていた
ことに示されていた。

 戦後教育行政民主化の三原則とされた「民衆による教育統制」、「教育の地方分権化」および「地方の自主性の確保」を否定しようとする意図のあったことは一目瞭然であった。公選制を廃止せんとすることは、教育にたいする国民の民主的統制を養い育てようとする広義の政治教育的機能を停止することを意味していた。

3月12日
 「教科書法」案を国会に提出。  (後に詳しくは取り上げる。)

 上の三法案は、教育の理念・制度・内容の全般にわたって民主主義的諸原則を根本から否定するものとして相互に連関をなしていたことから、「教育三法案」と呼ばれた。このような三法案が矢継ぎ早に提出された経緯は次のようである。

 1955年11月15日保守合同で自由民主党が結成され、11月22日第三次鳩山内閣(~1956年12月23日)が発足した。二大政党(自民党・社会党)の成立により、二大政党間の教育政策の対立軸がいよいよ鮮明と成る。上の年表に見るように、1956年は教育の反動政策が一気に噴出した。

 文相・清瀬一郎は就任直後の記者会見では教育については一言も所信を語ることなく次のように述べている。

「文部大臣もいわば党の小使いで党の政策を忠実に実行するばかりだ」
「中教審の答申は貴重な参考にはするが、最終的には党議や内閣の方針をきめるうえに役立てるということになる」
と"党議優先"の名で教育を自由民主党の政策に従属させる意思を公言した。この発言について、教科書Aは次のように分析している。

 問題は清瀬文相が"党議優先"を唱えたことにあるのではなく、かれを代弁者とする自由民主党自体の教育政策がいかなる内容のものであったかにあるが、これはただちにあきらかになった。

 清瀬は、翌56年3月の国会答弁で、
「今こそ占領教育刷新のときである」、
「教育基本法の改正は必要だ」
とのべ、歴代文相が口に出せなかった教育基本法の再検討を平然と主張した。

 こうした支配階級の意図は一連の法案となって第二四国会(55年12月20日開会)に逐次上程された。

3月19日
 矢内原忠雄東京大学長など10大学長が「文教政策の傾向に関する声明」(10大学長声明)を発表。3月23日に関西13大学長たちが声明を支持。

5月18日
 「新教育委員会法」(地教行法)反対中央国民大会を開催。

6月2日
 参議院、警官500人を動員して「地方教育行政法」案を強行採決。

6月30日
 「地方教育行政法」を公布。

10月1日
 「地方教育行政法」による任命制教育委員会が発足

10月10日
 文部省、教科書調査官制度(定員40人)を創設。

 鳩山内閣は警官まで動員して地教行法の成立を優先した。その混乱の中、教科書法案は審議未了で廃案、また臨教審法案も、衆議院で可決(3月13日)されていたが、やはり審議未了で廃案となった。しかし、廃案となったこの二法案は以後の自民党の文教政策の内容や手法に引き継がれ、今日まで生きている。そこでこの二法案の内容を見ておくことにする(教科書Aを用います)。

臨教審法案
 この法案は、
内閣に、臨時教育制度審議会を置き(1条)、
「内閣の諮問に応じ、教育に関する現行制度に検討を加え、教育制度及びこれに関連する制度に関する緊急な重要政策を総合的に調査審議する」(2条)、
審議会は内閣の任命による国会議員10名、学識経験者30名で構成され(3条)、
他に総理大臣が任命する専門委員(学識経験者)および幹事(関係各行政機関職員)をおく(5・6条)、
など全10条および附則からなる2年間有効の時限立法であった。

 政府は国会答弁で臨教審諮問事項として、
①教育基本法の改正、
②道徳の基準の検討、
③教育制度の再検討、
④教育にたいする国の責任と監督の検討
の四点をあげ、中教審の存在を無視し、自民党の意図にそった教育制度の全面改革案を答申させるねらいであることをあきらかにした。

 文部事務当局は、国会審議と並行して臨教審にたいするつぎのような具体的諮問事項案を決定していたが、これらはその後の政策動向の基調を示すものとして重要であった。

1 教育にたいする国の責任と監督について

 ①初等中等教育関係(初中等教育の内容および教職員の人事取扱いについて)、
 ②大学関係(国公立大学の管理者〔学長、評議会、教授会〕と文部大臣〔公立にあっては設置者も含む〕との権限関係について、
 ③私学関係(私学の管理運営にたいする国の権限と責任について)、

2 教育行政組織について

3 国家的社会的要請に応ずる教育計画と学校制度の関係

 ①職業教育関係、
 ②私学関係、
 ③技能者養成関係。

4 教育財政について

(ちなみに、1984年に中曽根首相が内閣直属の審議会として臨教審を設置している(1987年に解散)。

教科書法案
 この法案にいたる経緯は次のようである。

 検定制度の部分的法改悪は、すでに「学校教育法等の一部を改する法律」(53年8月5日公布)がある。この改悪による「検定権を文部大臣のみに制限する措置」や「産業教育振興法にもとづく高等学校の特殊な産業教育教科書を文部省で刊行する措置」などにより徐々に進められてきた。そして、政府・与党は一方で「うれうべき教科書の問題」などの大宣伝による世論操作を行ないながら、他方で、根本的な制度改正をねらう法案作成の作業を秘密裡に進めていた。

 1955年10月3日、松村謙三文相は中教審に「教科書制度の改善方策について」諮問した。これにたいし中教審は、12月5日「教科書制度の改善に関する答申」を行なった。要旨はつぎのとおりであった。

〈検定について〉


 現行の教科用図書検定審議会を拡充強化する。

 常勤専任調査官を相当数置く。

 検定基準を整備する。

 検定合格本に一定の有効期間を定める。

〈採択について〉


 郡市単位など一定の地域においてできるだけ少ない種類の教科書を使用する。

採択は教育委員会が行なう。

〈発行・供給について〉


 発行者に欠格条件を設け、登録制度にする。

 同一種目の教科書の種類の改訂は抑制する。

〈その他〉


 教師用指導書についてその内容に教育上不適当な箇所があるときは訂正できるようにする。

 夏休み帳・副読本などの使用については届出制にする。

 1956年3月13日に国会に上程された教科書法案は上の答申に基づいて作られた。しかし、前記答申にくらべ、いっそう国家統制を強化する諸条項が加えられていたという。教科書Aは次のように解説している。
たとえば、
「申請見本本に、誤記・誤植又は誤った事実の記載が多いこと、その他検定の基準に著しく違反すること」が書いてあると文部大臣が判断した場合、教科書検定審議会に諮問して「検定を行わないこととすることができる」(第7条)、
 合格本のなかに「客観的事情の変更に伴い明白に誤りとなった事実の記載があったとき、文部大臣は修正させる」(第12条)。
「必要があると認めるときは……」事業場の立入検査を行なうことができる(第36条)。
 命令を守らない場合「登録を取り消し・・・・・・教科書の全部若しくは一部を教科書広報に登載しない(発行の間接禁止)」(37条)、
などである。また法案には、検定手数料(6条)、検定手続き(13条)、教科書検定審議会の組織・運営(17・18条)、選定協議会の内容(29条)、発行審議会の内容(53条)など15条にわたる政令委任事項、加えて12条にのぼる省令委任事項があり、法案の"効力"はこれらの行政措置にその多くがまかされていたことは重要であった。

 当時、教科書検定にかんする関係法は、「教科書発行に関する臨時措置法」のみであり、検定の実際については大部分が省令等により文部省の掌中にあって、不明朗な運用がなされていたため、その民主的改革の要求は強く、日教組から「教科書採択基準」(55年6月16日)、日本教育学会「教科書制度要項」(55年10月10日)が発表され、政府案と並んで社会党「教科書法案」が提出されていた。文部省はこうした法律上の不備を逆手にとり
「省令にゆだねられていた事項を正式に法律にするのだから、実に民主的だ」(安達健二教科書課長)
と強弁した。しかし、さきに見たようにこの法案が教科書の国定化への布石として出されていたことは明白であったため、「任命制教委法案」とならび激しい反対運動が展開され、6月3日、審議未了で廃案になった。

(この項、次回に続く。)
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