2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(30)

権力が教育を破壊する(13)

教育反動(5)


7月21日
破壊活動防止法公布。

7月22日
 関西経営者協議会、騒乱学生は就職を保証せずと声明。

8月4日
 文部省、「教育の問題としての学生運動」を発表。

 以来、学生への締め付けが強化されていく。9月3日には、文部省が全国国立大学学生部長会議を初めて開催して、「学生の政治活動、学内規律の維持等」について討議している。これに対して、全学連は同会議の公開を要求した。

8月8日
「義務教育費国家負担法」公布。

 現行の教職員給与の半額と教材費の一部を国庫負担とすることを定めた。

 これは教育費確保を名目とした財政面からの教育行政の集権化をねらったものであった。その意図はわずか半年後に明確な形をとってあらわれた。

 1953年1月13日に政府は「義務教育費の全額国庫負担方針」を決定する。全国知事会、日教組など、中央集権化をもたらすとして反対したが、政府は2月19日に「義務教育学校職員法案」を国会に提出した。この法律案要綱は
(目的)
 義務教育について、国の責任を明確にし、教育の機会均等とその水準の維持向上を図る。
(義務教育諸学校職員の身分)
 義務教育諸学校の教職員身分は、国家公務員とし、文部大臣が任命すること……」
とうたっていた。これは「国の責任」の名で教育の国家統制をねらった「国家教育権論」の戦後におけるはしりとなったものであった。 しかし、この法案は"バカヤロー解散"と呼ばれている衆議院の解散(3月14日)で廃案となった。

8月12日
 天野貞祐文相の辞任に伴い、岡野清豪が文部大臣に就任。

 天野が執心した「愛国心」を主眼とする道徳教育強化政策を、当然岡野も引き継いでいる。8月16日の記者会見で「修身科の復活」「日教組の政治活動の禁止」を打ち出している。そして、さっそく岡野は教育課程審議会のメンバーを一新したうえで12月19日、教育課程審議会に「社会科の改善、特に道徳教育、地理,歴史について」を諮問している。その諮問のねらいは、「万国に冠たる歴史、美しい国土などの地理」(吉田茂首相)、および道徳教育の強化によって、「再軍備の基礎を固める」ための「愛国心」を養うことにあった。

 この諮問に対する答申は53年8月7日に提出された。答申は、ふたたび岡野の意図に反したものとなっている。社会科の「基本的ねらいは正しい」し、道徳教育は従来通り「実際的な生活指導に重点がおかれるべき」だとして、「道徳」を特設することに反対している。その背景には、戦後民主教育の象徴的存在でもある社会科の理念が、再軍備を進める吉田内閣の下で歪められ解体されるのではないかという危機意識から民間の教育研究団体の有志多数によって結成された「社会科問題協議会」(会長海後宗臣東大教授)の6次に及ぶ批判声明など,社会科の「改悪」に対する一般世論の強い批判と反対があったのである。(以上、教科書Bによる)

 「教育反動(3)」で取り上げたように、1951年11月16日に設置された吉田首相の私的諮問機関「政令改正諮問委員会」が出した「教育制度の改革に関する答申」こそ、戦後教育の民主化改革を空洞化していく端緒となったものであった。さらに、1953年10月にアメリカでおこなわれた池田・ロバートソン会談では,戦後日本における平和教育の問題が取り上げられ,「日本政府の第一の責任は,教育及び広報によって,日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することにある」とされていた。

 以来、自民党の教育政策はもたもたしながらも連綿とこの軌道の上を突き進んできた。そして今、衆参両院を制したアベコベ政権が自民党念願の「修身科」復活ののろしを上げるに至った。東京新聞(22日朝刊)は一面トップで、
『21日に中央教育審議会が「現在は教科外活動の小中学校の道徳を、検定教科書を用い学習評価を行う正式な教科とすること」を決め、下村博文文部科学相に答申した。』
ことを報じている(詳しくは「価値観国が強要も 道徳教科化を答申 中教審」をご覧下さい)。

 前回、発足時の中教審について
「中教審は発足以来、日本資本主義の維持・強化のための教育「改革」(という名の改悪)答申をだし続けていく。」
と書いたが、現在の委員名簿を見ると、その構成は発足時と変わらない。財界役員・御用組合の役員・御用学者のオンパレード。そしてなんと櫻井よしこがメンバーになっている。

 年表に戻ろう。

10月5日
 第3回教育委員選挙を実施。

 教育委員の任期は4年である。この時の委員の任期が切れる1956年に教育委員会は公選制から任命制に改悪されている。後ほど詳しく取り上げよう。

10月16日
 日経連教育部会、「新教育制度の再検討に関する要望」を発表。

 これ以後資本家階級は、1969年までの7年間に実に18件の要望・意見・見解・提案などを提出している。教科書Aはそれらを列挙して、その意図を次のように分析している。

 これらに共通するものは、「政令改正諮問委員会」の答申とも関連して、戦後教育改革の基本構図にたいする批判とその部分的あるいは抜本的な改革の主張である。

 それは、すなわち、憲法で定められた国民の教育権、教育基本法、学校教育法等で規定された平和的・民主的教育、学問の自由と教育の自主性、教育の機会均等、教育行政の教育介入限界などにたいする実質上、ときには形式上の否定を意味している。

 では何故に独占資本という富の占有者にとって、戦後教育改革は障害物となったのであろうか。資本主義のもとにあって、支配階級としての資本家階級は、その政治的経済的諸課題に対応して、その発達する資本主義企業のための労働力を養成し確保すること、「産業の高度化」(資本の有機的構成の高度化)にともない、いっそう相対的剰余価値生産の道具として教育をとらえ、かれらに必要な科学技術者・管理者を育成確保することをその教育課題とする。

 また、かれらの支配の維持と対外進出のための軍事力育成が労働力育成との内的関連において追求される。労働者階級や国民各層の運動や闘争(教育の機会均等の拡大、教育内容への科学の成果の反映、不具化された能力・個性ではなく、多面的なそれらの発達など)によって学校制度、内容は影響され、資本家階級も譲歩を余儀なくされるが、しかもその要求を歪曲化、空洞化しつつかれらの必要な程度にさまざまな方法によって大衆教育の水準の向上を制限し、教育にたいするかれらの独占権を確保することにつとめる。

 そして、かれらにとっての生産力拡大に必要なかぎりの科学技術教育を、その基礎に脈うつ科学的世界観と切りはなして「充実」させるが、同時に魂を支配する思想教育、道徳教育を強化する。

10月17日
 日本教職員組合、政令改正諮問委員会答申への批判として、「文教政策基本大綱」を発表。

 6・3制完全実施、市町村教育委員会の設置反対、教育委員任命制反対、教育費国庫負担などが盛り込まれていた。

11月1日
 市町村教育委員会、全国一斉に発足。

 日教組はなぜ教育委員任命制だけではなく、市町村教育委員会の設置にも反対したのか。その経緯は次のようであった(教科書Aによる)。

 公選制教育委員会が設置されたのは1948年11月であった。この時に設置された教委は、46都道府県および横浜、名古屋、京都、大阪、神戸のほか、市21、町16、村9であった。50年2月、仙台、八王子など15の市で教育委員会が発足し、52年11月には全市町村に設置されることになっていた。

 しかし、政府としては、市町村財政負担が過重になること、文部省中心に官僚機構をいっそう整備する必要があること、全面講和、破防法反対闘争の発展から、公選による民主的教育委員の進出が危惧されること、などの理由から、一年延期の法案を準備した。教育委員会制度協議会も51年10月、設置単位、事務配分などの理由から任意設置を答申していた。さらに日教組は、1学校しかないという人口規模の少ない町村にまで教育委員会を設置するのは、実情にそわないし、市町村教委が発足すると各県教組は市町村の教員団体を単位組織とした職員団体に組織がえしなければならなくなり、身分、給与、勤務条件などが県で決定されるのに、給与の支払権のない市町村を交渉団体とすることになるので、教組の団結権を侵すものとして、全国一斉設置に反対していた。国会前でのハンガー・ストライキ、教育防衛大会も行なわれた。

 つまり、この段階では、理由は異なるが、政府も日教組も市町村教育委員会の設置には反対だった。

 しかし、自由党内部に市町村地方有力者や党の地方幹部、官僚の古手などを送りこみ、かつ日教組の組織を地域的に分断して弱めるために市町村教委設置が有利だと判断する動きが急速に台頭し、自由党か多数をもって衆院文教委で法案を否決し、8月28日、吉田首相の抜きうち解散で一斉設置が決定してしまった。

 当時の自由党がねらったことはあきらかであった。戦後の教育行政民主化の中核となってきた教員組合弱体化政策であり、地方ボスによる教員の監視と教育支配であった。益谷自由党総務会長は全国町村会の反対にたいして
「元来日教組の関係から町村に設置したら適当な人物も得られ、日教組に左右されることも少ない。最悪の場合、任命制にする」(全国町村会『町村週報』三二四号)と言明した。

 地教委一斉設置にともない各県教組は市町村単位団体の連合体に切りかわる職員団体として組織きりかえを行ない組合既得権を守った。

 この市町村教育委員会の設置は、上で取り上げた翌年1953年2月19日に国会に提出された「義務教育学校職員法案」とは相容れない政策と言わなければならない。教科書Aは次のように分析している。

 前年、地方分権を建前とする地教委の全国一斉設置を強行しながら、二か月後には、教員身分を国家公務員として任命権を文相がにぎるという極端な中央集権体制を確立しようとするあまりにも矛盾した政策は、日教組の組織を破壊し、教員の自主性、教育の自由をうばいとって、それをとおして教育の反動化、軍国生義化をおしすすめようとする自由党の意図で統一されていた。この法案は明確に教員の政治活動の自由を抑圧することをねらっていた。日教組第二回教研大会では「本質的に、憲法にもとづいて教育をまもり、平和をまもろうとする教師の活動をおさえようとするもの」(「日本の教育」第二回大会報告書、76ページ)と規定し、日教組は実力行使の態勢に入った。

 吉田首相の不信任案が可決され、国会解散となって、この法案は廃案となった。しかし、地教委は当初、組合運動、政治活動、教員の言論、教育、行動の自由への圧迫物として機能する場合が多かった。

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