2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(28)

権力が教育を破壊する(11)

教育反動(3)


GHQ、二度目の占領政策変換

1951年

1月4日
 教育課程審議会、道徳教育の充実方策について答申。修身科を復活せず、教育活動の全体を通じて道徳教育を強化。

 前年11月に修身科復活の必要性を表明した天野文相は、12月に教育課程審議会に「道徳教育の振興について」を諮問していた。上の事項はそれに対する答申である。その答申は次のように述べている。
「道徳教育は学校全体の責任であり、あらゆる機会をとらえて生徒の道徳生活の向上に資するよう努力しなければならない。このため道徳教育を主体とする教科あるいは科目を新設することは望ましくない。道徳教育の方法は、児童生徒に一定の教説を上から与えていくやり方よりは、むしろ児童生徒に自ら考えさせ、実践の過程において体得させていくやり方をとるべきである」


 教育課程審議会の答申は尤も至極の正論である。しかし、自民党政権は現在に至るまで、上から道徳のお題目を注入してステレオタイプのロボット国民を育成しようと躍起になっている。天野貞祐のご執心も全く衰えを見せない。

2月7日
 天野文相、衆議院で「静かな愛国心」の必要性を説く。

2月8日
 文部省、道徳教育振興方策を発表。道徳科を特設せず、4月26日手引要綱総説小学校篇、5月29日中学校篇・高校篇を配布。

 「手引要綱」は教育課程審議会の答申を踏まえて作成されたものだが、その要綱の性格は実際にはどのようだったのだろうか。その辺のことを知りたいと思ってネット検索をしていたら、『戦後「特設」道徳論の浮上』と言う論文に出会った。天野の「修身科」復活の言動が詳しく分析されている。その論文の結論部分を引用させていただこう。

 「手引書要綱」における「特設」の可否判断は,「教育課程審議会答申」及び「道徳教育振興方策案」とは微妙に異なることに納得がいく。「手引書要綱」に見られる「譲歩事項」は,天野の「修身科」復活発言から「手引書要綱」作成にいたる一連の政策中枢での論議のなかで展開された,特設必要論者の見解を考慮し,少なくとも高等学校での教科特設への要望を内在させつつ,記述されたと見てよいであろう。

 確かに「修身科」復活の問題が,とりわけ義務教育段階を中心にして議論されてきたことは疑いえないが,「特設」論が浮上する契機を高校段階の議論が内在していたことは,歴史の事実として記憶されてよいし,それらが「考慮」すべき事柄として意識的・無意識的を問わず文章化されたと見てもあながち言い過ぎではないと思われる。こうして,上田が指摘するように,戦後新教育の道徳教育は,「終着駅」を迎えつつあった。

4月11日
 トルーマン大統領、マッカーサーに対する更迭を発令。後任の第2代連合国軍最高司令官はマシュー・リッジウェイ中将。

 連合国軍最高司令官の交代はGHQの占領政策の変換をもたらし、教育の反動化にさらなる拍車をかけた。

5月1日
リッジウェイ司令官、「占領政策是正」のために日本政府に「政令改正諮問委員会」の設置を指令。

5月14日
 吉田内閣、政令諮問委員会を発足。

 この委員会の体質は次のようであった。教科書Cより引用する。
 この委員会のメンバーは、石坂泰三、原安三郎、小汀利得、板倉卓造、木村篤太郎、中山伊知郎、石橋湛山および前田多門であった。後に前田に代わって田中二郎が加わった。田中二郎の回想によれば、これらのメンバーの考え方は、つぎのようなものであった。

「その考え方はむしろ、その当時進んでいた行政制度とか教育制度の改革の線とは、かなり違った、中には、まったく逆の方向をめざした考え方をもった人が多くを占めておりまして、中には、その力強い推進力になろうというような人もありました。……戦前から花々しく活躍してきた人たちにとっては、戦前の制度の方がなじみやすいのでしょう。また、比較的リベラルな財界人にとっては、理念的なデモクラシーよりも、エコノミーとかエフィシエンシー(efficiency能率)を重視して考える傾向があるのも、もっともでしょう、したがって、行政制度の改革問題についても、チープ・ガバメント(cheap goverment 安価な政府)の思想が中心となり、非能率・不経済な行政や行政制度はこれをできるだけ排除しようということになります。こういう見地から、戦後新しく導入された行政委員会の制度のごときは原則として廃止すべきだというのが多くの人の意見でありますし、警察の地方分権、いわゆる自治体警察のごときはまったくナンセンスであり、全面的にこれを廃止し統一的な国家警察にひきもどすべきだというような意見が強く主張されました。」

 このような考え方をしている政令改正諮問委員会は、その後10ヶ月の期間をかけて31回の会合を重ね、行政機構、教育制度、独占禁止法、労働法規など、占領下の改革を再検討していったのである。

 「政令改正諮問委員会」の重要審議部分は教育に関することであった。委員会は1951年11月16日に「教育制度に関する答申」を提出している。

10月15日
 天野文相、参議院で「学校での道徳教育の改善、国家の道徳的中心としての天皇」などを発言。

 1951年には、修身復活のほかに、教育制度の改悪の動きも始まっている。教育委員会の公選制から任命制への改悪と中央教育審議会の設置である。

10月31日
 教育委員会制度協議会、教育委員会制度の改革に関して答申。

11月12日
 教育刷新審議会、中央教育審議会を設置。

 ここから始まった教育委員会制度の改悪が具体的に動き始めたのは五年後、第三次鳩山内閣(文部大臣・清瀬一郎)の時である(後に詳しく取り上げる)。

11月14日
 天野文相、天皇を道徳の中心におく[国民実践要領]の大綱を発表。参院その他で問題化し、11月27日白紙撤回を表明。

 「国民実践要領」は「われわれは独自の国柄として天皇をいただき、天皇は国民的統合の象徴である。それゆえわれわれは天皇を親愛し、国柄を尊ばねばならない」と述べている。この要綱に対して、参議院文教委員会で各層から「天皇道徳中心説反対」・「天降り反対」との意見が相次ぎ、天野文相はこれを撤回せざるをえなかった。しかし、天野は文相を辞任した7ヶ月(53年3月)後にこの撤回された大綱を天野貞祐個人名で公刊している。

 こうした天野による修身復活の策動は、当時まだ御用機関に堕していなかった教育課程審議会の同意も得ることができなかった。しかし、「愛国心」教育を主眼とする政府首脳の道徳教育強化を求める発言はその後も相次ぎ,天野に代わり戦後初の党人文相となった岡野清毫に引き継がれていく。  また、天野の「国民実践要領」の基本思想は15年も後(1966年)の中央教育審議会の答申「期待される人間像」へと引き継がれている。教科書Aから引用する。

 天野文相は1951年、文部省教育課程審議会が「修身科に類似した教科を設けることは望ましくない」との結論を出したこともあって、教科の復活が駄目ならば、道徳的基準を出すことを考え、「近く一般の道徳的基準になるものを出すが、国民の道徳的中心は天皇にある」と参議院でのべた。

 51年11月、「自主的教育確立」をめざす日教組第一回教研大会か開かれているときに、「教育勅語」にかわる「国民実践要領」の概要が発表された。それは、個人、家、社会、国家の四章にわかれ、1966年10月に文相に最終答申された中央教育審議会の「期待される人間像」が「個人として」「家庭人として」「社会人として」「国民として」の四章から構成されているのと、形式的にも内容的にも相通ずるものであり、その原型を示すものであった。

11月16日
 政令改正諮問委員会、複線型制度、教育委員任命制など「教育制度改革に関する答申」を決定。

 この答申はまえがきで
「終戦後に行われた教育制度の改革は、過去の教育制度の欠陥を是正し、主的な教育制度の確立に資するところが少くなかった。しかし、この改革の中には、国情を異にする外国の諸制度を範とし、いたずらに理想を追うに急で、わが国の実情に即しないと思われるものも少くなかった」ので、「わが国の国力と国情に合し、真に教育効果をあげることができるような合理的な教育制度に改善する必要がある」
と強調した。そして、そのための具体的措置の項目の一つに「公選制の教育委員会制度を任命制に改めること」を盛り込んでいる。


  教科書Aはこの答申を次のように批判している。

 この「教育制度に関する答申」は「国力と国情とに適合」する教育制度の確立を主張し、「画一性の打破」「実際社会の要求に応じ得る」などを理由につぎのような具体的な施策を提案した。

(1) 中学校から普通課程と職業課程を分離する。
(2) 高校では総合制高校を分解し、普通課程と職業課程を分離して、学区制を廃止する(職業課程学校では中学と接続させて五~六年制高校に再編成する)。
(3) 大学も、二~三年の専修大学と四年以上の普通大学に分ける(高三と大二~三とをあわせた五~六年制の農、工、商、教育等の専修大学を認める)。
(4) 教科内容の画一化を排し、種々バラエティをもつ標準教科書を国家が作成する。
(5) 教育行政については、地方公共団体の長による委員の任命制をうち出し、文部大臣の権限強化の体制を図る。
(6) 大学の「特別会計制度」の採用と研究費の重点配分を行なう。
(7) 教育行政全般にわたる単一最高審議会を設置する。

 これは、戦前の教育制度をモデルとしつつ、戦後教育改革に真正面から挑戦するものであり、対米従属のもとで復活しつつあった独占資本の要請にこたえるものであった。

 また、これは、教育の国家統制・官僚統制の復活強化の第一歩ともなり、高まりつつあった国民の教育を受ける権利と教師の平和的民主的教育をすすめる権利の自覚と主張、実践への重大な挑戦として、その後十数年間にわたる教育政策の反動化の基本路線を示すものであった。

 このような政府機関の動きも契機となって、財界は露骨に教育についての発言、要望の表明を強化してきた。


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