2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(26)

権力が教育を破壊する(9)

教育反動(1)


 教科書を追加します。
<教科書C>
久保義三著『昭和教育史』


戦後教育史年表(4)
 GHQの占領政策転換


 戦後教育の民主化は、日本の良質な教育関係者の協力が大きな推進力であったとはいえ、基本的にはGHQの占領政策(非軍事化・民主化)のもとでの上からの改革だったという脆弱性を持っていた。逆コースと呼び習わされてる教育の反動化はGHQの占領政策の転換により惹起されたものにほかならない。言うまでもなく、GHQの占領政策の転換を余儀なくさせたのは米ソの対立であり、さらにその対立は中国・朝鮮での共産主義国家の成立で激化した。その経緯を年表で追ってみよう。

1945年

9月
 朝鮮半島、南北に分裂

 8月24日にソ連軍は平壌に進駐、9月8日にアメリカ軍は仁川に上陸し、それぞれ軍政を開始した。

1947年

3月12日
 トルーマン大統領、ソ連封じ込めのトルーマン・ドクトリンを発表。

1948年

1月6日
 米陸軍長官・ロイヤル、サンフランシスコで「日本を共産主義に対する防壁にする」と演説。

 この演説はやがて吹き荒れることになる「レッド・パージ」の先駆けの役割を担っている。

8月15日
 大韓民国成立

9月9日
 朝鮮民主主義人民共和国成立

10月9日
 アメリカの国家安全保障会議、対日占領政策の転換を承認する「アメリカの対日政策に関する勧告」を採択。

 「米国家安全保障会議文書第13号の2」と呼ばれているこの勧告書は国務省内に設置された政策企画室が検討していた。その検討の基調となった観点は次のようであった(教科書Cから引用する)。

 第一に日本が米ソ関係で、地理的にも戦略上きわめて重要な地位を占めているからであり、第二に日本がアジアにおいてもっとも大きい工業力と熟練した労働力をもち、第三にアジアの兵力のうちでも近代的な戦争向けに訓練されたもっとも多数の潜在的な兵力を擁しており、そして第四に日本がアジアでは、国家的な規模で国民を動員できる唯一の国だからであった。

 このように、従来の対日占領政策が旧敵国である日本を民主化し平和国家にすることに目標をおいたのに対して、政策企画室はアメリカの対ソ関係を重視する観点から、日本の工業力と動員可能な軍事力の大きさを評価し、日本をソ連の勢力下におちいらせないことをアメリカの目標とするにいたったのである。

 この勧告書の占領政策の項では「日本経済の復興」と「日本の再軍備、警察力の強化」、それらを推進するために必要な人物の「追放の解除」などが盛り込まれている。これは後の第二次米国教育使節団の報告書にも盛り込まれていく(後に取り上げる)。


12月1日
 上記の勧告書をGHQ総司令部に伝達。

 マッカーサーは、日本経済の復興を優先課題とすることに反対ではなかったが、日本の再軍備、警察力の強化などには強い抵抗を示した。マッカーサーはその理由として、アメリカと極東地域諸国との間に不和を生ずること、GHQの行ってきた非軍事化政策に反し、日本国民の信頼を失うこと、日本経済は再軍備を許容する状態にないこと、日本国民が支持しないこと、などを挙げていた(教科書Cより)。

12月17日
 GHQ、日本政府(第2次吉田内閣)に「経済安定九原則」の実行を指令。

その九原則とは
(1)予算の均衡をはかること
(2)税制を改め徴税計画を促進強化すること
(3)資金貸付を経済復興に制限すること
(4)賃金安定策を確立すること
(5)価格統制の強化
(6)外国貿易の統制、為替の統制強化
(7)資財割当配給制度を一そう効果的に行うこと
(8)重要国産原料、および製品の増産をはかること
(9)食糧集荷計画を一そう効果的に行うこと
であり、この九項目の実施をせまったものである(以下は教科書Aより)。

 マッカーサーは、この九原則の実施にあたって、日本国民の耐乏生活と自由と権利の一時的放棄はやむをえないとし、
「九原則の目的についての政治的思想的反対は絶対に許されず厳重に取り締る」
と声明した。 これは、経済的自立の名において、対米従属のもとで日本独占資本を育成しアジアヘの侵略、反共政策にくみこもうとするものであった。労働者への首切り、「合理化」政策はここからくりだされてきた。


12月23日
 東條らA級戦犯7名の死刑執行。

12月24日
 岸信介、不起訴のまま無罪放免される。

 続く1949年から逆コースの進行があからさまになっていく。

1949年

1月23日
 第24回衆議院議員総選挙で民主自由党、264名の当選で単独絶対過多数を占める。

 これは占領政策の転換に即応した国内政治の保守反動化であった。吉田内閣は九原則の実行と反共政策の推進を言明した。
 ロイヤル陸軍長官とともにデトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジ、税制専門のコロンビア大学教授シャープが来日し、国家予算の編成をはじめ、財政、金融など全般にわたって九原則を具体化した。このときに策定された厳しい財政金融引締政策(デフレ策)は「ドッジ・プラン」と呼ばれている。


2月16日
 第三次吉田内閣発足

3月
 吉田内閣、衆議院に考査委員会(アメリカの非米活動調査委員会にならったもの)を設置

4月4日
 続いて、占領軍指令で団体等規正令(「団規令」)を制定し、法務府特別審査局を中心として共産党員の登録を要求した。

5月
 さらに、「ドッジ・プラン」にもとづいて行政機関職員定員法を制定した。

(以下は教科書Aより)

 この法律により、国家公務員25万8543名、地方公務員41万9911名の首切り計画をたてた。定員法は「赤色分子」の解雇の方針のもとに実施されることになっており、実はレッド・パージ法にほかならなかった。「団規令」は49年9月在日朝鮮人連盟に適用されたのをはじめ労働運動、民主運動に猛烈と襲いかかる反共政策の中心的武器であった。

(教職員のレッド・パージも定員法を口実に行われていた。)

 教職追放の口実は、定員法にもとづいて、教職員の定数を定員定額制へのきりかえ、各県定数条例の制定によって過剰定員の整理ということで進めていった。教育界のレッドーパージは、総数1700名といわれ、東京246名、静岡67名、京都51名、佐賀21名、秋田43名、岩手40名、熊本37名、兵庫26名、岡山33名、北海道26名、群馬24名、長野21名、福島14名などであった。攻撃は全国にわたったが、高知では阻止したし、岐阜でも抵抗があって3名程度にとどめた。

(教職員のレッド・パージの全貌は今日必ずしもあきらかでないが、おおよそ次のようであった。

 教員のレッド・パージとしては初期にあたる静岡では49年3月ごろから、警察の調査が進められ、団体等規正令の届出も含めて49年9月には整理対象者リストがほぼ確実に作成されていたといわれる(原告代理弁護人芦田浩志『免職無効確認請求事件準備書面』1964年1月14日)。

 49年9月8日の全国教育長会議で静岡県教育委員会教育長岡野徳右衛門は、GHQ係官から同県に300名ちかい党員、同調者がいるといわれ、大規模なパージを行なうことを示唆された。教員組合はこの情報を知った。教組は弾圧を予想して対策を練った。県教委は、文部省から示された定員数と教員との差600名のうち、半数は国庫負担、半数は整理という方針で定数条例を作成し、49年9月25日教育委員会、49年9月28日県議会を通過させた。

 レッド・パージの実行にあたっては、調査リスト全員の整理は情勢から得策でないので、共産党員を中心として同調者、組合役員などの追放にしぼられた。県教委は寺田銕県教組委員長をよびだし、占領軍とわが国の政治情勢からして反対運動を抑えるよう圧力を加えた。静岡軍政部レニッガーも県教組の反対運動は好ましくないと指示した。こうして49年10月8日、静岡県下いっせいに67名の首切りがいいわたされた。

 解雇にあたっては、「長期観察の結果不適格とみなす」といういいわたしが行なわれた。これか明確なレッド・パージであったことは、この整埋が行なわれた半年後、50年2月以後定数条側が改正され、教員の補充が行なわれたこと、ふたたび活動をしないことの誓約のもとに、数多くの復職を認めたこと、徹底的に抵抗した教師には天皇制絶対主義の歴史の残滓、官吏分限令による懲戒免職をあくまで強要したということなどにもあらわれているであろう。

(ちなみに、上の引用文の末尾に括弧付きで次のような追記が行われている。)

 1959年9月、静岡県教組の支援をうけて、裁判闘争が開始され、1966年9月21日、静岡地裁大島斐文裁判長は、名波三子夫にたいする処分は、「思想・信条並びに組合活動を理由とする差別的な不利益扱いであって、憲法14条、労働基準法第3条に違反するところの重大且つ明白な瑕疵ある行政処分」であり無効であるとの判決を下した。


 名波三子夫さんが処分無効の判決を勝ち取るまで十数年もかかっている。しかし、ここにもまともな裁判官がいたことを知り、暗闇に光明を見る思いがしたのだが、このまま決定したのかどうか不明。もしかすると、上告審では敗訴しているかもしれない。

 念のためネット検索をしてみた。「労基法の基本原則(4)信条と均等待遇(レッドパージなど)」に出会った。「1950年9月9日朝日新聞事件」を先頭に112件の判例が掲載されているが、名波三子夫さんの訴訟は掲載されていなかった。そこに掲載されていたレッド・パ-ジ関連の訴訟は、名波三子夫さんの訴訟と同じく憲法14条・労働基準法第3条が争点になっているが、全て敗訴になっている。1952年に最高裁が「GHQの指示による超憲法的な措置で解雇や免職は有効」という判決を出していて、以降の関連訴訟の判決はこれを判例としている。

 上の112件は1994年までのものである。最も直近のレッド・パージ訴訟は2013年4月に行われている。この訴訟では最高裁は「上告棄却」と門前払いをしている(次の記事を参照しました)。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2013/130517_2.html">「最高裁が上告棄却」
「日本弁護士連合会会長談話」

 判決文を読んでみると、やはりレッド・パージ裁判でも行政べったりの詭弁・屁理屈ばかりの判決である。ここでも「裁判は階級的である」。
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