2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(22)

権力が教育を破壊する(5)

戦後教育の民主化(4)


戦後教育史年表(2)
 教育基本法と教育勅語


1946年

8月10日
 教育刷新委員会(「教刷委」)発足
 教刷委は米国教育使節団に協力すべく結成された「日本側教育家の委員会」を母体として発足し、1949年6月1日に教育刷新審議会と改称し、1949年6月6日に中央教育審議会設置を受けて廃止されるまで約6年間活動した。
 教刷委の第一委員会では教育勅語の取り扱い問題が論議された。9月25日の第2回会議では
(1)
 旧教育勅語に類する新勅語の奏請は行なわないこと
(2)
 新憲法発布の際の勅語の中に、今後の教育の根本方針は新憲法の精神に則るべきことを示されたいこと
などを挙手多数で決定している。委員のなかには,新しい教育方針の確定をふたたび天皇の詔書に頼ろうとする意見があったが、そのような新勅語の煥発については委員の間で意見か分かれていたことがこれでわかる。


 敗戦直後に「天皇の詔書に頼ろうとする意見」があったことは驚くに当たらないことだろう。官僚・知識人の多くは「国体護持」というくびきから自由ではなかった。その程度の連中が教育の刷新を論じていたのだ。しかし、新教育勅語煥発説はやがて消滅する。そこに至るまでの経緯は次のようであった(<教科書A>から引用する)。

 米国教育使節団は戦前戦中の日本の教育について批判を行なっているが、肝心の天皇制と教育勅語については直接的な批判はまったくしていない。かろうじて教育勅語についてだけ、つぎのようにのべているにすぎない。

「勅語勅諭を儀式に用いることと御真影に敬礼する慣行は、過去において生徒の思想感情を統制する力強い方法であって、好戦的国家主義の目的に適っていた。このような手段の使用に関係のある儀式は、人格の向上に望ましくないものであり、民主主義的日本の学校教育に反するものと我々は考える」(第三章)。

 このように米国教育使節団は、教育勅語をその内容にまで立ち入って大きく問題にすることはしなかった。それは、使節団が教育勅語とそのはたした役割について無知であったためであろうか。そうではない。

 使節団の報告書が天皇制と教育勅語について正面からとりあげそれを批判していないのは、そうすることを避けたのであるといわざるをえないだろう。天皇制を存続させるというアメリカの対日占領方針は、アメリカの占領政策の一環としての教育使節団の活動にも貫徹していたのである。教育勅語の批判は必然的に天皇制の批判に結びつかざるをえないから、天皇制についてふれることか許されない以上、教育勅語についてふれることも不可能であったにちがいないのである。

 この米国教育使節団に協力すべく占領軍の命令で設置された「日本教育家の委員会」(いわゆる日本側教育家委員会、委員長南原繁)も、その報告書を教育使節団と日本政府に提出している。この報告書は、「教育勅語に関する意見」として、つぎのようにのべている。

「従来の教育勅語は天地の公道を示されしものとして決して謬りにはあらざるも、時勢の推移につれ国民今後の精神生活の指針たるに適せざるものあるにつき更めて平和主義による新日本の建設の根幹となるべき国民教育の新方針並びに国民の精神生活の新方向を明示したまふ如き詔書をたまはり度きこと。」

 この新教育勅語煥発説は、日本側教育家委員会の意見であったばかりでなく、当時の文相安倍能成などの考えでもあった。戦後初期の教育改革の日本人の指導層 ― いわゆるオールド・リベラリストの進歩性の限界を、ここにはっきりと見出せるだろう。

 しかし、日本側教育家委員会は全員一致で新教育勅語煥発説をとったのではなかった。それに反対する少数意見があったのである。この少数意見は次第に有力な意見に成長し、教育基本法の構想に連なっていく。

 「少数意見は次第に有力な意見に成長」する力を与えたのは、言うまでもなく、教育の民主化に対する一般国民の理解の進展とそれに基づいた世論の高まりである。

10月8日
 文部省は、教育勅語拝読の廃止、勅語・詔書の謄本の神格化廃止を通達。
 教育勅語そのものが否定されたわけではない。あくまでも「拝読の廃止」である。教育勅語の廃止はようやく1948年になってからである(6月19日、衆参両議院で決議)。

11月3日
 「日本国憲法」公布
 日本国憲法は第26条第1項で「全ての国民は・・・ひとしく教育を受ける権利」を謳っている。戦前の日本では,教育を受けることは,納税・兵役と並ぶ臣民の三人義務の一つであった。教育をめぐる権利・義務関係を逆転させ,教育をうけることはすべての国民の権利であることを規定したことは,まさに画期的なことであった。

11月29日
 教刷委、教育基本法制定を建議
 教育方針の確定を詔書に頼ろうとする意見に対して、新聞等の世論の動向もあって、反対意見がしだいに強くなり、上記の建議に至った。戦後教育法制の中心的な法律「学校教育法(1947年3月31日公布)・教育委員会法・教育公務員特例法・教育職員免許法・社会教育法・私立学校法」などは全て教刷委の建議を基礎にして制定されている。

1947年

3月31日
 教育基本法・学校教育法公布
 教育基本法の前文を転記する。
 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

 このように、教育基本法も学校教育法も「全ての国民は・・・ひとしく教育を受ける権利を有する」という日本国憲法が示す根本原理に則って導き出されている。


 しかし、 政府(第一次吉田内閣)や枢密院などの当局者たちには、この憲法・教育基本法の核心的な意義が十分自覚されていなかった。<教科書A>は「その能力はかれらにはそなわっていなかった」とまで断じている。そうした断定をする根拠を見てみよう。

注:枢密院
 憲法問題などを扱った天皇の諮問機関。ちなみに教育基本法の公布文には
「朕は、枢密顧問の諮詢を経て、帝国議会の協賛を経た教育基本法を裁可し、ここにこれを公布せしめる」
という前文が付されている。


 教刷委の第一特別委員会は、文部省の「教育二関スル根本法」の構想をふまえて作成した「教育基本法案要綱案」を1956年11月29日総会に提出している。この草案の前文は次のようになっていた。

 教育は、真理の開明と人格の完成とを期して行われなければならない。従来、わが国の教育は、ややもすればこの自覚と反省とにかけるところがあり、とくに真の科学的精神と宗教的情操とが軽んぜられ、徳育が形式に流れ、教育は自主性を失い、ついに軍国主義的、又は、極端な国家主義的傾向をとるに至った。この誤りを是正するためには、教育を根本的に刷新しなければならない
 さきにわれらは、憲法を根本的に改正し、民主的文化国家を建設して、世界平和に寄与する基礎を築いた。この大業の成就は、一に教育の力にまつべきものであって、人間性を尊重し、真理と正義と平和とを希求する人間の育成を期すると共に、普遍的にして、しかも個性ゆたかな、伝統を尊重して、しかも創造的な、文化をめざす教育が普及徹底されなければならない。
 われらは、ここに、教育の目的を明示して、新日本教育の基本を確立すると共に、新憲法の精神に則り、それと関連する諸条項を定めるために、教育基本法を制定する。
 われら国民はすべて、この自覚の下に、教育の目的の実現に向って、不断の努力をいたさんことを期するものである。

 この素案と政府案(公布された教育基本法)の前文を比べてみると大きな違いが二つ見て取れる。一つは素案の前文の冒頭部分(戦前戦中の日本の教育にたいする批判と反省)が全部削除されている。もう一つは「憲法を根本的に改正し」が「日本国憲法を確定し」と修正されていることである。これは政府や枢密院部内における国体護持論の影響の根強さを示している。

 もう一点、 吉田茂首相は最後の帝国議会(第92回帝国議会)で行った施政方針演説(於1947年2月14日貴族院)で二・一ゼネストにたいする弾圧を礼賛したのにつづいて教育の問題にもふれている。しかし、吉田首相の施政方針演説は、教育基本法案と学校教育法案とか上程可決された議会での施政方針演説であるにもかかわらず、そのことの意義にふれることなく二・一ストに象徴される労働運動の高揚に対処する方便として教育問題が語られているにすぎなかった。このことは当時の日本の支配層の中枢部分における教育についての認識能力の程度を暗示している。
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