2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(21)

権力が教育を破壊する(4)

戦後教育の民主化(3)


戦後教育史年表(1)
 米国教育使節団


 これまでの記述では、私自身に基本知識が不足していて、教育史全体の中での位置づけ分かりにくいと感じてきた。そこで、重複する事項もあるが、改めて戦後教育の民主化の動きを年表風にまとめてみることにした。

 以下は
<教科書A>
五十嵐顕・伊ヶ崎暁生編『戦後教育の歴史』(青木書店)
<教科書B>
柴田義松・齋藤利彦編著『近現代教育史』(学文社)
を用いています。


1945年

8月15日
 「ポツダム宣言」を受諾。日本は無条件降伏した。
 同宣言は,軍国主義勢力の除去とともに「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化」と「言論,宗教及思想ノ自由並二基本的人権ノ尊重」を日本政府に要求していた。

9月15日
 文部省、「新日本建設の教育方針」を発表。
 そこでは、平和国家・道義国家の建設とともに「益々国体護持に努むる」べきことをうたっていた。

10月2日
 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が設置され、米軍による事実上の単独占領が始まる。
 GHQは、10月から12月にかけて教育に関する「四大指令」
 ①「日本の教育制度の管理」
 ②「教員及び教育関係官の調査・除外・認可」
 ③「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止」
 ④「修身、日本歴史及び地理の中止」
を出し、軍国主義的および極端な国家主義的イデオロギーの普及の禁止、戦犯教師の追放、教員・学生の政治活動の自由の回復、修身等3教科の授業停止等を指令した。
 これにより、文部省等の旧支配層による「国体護持」路線は急速に後退し、代わって文部省内にも「公民教育刷新委員会」が設置され、近代的・合理的な公民科教育を「新教育」の柱とする案を年内に文部大臣に答申するなどの新しい動きが出てきた。また、教育現場では、教科書から軍国主義や国際和親を妨げる教材を削除するための「墨ぬり」がおこなわれたり、学生の民主化運動が各地の高校や大学で始まり、教員の間では生活を守り教育を発展させるための教員組合結成の動きがいくつかの地域で起こり、早くも年末には全日本教員組合(全教)・日本教育者組合(日教)が結成された。


1946年

1月4日
 GHQがアメリカに教育使節団派遣を要請。

2月7日
 GHQの要請を受けて「米国教育使節団に協力すべき日本側教育家の委員会」(委員長南原繁)を編成。

3月5日
 第一次米国教育使節団が来日。

3月30日
 米国教育使節団、報告書を提出。
 マッカーサーは、「民主主義的伝統に於ける高き理想の文書」であり、「民間情報教育局(GHQ幕僚部の部局の一つ。略称はCIE。教育・宗教など文化政策を担当)にとって極めて有用なもの」との声明を発表し全面的支持を与えた。
報告書は、日本の教育欠陥を次のように指摘している。
(1)
 極端に中央集権化教育制度
(2)
 特権階級と大衆とに別々の学校を用意した特権的差別教育と組織
(3)
 画一化されたつめ込み教育
(4)
 官僚独裁的な教育行政
(5)
 非能率的な国語・国字問題
 そして教育改革の方向を次のように勧告している。
(1)
 個人の価値と尊厳、能力と適性に応じた教育機会、教育内容、方法の画一的規定排除、(2)
 漢字制限、仮名、ローマ字の採用
(3)
 六・三制の学校制度、下級中等教育の義務制、男女共学、上級中等教育の希望者全員入学、授業料無料、男女共学、教育行政の独立、公選制教育委員会の設置
(4)
 新しい教授方法、社会科、教師の再教育計画、教員団体の組織の自由、大学レベルの教員養成、教員免許制の確立
(5)
 成人教育、社会教育の普及
(6)
高等教育の開放、一般教育、人文的教養の重視
などを勧告した。


5月15日
 文部省、『新教育指針』を発表。
 児童中心主義の「新教育」は、明治以来日本の教育を支配してきた極端な国家主義に基づく権威主義の教育を公然と批判した点において戦後の教育改革に重要な役割を果たした。戦前と比較するとき、子どもたちがともかく解放され、明るく活発となったというのは、大多数の日本国民の実感であった。


 この『新教育指針』はその後の教育の民主化に深く関わってくる。この指針に対して、どのような評価や批判が行われてきたのか、少し長くなるが、<教科書A>から引用しよう(文中の引用文の出典は省略した)。

 これ(新教育指針)は、使節団報告書をうけて発表されたというよりは、45年秋の四大教育指令と「深い結びつきをもって」書かれたものであった。そこには、これまでの日本では人間性が尊重されない社会的関係が教育にも反映し、生徒の個性を無視した画一的教育、教師の生徒に対する封建的・絶対的関係が支配的であったので、今後は、人格と個性の尊重、自主的、協同的な学習を行なわしめる「教育における民主主義」が必要であると強調されていた。そして、これは「教育者の手びきとするため」につくったもので「教育者におしつけようとするものではない」との説明が与えられていた。したがって、その内容は、「文部省の文書としては、民主的な基調をもつ最初のもの」と評価されたし、「日本国憲法、教育基本法として展開する民主的教育価値がすでに明確にのべられている」とも評価されている。

 しかし、四大教育指令にたいして文部省は、実践においてはできるだけサボタージュしておきながら、四大教育指令にそって民主主義教育を解説したのである。敗戦直後において民主主義教育の諸問題について実践的指針を示そうとするならば、戦争中軍国主義教育を指導したことにたいする根本的な自己批判から出発し、教育民主化の課題とその実現のための具体的条件の整備に責任を負うことが客観的に要求されていた。この点で、「新教育指針」が、戦争責任を「国民全体が負うべき」だと主張し、戦争の発生原因と責任の問題で侵略戦争を合理化し「教学局」、「国民精神文化研究所」などの機関や「国体の本義」、『臣民の道』などの書物の役割を正当化していることは絶対にみのがせない。教師の思想弾圧・転向のための機関であった「教学局」や、天皇制イデオロギーの注入の武器であった各種パンフレットにたいするこの評価は、ファシズムとその教育について文部省が歴史的に総括する能力を欠いていることを示していた。戦前、民主的な教師の諸々の努力にたいして権力的な弾圧というかたちで実践的に接触した文部省は、民主的な教育の実践と理論の構築を侵略戦争の過程でことごとくふみにじったことへの反省なくして、敗戦直後、手のひらをかえすように民主教育の建設を強調することは道義的にも不可能なことがらであった。しかし、進歩的側面と同時に教育における「民主主義」の理論を共存させていたこの『新教育指針』は、各学校で教師たちに活用され、新教育への導入の役割をはたしていった。

 戦前の「民主的な教師の諸々の努力・・・民主的な教育の実践と理論の構築」の例として、羽仁さんは文化学院と自由学園を取り上げて、次のように語っている。

 羽仁もと子なんかも、文部省をまったく無用だと考えてた一人なんだ。西村伊作が文化学院を建て、羽仁もと子が自由学園を建てたことは、文部省の監督を受けない学校を作ろうということが目的なんだ。だからあの当時、学校を建てる最小限の法律である各種学校の法規にしたがって、作った。この各種学校というのは料理学校とか裁縫学校とかいうやつで、文部省が監督する価値を認めない学校なんだよ。だから、中学校なり、高校、大学の資格は一つもない。それで補助金ももらえない。だから日本の場合、羽仁もと子や西村伊作の考えでは、金がなくてもいい、建物がなくてもいい、文部省の干渉さえなければ真の教育ができるということなんだね。それで文化学院にしても立派な成績をあげている。例えば、青地晨君も文化学院出身だからね。

 自由学園は、戦前だけれども、霜柱の研究というのを卒業制作でやった。これは、大学でもできなかったような立派な科学的な研究なんだ。でも結局、最後は軍事的に利用されたがね。満州の軍用鉄道が霜柱で浮き上がってしまうので、非常に困っていたんだよ。それで、この研究の成果を大いに参考にするとかね。

 そのように文化学院なり、自由学園が教育上、非常によい成績をあげた。それで、戦後の日本の教育を考える時、まるで自由学園が模範のようになったことがある。だから、これも文部省がない方がどんなに教育がうまくいくかといういい例なんだ。文部省廃止論というのは何もぼく一人がいってることじゃなくて、高野長英から始まって歴史的に古いわけだよ。本当の意味で教育に少しでもタッチした人間は、文部省というものが教育にとって百害あって一利もないということを主張していたし、実践もしてたわけだ。

 高野長英については、上の引用文の少し先のところで、次のように紹介している。

 文部省を廃止することだとぼくは思っている。文部省廃止論は、今ぼくがいい出したことじゃない。代表的な例をあげれば、福沢諭吉も文部省なんてものは必要ないといっている。必要ないというよりは事実として日本の近代教育は文部省が作ったものではないんだよ。

 日本の近代思想の代表的な一人は高野長英だ。徳川幕府の教育の関係の、今でいえば文部省だな、つまり大学の管理をやっていた江戸幕府の役人の林大学頭ね。その林大学頭の学制というのが、江戸時代のあらゆる学問の進歩を阻害していたことは誰でも知っていることなんだ。高野長英はそれに抵抗して投獄されたりしながら、近代思想を日本に開いたんだよ。

 明治維新の時に、小学校を作るとか、大学を作るとかいっても、結局それは文部省がやったわけじゃないんだ。文部省とは関係なく、日本の近代教育というのはできてきた。それで、福沢諭吉のことを、その当時の人は、"文部省は虎の門に在るかもしれないが、文部卿は三田に在り"といったくらいだよね。

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