2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(20)

権力が教育を破壊する(3)

戦後教育の民主化(2)


教育勅語の廃止

 「裁判は階級的である(2)」で羽仁さんの参議院議員時代の履歴を紹介したが、その中に
「参議院文教委員会で教育勅語廃止を要求して発言、討論する」(1948年5月)
という事項があった。前回の引用文の続きはそのときのことを語っている。

 さらに教育勅語の廃止ね。この廃止はね、もし教育勅語に何かの理由があったならば、占領軍によって廃止されるはずはないんだよ。日本に何か一本の理屈が通っていれば、占領軍だって、強引に廃止することはできなかったでしょう。参議院の文化委員会で最後に決定したんだが、その時に、最後の段階になって、未練げに、元貴族院議員の徳川君が発言して、
「この教育勅語の廃止はわれわれの本意に出でるものじゃなくて関係方面からによるものであるということを記録に残しておきたい」
というから、
「ちょっと持て、君がそういうことをいうなら、俺もひと言、いう。教育勅語の廃止は、日本国民心の底からの願いである、決して関係方面からの指示によるものではない、これを記録にとどめておいてもらいたい」
といった。
「教育勅語のためにわれわれ国民は道徳を権力の下に置かれてどんなに泣かされたかわからない。天皇を拝まなくても親に孝行をしたいんだよ、天皇を想わなくても夫婦相和したいんだよ」
ということをいったんだ。

 「徳川君」を調べてみた。水戸徳川家第12代当主・徳川篤敬の次男で徳川宗敬。1946年6月19日に第15代(最後の)貴族院副議長に就任している。羽仁さんと同じ、第一回参議院議員選挙で当選して参議院議員になっている。

 ところで、敗戦直後、私の家に教育勅語が保存されていた。今は手元にないが、旧仮名遣いでルビが振られていていた。小学生だった私は弟とその書き出しを読んで「これなに?」と笑い転げたことを思い出した。その部分を覚えている。こうである。「チンオモフニワガクワウソクワウソクニヲハジムルコトクワエンニ・・・・」

 現在、この教育勅語の復活を狙っている連中がいる。ネット検索すると続々出てくる。もちろん、そこで使われている教育勅語はすべて現仮名遣いのルビであり、その現代語訳は国民道徳協会訳文というのが一番流布されているようだ。2002年の改装以前には靖国神社遊就館にその訳文が掲示されていたと言うから、その訳文が流布しているのはそのためかもしれない(国民道徳協会という組織は、ネットで検索した範囲では正体不明)。しかし、その訳にはとんでもない改ざんが行われている。羽仁さんが「天皇を拝まなくても親に孝行をしたいんだよ、天皇を想わなくても夫婦相和したいんだよ」と言っている部分の勅語原文は次のようである。

「朕惟フニ我カ皇祖皇宗・・・・・・爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ・・・・・・一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」

 つまり、天皇が「爾臣民」に「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」等々と道徳を説教しているが、それは「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼」するためなのだ。この引用部分を国民道徳協会訳文は次のように訳している。

「私は、私達の祖先が,・・・国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じあい、・・・非常事態の発生の場合は、身命を捧げて、国の平和と、安全に奉仕しなければなりません。

 教育勅語復活を支持している大方の皆さんはこのようは改ざんされた訳文を読んで「すばらしい!いいことを言っているじゃないか」と感動しているようだ。しかし、ここには天皇が全く姿を消している。遊就館がその掲示を止めてしまったのは、その改ざんが天皇を抹消してしまっている点で好ましくないと判断したからだと推測できる。

 だいたい、訳文がどうのこうの以前に、天皇制国家であろうと民主国家であろうと、国家権力が道徳を国民に訓示すること自体がおこがましいのだ。このことについても羽仁さんも触れている。また、教育勅語復活論者たちは、現在のように日本が道徳的にダメになたのは教育勅語を廃止したからだ、と主張しているが、これに対して羽仁さんは教育勅語が日本の道徳が堕落した根本原因だと言う。羽仁さんの語りを聞いてみよう。

 まず、「国家権力が道徳を国民に訓示すること自体がおこがましい」ということについて。

 教育勅語についても・・・政府というものは、われわれが税金を払って役人を雇うわけなんだよね。その役人に向って、我に善を教えろ、我に生き方を教えろ、というようなそんな馬鹿げたことがあるかっていうんだよ。これはつまり政府というのは税金の処理だけの機関なんで、それが道徳に口を出すべきものじゃないということなんだよ。宗教とか道徳とかポルノとか、何も税金とは関係ない。政府は税金の始末だけをしてりゃいいんだ。それ以外に教育の内容なんかについて、文部大臣などが口を出すということは厳密な意味で法律的にもおかしい。また、封建国家や古代国家はたしかに宗教的な、道徳的な意味を持っていたでしょう。だから、お上にさからうということは悪いことだということがあったでしょう。しかし近代国家というのは、「お上に手向うな」などということはないんだよ、すなわちお上なんてないんだ。われわれが税金で雇ってる役人にすぎないんだよ。だからそんな役人に「俺は女の裸体の写真を見ていいか」なんて聞く必要はない。・・・だから、ポルノなどに国が口を出せる資格はないということは決してぼくの暴論じゃなくて、政府は税金の関係の仕事だけを真面目にやっていればいい。ところが今の政府は、税金の正しい使い方に専念しないで税金の横流しなどをやって、税金と関係ないようなポルノを見ちゃいかんとかいってるんだ。

 次は「教育勅語が日本の道徳が堕落した根本原因」ということについて。

 教育勅語というのは、多くの人が気がついていないようだけど、例えば、教育勅語を戦後復活しようとした最初の人は田中耕太郎で、彼がいうには、教育勅語に書いてあることは自然法だ、したがって廃止することはないというんだよ。ところが、教育勅語の本質的な点は「朕惟フニ」ということが一番頭についていることなんだよ。つまり、天皇が思うんだよ、"夫婦相和シ朋友相信シ……″とかね、だけど、どこの夫婦が、天皇か希望するから仲良くしようなんてことかあるかね。それは、逆にいえば、天皇が見てないところでは、夫婦喧嘩をやってもいいとか、朋友互いに裏切ってもかまわないということになる。つまり、結論的にいえば、道徳を政治の下に置いたということなんだな。だから、教育勅語というのは日本の道徳が堕落した根本原因なんだ。今、日本人の道徳は非常に堕落しているだろう。ことに大商社、支配階級の田中角栄などは、偽善者の最大のものだよ。何してるかわからん。文部省などは汚職の巣だよ。政治というのは、もともと高級なものじゃないんだからその下に置かれた道徳がいかに低級になるかということは説明するまでもない。

 われわれは、道徳は政治の上にあるものと考える。だから、政治の面で刑法に背けば罰せられるんだよ。だけど、道徳の場合は背くと罰せられるから善をするんじゃなくて、罰せられても罰せられなくてもわれわれは道徳を守るんだよね。刑法は罰せられるからやらない、というんだろ。死刑がないと犯罪が増えるといって道徳と混同する。そうじゃないんだ。道徳まで死刑の下に置いちゃうから、人間、あらゆる悪いことをやりだすわけだ。これは江戸時代から続いている。つまり、江戸時代の寺社奉行というのは今の文部省だな。江戸時代初期の学者で熊沢蕃山という有名な人がいるけどね、この人がすでに寺社奉行廃止論を唱えている。「寺社奉行は、お坊さんを奴隷のように呼びつける」つていうんだよ。つまり、今の文部省が県の教育委員長を集めて、先生にふさわしい人を任命しろ、すなわち俺のいうことを聞くような人間を任命しろと訓示をたれていることと同じなんだ。これは、おそらく現在において極悪非道な最大の犯罪だろうね。人殺しなんかよりもっとひどいよ。だから人民は政府を信用しない、道徳を信用しない、教育を信用しない。あらゆるものが信じられなくなってしまうのも当然なんだ。・・・ぼくの文部省廃止論は決して私論でなく、天下の公論なんだ。

 またまた田中耕太郎が登場した。今度は教育勅語擁護論者である。

 1946年1月1日、いわゆる「天皇の人間宣言」が発表された。この詔書を受けて文部省が訓令を発している。田中耕太郎の教育勅語擁護論はその延長上にある。五十嵐顕・伊ヶ崎暁生編『戦後教育の歴史』(青木書店)から引用する。

 文部省は1月4日に、この詔書について訓令を発した。それは、「謹ミテ按ズルニソノ諭シ給フ所ハ、マタ今後我ガ国教育ノ由ッテ以テ則ル大本タルベキモノナリ」とし、教育によって聖旨を徹底すべきことを命じている。

 天皇の人間宣言をひとつの契機として、天皇制や教育勅語にたいする疑問や批判が、さらに強まり一般化した。これにたいして、2月21日、文部省で開催された地方教学課長会議で、学校教育局長田中耕太郎はつぎのように訓示した。

「次に終戦後教育の根本たる教育勅語に対し疑を持ち又は一部の教育者が元旦の詔書に依って教育勅語が廃止せられたかの疑問を抱いて居る事を耳にして居ります。然しながら教育勅語は我が国の醇風美俗と世界人類の道義的な核心に合致するものでありましていはば自然法とも云ふべきであります。即ち教育勅語には個人、家族、社会及び国家の諸道徳の諸規範が相当網羅的に盛られて居るのであります。それは儒教、仏教、基督教の倫理とも共通して居るのであります。中外に施して悖らずとは此の普遍性の事実を示したものに外ならないのであります。勿論其の徳目の列挙に於て又道徳意識の宗教的内面化に於て勅語は必ずしも完全であるとは申せないのでありますが、然し不完全は決して誤謬ではないのであります。従って今度の年頭の詔書も決して教育勅語の権威を否定するものでは無いのであります。即ち現在に於て教育勅語は決して無視されてはならないのでありまして考へ様によっては従来教育勅語が一般に無視されて居たからこそ今日の無秩序、混乱が生じたと考へられるのであります。併しながら教育勅語の精神の発展は有り得るのでありまして其の精神は一部分年頭の詔書に現はれてゐると斯様に考へて居るのであります」(『文部時報』827号)。

 この考えは、単に田中個人の考えではなく、文部省の公式の態度表明であった。これにたいして、2月24日付の「読売新聞」社説などは、教育勅語は自然法であるとする論理の欺瞞性をきびしく指摘して、これを批判した。

 現在の読売新聞のていたらくぶりにあきれ果てているので、「この頃の読売新聞は立派だったなあ」と溜息でてくる。

 田中耕太郎が用いた「自然法」は現在の教育勅語復活論者が使うキーワードの一つになっている。4ヶ月ほど前(2014年4月21日)の東京新聞の「【核心】集団的自衛権の行使へ解釈改憲」という記事で、典型的な御用学者・北岡伸一が次のようなあきれた発言をしていた。

「憲法は最高規範ではなく、上に道徳律や自然法がある。憲法だけでは何もできず、重要なのは具体的な行政法。その意味で憲法学は不要だとの議論もある。(憲法学などを)重視しすぎてやるべきことが達成できなくては困る」

『憲法は最高規範ではないのだから、「解釈改憲」で結構じゃないの』と言っているのだ。 また『憲法学は不要だとの議論もある』などとも言っているが、初耳だね。それ、アベコベの「お友だち」の間だけの議論でしょ。

 いろいろな反動の種を蒔いてきた田中耕太郎は文化勲章、勲一等旭日桐花大綬章を受章しているという。また、没後に正二位を追贈されるとともに大勲位菊花大綬章を授与されたそうだ。なるほど、このような時代錯誤の叙勲を受けるにふさわしい人物だ。北岡伸一などのアベコベの「お友だち」らは「俺も勲章もらいたいなあ」と、指をしゃぶっているのかしら。
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