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357 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(10)
「熊襲」とはどこか(2)
2005年8月10日(水)


 古田さんは『記・紀』の説話を解読する際の前提事項として二つの原則をあげ ている。
 わたしは『記・紀』を見る場合、つぎの二つの原則を大前提とする
(1) 『記・紀』は、天皇家中心の「大義名分」に貫かれた本である。
(2) したがって『記・紀』は古来の伝承に対して、天皇家に「有利」に改削・新加 (新しく付加)することはあっても、「不利」に加削することはない。

 まず、(1)について説明しよう。
 すでに前の本で詳しくのべたように、〝天皇家は永遠の昔から、この日本列島の中心 の存在だったのだ″という「大義名分」が『記・紀』を貫いている。それは「歴史事実 の実証」以前の、いわば「観念」としての大前提なのである。それは国内問題だけではな い。たとえば、

冬十月に、呉国、高麗国、並に朝貢す。(仁徳紀58年)
夏四月に、呉国、使を遺して貢献す。(雄略紀6年)

とあるように、中国(や高麗)との通交さえ、あちらが日本の天皇家に臣従L、朝貢してき たように書いてあるのだ。だから、これは「朝貢」の事実を示す記事ではない。『記・紀』 『記・紀』の大義名分に立った筆法なのである。

 (2)については、健康な常識をもってすれば自明の判断だといえよう。もっともなにが 有利か不利か、理屈をいえば種々疑いが生じよう。たとえば〝これは一見「不利」に見える。 しかし、そのような「不利」な事件をのりこえてきたところに天皇家の歴史のすばらしさが あると見えるように、わざと一見「不利」に造作したのだ″といった風に。
 しかし、『記・紀』はトリックにみちた近代の推理小説ではない。天皇家が公的に開示し た正規の史書(ことに『書紀』の場合)なのだから、あまりまわりくどくひねた解釈で強い て〝「有利」ととる″のではだめだ。簡明率直、万人に与える直裁な印象が問題なのである。

 以上二つの自明の命題、これをわたしは「二つのフィルター」と名づけよう。『記・紀』とい う本の記述には、すべてこの二つのフィルターがかかっている。だから、わたしたちは逆にいつ もこの〝フィルター越し″に、問題の真相を見つめねばならないのだ。この本の進行の中でいつ も・この方法を厳正に適用してゆくとき、この方法のもつ「深い意味」をわたしたちはくりかえ し思い知らされることとなるだろう。


 さて古田さんの解読を読んでみよう。古田さんは時代の新しい方から始めている。つまり

 ③ 仲衷・神功の熊襲遠征説話(『記』『紀』とも)

から。

 この説話には地名はただ一つだけ出てくる。「橿日(かしひ)の宮」。 北九州の福岡市の東にある現在の香椎宮(かしいぐう)。タラシナカ ツヒコ(仲哀)がここで死んでいる。ところがその死に方には二通りの説がある。

(一)
(a)
其の大后息長帯日売命(オキナガタラシヒメノミコト=神功)は、当時神を帰(よ) せき。故、(仲衷)天皇筑紫の討志比宮(かしひのみや)に坐(ま)し、将に熊曾国を撃た んとせし時、天皇御琴を招きゐて、建内宿禰大臣、沙庭に居て、神の命を請ひき。
(中略)
爾(しかる)に稍(やや)其の御琴を取り依りて、那摩那摩邇控(なまなまにひ)き坐し き。故、未だ幾久(いくだ)もあらずて、御琴の音を聞かず。既ち火を挙げて見れば、既 に崩じ訖(おわ)んぬ。(『古事記』)
(b)(仲哀)天皇忽(たちま)ち痛身有りて、明日崩ず。(『書紀』本文〉

(二)一に云ふ、天皇親(みずか)ら熊襲を伐ち、賊の矢に中(あた)りて崩ずるなり。 (『書紀』の「一云」)

 『古事記』では「神がかり死」あるいは「自然死」している。『書紀」本文は「病死」だ。 この二つに対して、(二)の『書紀』「一に云ふ」の方はまったく違う。熊襲征伐中に敵 の矢に当って戦死している。古田さんは問う。「どちらが本当だろう。いいかえれば、どちらが 本来の伝承だったのだろうか。

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