2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(16)

裁判は階級的である(8)

スラップ訴訟(2):「四畳半襖の下張栽判」補足


 前回の引用文で、羽仁さんは次のように語っていた。
『野坂君の四畳半裁判にしても、一部の人は特別弁護人の丸谷才一君が証人を五木寛之君に頼んだことが矛盾しているというが、そんなことはない。五木君のいっているような方向でしか、この裁判の無罪を勝ちとる理由はないんだよ。』
 この辺の事情を詳しく知りたいと思っていろいろ調べたら『四畳半襖の下張裁判・全記録』(丸谷才一編)という本があることを知った。残念ながら私が利用している図書館にはなかった。しかし、この本の記録を引用しながら「ワイセツそのものを裁判すること」の滑稽さを浮かび上がらせている記事に出会った。「読書で日暮らし」と言うサイトの次の記事である。
「四畳半襖の下張裁判」
「証人五木寛之」
 これを全文転載させていただこう。

 1973(昭和48)年2月21日、月刊誌「面白半分7月号」に掲載された伝永井荷風『四畳半襖の下張』が「わいせつ文書」にあたるとして刑法第175条により株式会社面白半分代表取締役・佐藤嘉尚と編集責任者・野坂昭如の両名が起訴された。この一大事をうけ同年3月下旬、丸谷才一(特別弁護人)ら作家も加わっての大弁護団が結成された。通称「四畳半襖の下張裁判」の幕あけである。

 『四畳半襖の下張』とは、江戸時代の春本戯作の伝統に根ざして閨房の一部始終がえがかれた短編小説で、その草稿は永井荷風によって大正13年ごろ完成されたとみられる。じつはこの書、昭和23年ごろに一度わいせつの文書として摘発されていたのだが、その文学的な価値を鑑み、先の両名が「面白半分」への掲載にふみきった。それがまたもや摘発されたのであった。

「この裁判それ自体がすこぶる滑稽なもの」と予測したのは丸谷才一であった。裁判であるということ、宣誓しているということが、作家の生の言葉を引き出すまたとない機会となり、摘発された文書が永井荷風による正統の春本であることとあいまって、証言台にたつ作家による滑稽かつ高度な一大文学論が繰り広げらる文芸裁判となったのである。

 裁判の冒頭、被告人野坂昭如の「起訴状に対する意見」がふるっていた。

 はじめから飄々とした野坂のスロットルは全開。この第一声により、以降、証言台に立つ作家たちによる答弁の基礎ができあがった。ちなみに、この野坂の要求は「裁判官も聞くのだから」との理由によりあっけなく拒否されたようである。

 丸谷特別弁護人による「起訴状に対する意見」はこうはじまった。

 わたしのこの弁論は滑稽なものになるでせう。これはやむを得ない。この裁判それ自体がすこぶる滑稽なものだからであります。

 検察官は現代日本の常識に逆らつて、おそらくはただ前例に盲従する習慣のせゐで、起訴すべからざるものを、起訴すべからざる事由によつて起訴しました。法によつて生きる者が、法の根幹であり前提である常識を無視する。これはまことに勇気にみちた行為でありますが、しかし、だからと言つて褒めるわけにはゆきません。それは愚者の勇気であり、暴虎馮河(ぼうこひょうが)の勇にすぎないからであります・・・

 丸谷はこの後、『ボヴァリー夫人』『悪の華』『ユリシーズ』『チャタレー婦人の恋人』、さらには日本の文学の伝統へと論をすすめる。それは、文学では素人であろう検察官や裁判官を一足飛び越え、社会に話しかけるという姿勢をとる、まさに圧巻たる陳述となったのである。

 そして、いよいよ作家による証言がはじまる。第一の証人は五木寛之であった。

『 宣誓 良心に従って、眞実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います。  証人 五木寛之(細く跳ねあがり伸びのある肉筆)』

 当時の新聞・雑誌各社の報道によれば、この日の五木寛之の服装は次のようなものであった。(『面白半分』昭和49年8月臨時増刊号より抜粋)

「白黒のチェックの上着、濃紺のネクタイというダンディーな姿」(サンケイ新聞)
「白地にこまかい黒のチェックの背広、白いシャツ、黒のネクタイというしぶいスタイル」(東京新聞)
「久々にネクタイを締め、真っ白いワイシャツを新調し」(スポーツニッポン)
「チェックのブレザーコートとラフなスタイル」(読売新聞)
「一年ぶりに着たというワイシャツ、ネクタイのキチッとした服装」(平凡パンチ)
「白と黒の千鳥格子の背広」(週刊朝日)

 よほど印象的であったのだろう。いまでもダンディーな五木寛之ではある。

 裁判における五木の証言は長い。が、その内容は興味深いものであった。弁護人・中村巌による型通りの質問が済むと、やおら五木流文学論が披露される。

弁護人
「・・・これはちょっとむずかしい質問かもしれませんが、概括的に言って、どういうテーマを追求されて、小説をお書きになっておるんですか」
五木
「非常にこれはむずかしい質問なんで、簡単にお答えしにくいんですが、いわゆる小説をですね、・・・何と言いますか、自分だけの仕事として書いておるという感じじゃなくて、小説を書く人間というのは、一種の、たとえば、恐山に、巫女という、いたこという霊媒のような人がおりますけれども、個人の、つまり、生産をするそういう職業じゃなくて、広く、集団あるいは共同体のそういう願望とか、意思とは欲望とか、そういった社会全体の、つまり、そういうものを、その個性に反映せしめてそれを、つまり一種の霊媒のように反映せしめる仮の役というふうに作家という職業を考えておるわけです・・・」

 五木寛之は、丸谷才一による「題材の面で、どういう種類の新しさ、新奇さというものを示してきたとお考えか」との問いに対して次のように答えている。

五木
「たとえば話がちょっと脇にそれますが、私の小説は何度か映画になったりテレビ化されたりしたことがありますけれども、全部作品的にも興行的にも失敗しているんです。それはぼくは当然だというふうに思っているんですが、なぜかというと、映画とかテレビとかお芝居とかそういう形で表現できない世界を、そこだけねらって小説を書いて見せようというふうに実は思って書いてきたんです」

 この後、野坂の質問が加わり、証言はもっぱら「わいせつ」という言葉の周囲を延々と旋回してゆくのであった。

 第6回公判のあと、日比谷公園内で開かれた記者会見での五木の感想。

五木
「裁判に出席するのは初めてで、手足がブルブル震えるのではないかと思ったが、意外と平気だった。大変明るいふん囲気の中で行なわれているという印象を強く受けた。しかし、そういったウラで奇怪なドラマが演じられていると思った。とくに、検察官の物わかりのいい顔を見ていると、権力者が "正義は我にある" "被告人を遊ばせてやっている" という感じがし、ウスラ寒い気持ちになった」(東京タイムズ)

 裁判は最高裁まで上告される。その最高裁の有罪判決文は『「四畳半襖の下張事件」最高裁判決』で読める。この最高裁判決について、「さあ、最高裁判決解釈に挑戦してみよう」さんの論評が面白い。これも全文転載させていただく。

 難しい話はこの辺にしておいて、ここからは思いっきり笑える(下ネタ系)裁判ネタで頭をリフレッシュしよう。「恐怖を過ぎると笑いになる」というが、「難しいも度を超えると笑いになる」のだ。国家権力と日本の英知の粋が下した臨界点を味わって欲しい。ここでは、(株)有斐閣刊「憲法判例百選1」より引用・抜粋する。
「四畳半襖の下張」事件

<事実の概要>(抜粋)
 被告人X、Yは永井荷風(←有名な作家)作といわれる、懐古文体で男女の情交を描写した戯作「四畳半襖の下張」を雑誌「面白半分」(←本当にこういう雑誌があった)に掲載したことを理由に、刑法175条のわいせつ文書販売罪に問われた。
 第一審判決は「チャタレー婦人の恋人」事件最高裁判決で示された「性行為非公然性」の原則に基づき、右原則を侵す性的文書の規制が憲法21条に適合すると判示し、さらに刑法175条にいう「わいせつ」の意義、文書のわいせつ性の判断方法についても従来の最高裁の見解を踏襲して、当該文書のわいせつ性を認めた。・・・・

<判旨>
 わいせつ文書の出版を刑法175条で処罰しても憲法21条に違反しないことは「チャタレー」事件、「悪徳の栄え」事件最高裁判決の趣旨に徴し明らかである。
 刑法175条の構成要件は不明確であるということはできないから憲法31条違反にはあたらない。
 なお、文書のわいせつ性の判断にあたっては・・・・・・これ以上は、最高裁判決文自体が非常に猥褻な表現に満ちあふれているので自主規制とする(爆)。

 ここからは掲載されている<解説>を紹介していくが、あまりに長いので味のある部分を抜粋する。そのため、前後関係がよく分からない部分もあるが、勢いで読んで欲しい。
 ・・・・・しかし、本件では端的な春本類またはそれに近接する文書の判断基準の設定、裁判官の判断に委ねられていた「超社会的社会通念」(←なんですか、これは)から社会の現実体に基礎をおく「現実的社会通念」への転換、それにともなう「超社会的社会通念」の中核をなす「性行為非公然性」の原則の解体などの諸点をふまえ、「わいせつ」概念を再構成する課題が手つかずのまま残された。・・・

(市川注) 要するに、海外のエロサイトにアクセスすればモロ画像を簡単に見ることができるため、日本でいくら規制をかけても「性行為非公然性」が現実として保てなくなったということである。

 こうした課題へのひとつの対応策を示すものとして、ビニール本事件の伊藤補足意見がある。右意見は、文書・図画のわいせつ性を判断するにあたり、ハード・コア・ポルノと準ハード・コア・ポルノの区別が有益であるとする。ハード・コア・ポルノは社会的に無価値であるから憲法上の保証の範囲外であるのに対し、準ハード・コア・ポルノはある程度社会的価値をもつものもあり、それには憲法上の保護が及ぶ、という。そして準ハード・コア・ポルノがわいせつ物にあわるか否かは「社会通念に照らして、ハード・コア・ポルノに準ずるいやらしさをもつ」か否かによって決定され、そこでの判断基準は「当該性表現によってもたらされる害悪の程度と右作品の有する社会的価値との利益較量」に求められる。なお右衡量にあたっては、作品が政治的学問的な意思芸術的価値を有する場合は特に慎重な衡量が必要であり、又、社会通念は社会変化に合わせて柔軟に解すべきであると、「性行為非公然性」の原則を却ける見解が示されている。・・・

 何らかの線引きを行わなければならない仕事のため、無理矢理こじつけようとしている点とその理屈に味がある。猥褻か猥褻でないかは憲法で保証されている表現の自由に関わる問題であるため、必ず最高裁まで持ち込まれる。そのためこの手の裁判が非常に多い。難しい司法試験をクリアしさらにその頂点に立つ最高裁の人々が、実は毎日のようにエロ本を読みあさって屁理屈をこねていると思うと、人生って面白いなあ。

 裁判官の頭脳が取り込まれている言語空間と私たち一般人(作家たちも含む)が生きる言語共同体とはまったく乖離していて、共通部分を見いだすことがはなはだ難しいことがよく分かる。
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