2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(13)

裁判は階級的である(5)

東大ポポロ事件


 新宿騒乱事件に関連して、羽仁さんはもう一つ重要な指摘をしている。騒乱罪なんていう犯罪はないと言うのだ。もしそうなら、新宿騒乱事件というのは、まずこの点で犯罪として成り立たない。

 それに、ぼくにいわせると、第一に大衆的な犯罪なんてものは存在しない。破防法の場合もそうなんだが、団体を規制する法律なんてナンセンスもはなはだしいんだよ。団体が犯罪を犯すなんてことはありえないんだからね。近代法が確立した原則に、犯罪能力というものは個人的なものだというのがある。つまり、罪を犯すってことは個人でなければできないんですよ。いいですか。そのひとつの例としてあげることができるのは、国際軍事法廷の裁判だ。あの戦争は日本国民全体がやったんだよ。だけれども犯罪能力は個人にあるというんで、東条以下の個人が責任を問われたわけだ。いくら侵略戦争だ、負けた、といっても、日本国民の犯罪責任は問題にされないんだ。法律というのはそういうものなんだよ。原則として決められているんだ。

 団体に犯罪能力がなく、あくまでも犯罪能力は個人のものだというと、ピンとこない人がいるかも知れないが、悪徳商社だって、商社が悪いんじゃなくて、それを経営している人間、そこで働いている人間が、その個人個人が悪いから、悪徳商社なんだ。そこの人間が独占資本と結びついたり、買い占め、売り惜しみをやっているんだよ。

 わかりやすくいえば立小便だ。これは軽犯罪法による犯罪なんだよ。だけど、団体が小便できるだろうか。いくら並んでやったとしても、小便しているのは個人個人でしょう。団体としてはできやしない。立小便もできないものが、どうして罪を犯すことなんてできますか。

 騒乱罪にしたってそうなんだ。これは個人の犯罪じゃないんだ。それを検察庁は問題にしている。石を投げたじゃないか、というかも知らんが、ひとりで投げたわけじゃない。大勢が投げる過程の中で投げているんだ。無理に個人に還元しようとするからだめなんだよ。一歩譲って石を投げた人がいたとしよう。しかし、その人は騒乱罪ではないんだ。石投げの罪というのかあるかどうかは知らんが、その人の犯罪は石を投げたことであって、絶対に騒乱の罪ではない。新宿で石を投げたというのは民の声なんだ。民の声とまでいかなくとも、犯罪とは違う性質のものなんだ。

 日本では当り前のことになっているが、アメリカやヨーロッパでは、機動隊に弾圧されることはあっても、学生が犯人として逮捕されて、しかも有罪になって刑務所に入れられるなんてことは、学生運動の場合ありえないことなんだ。

 例をあげると、西ドイツにヘッセンというところがある。西ドイツでは各州が自治をやっているから、へッセンの事件はヘッセンの裁判所が裁く。さきのパリ五月革命の指導者はコーツベンディトという学生だが、彼がこのへッセン州生まれだった。帰国してフランクフルトで激しいデモをやり、警官に捕まった。へッセンの最高裁は、この学生をあっさり無罪にした。学生は大学の改革を要求しているのであって、犯罪じゃないという見解からだ。へッセン最高裁の長官に会ったとき「ヘッセン州に関する限り、学生が運動によって逮捕され、裁判を受けた例は、コーンペンディトを除いてひとつもない」と断言している。そのコーンペンディトだってたちまち無罪だ。だらだら何年も捕えておくなんてことはしない。

 社会の変革を要求したり、大学を改革しようとするのは、犯罪じゃないんだ。デモもまた然りだ。それを途中から警察官が規制しようとするから衝突が起きる。公務執行妨害とか、道路交通法違反とか、暴力行為とかは、二次的に起きたもので、いわば誘発させられたものなんだ。したがって、警察権力の行使に問題あるとするならともかく、それらを理由に反対意見を鎮圧しようとすることは誰にもできない。現在の日本の警察がやってることは、実に政治的なんだよ。

 公務執行妨害・道路交通法違反・暴力行為などを誘発させて犯罪をでっち上げる弾圧方法は、特に市民運動や学生運動などに対する警察の常套手段となっている。

 「裁判は階級的である(2)」 で、羽仁さんが参議院法務委員会で東大ポポロ事件を取り上げたことを紹介したが、羽仁さんは「日本の警察がやってることは、実に政治的」である例としてこのポポロ事件に言及している。まず、ポポロ事件とはどういう事件だったのか。

 1952年2月20日、東大ポポロ劇団が東京大学本郷キャンパスで松川事件をテーマとした演劇の上演を行なった。上演中に、観客の中に本富士警察署の私服警官4名がいるのを学生が発見し、3名の身柄を拘束して警察手帳を奪い、謝罪文を書かせた。その際に学生らが暴行を加えたとして、2人が暴力行為等処罰ニ関スル法律により起訴された。

この事件についての羽仁さんの見解は次のようである。

 最近の日本の裁判を見て感じることは世界の趨勢と完全に逆行していることだ。非常に残念なことだが、これは事実だろう。だいたい日本の警察官や自衛隊員は組合を作ることができない。公務員の自由がまったく無視されていることに、平然としていられるくらいだから裁判だって、どうしても偏向してしまうのかも知れない。

 スウェーデンの刑務所に入っている人たちは、ちゃんと組合を作っている。そういう権利を国家が認めているんだ。だから用務行政に文句があれば、自由にそれを訴えることもできるし、新聞社へ電話をかける自由すら与えられている。制限されるということがほとんどない。

 罪もない人を捕えたということは、あとで批難されるから、なにがなんでも有罪にするというのは、完全に間違っているんだよ。でっちあげこそ大きな犯罪なんだ。だから、裁判官が正しく判断できるように働けば、検察側の任務は充分なんだから、判断を誤るような証拠を提出してまで、人に罪を着せる必要なんてないんだ。  ことに、裁かれる側が無罪になると、検察側が控訴したりする。これくらいおかしなことも他にないだろう。現にポポロ事件では、一審二審共に学生は無罪になっている。それなのに、検察側は執拗に控訴している。この事件の争点のひとつは、学生が警官の警察手帳を取り上げたという点にあるんだが、いかにも犯罪のように見えるこの行為も、なぜそんなことをしたかという理由を調べてみればたちまちわかる。大学の中にのべつ警察官が入り込んでウロウロしている。断りなしに警官が侵入するようでは、学問の自由も、大学の自治もあったものではない。したがって違法に学内に立ち入った警官の行為を立証するために、学生が警察手帳を預かったとしても何の不思議もないことなんだ。権利や自由が不当に犯されている場合は、これを黙認すれば、自ら権利や自由を投げすててしまうことになる。第一審では「不当に犯されているときには、これに抵抗することが、憲法上の義務である」とされ、無罪だったんだ。検察側に控訴する権利があるというのは、どうにもうなずけない。

 だいたい、政府を相手にした裁判で、もし五分五分の立場だったら、一般の人は勝てない。ところが七分三分とか、明らかに国家のいい分が成り立たない場合は、裁判所もそれほど無茶な判決は下さない。だから、国民が勝った場合、つまり無罪という場合は、五分五分でない裁判に勝ったわけだから、検察側がそれを控訴するというのは、やはり行き過ぎではないかと思う。

 この裁判では一審・二審ともに無罪だったが検察が最高裁に上告。最高裁は、例によって論理破綻の屁理屈のような判決を下し、原審を破棄。再審理で被告人たちは有罪となった。そのときの最高裁の判決の要旨は次のようである。

1
 大学の学問の自由と自治は、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味する。

2
 大学における学生の集会も、大学の公認した学内団体であるとか、大学の許可した学内集会であるとかいうことのみによって、特別な自由と自治を享有するものではなく、学生の集会が真に学問的な研究またはその結果の発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動に当る行為をする場合には、大学の有する特別の学問の自由と自治は享有しないといわなければならない。

3
 大学の許可を受け、大学構内で松川事件に関する演劇を開き、一般の公衆が自由に入場券を買って入場ができるような状態にあった本件集会に、警察官が立ち入ったとしても、大学の学問の自由と自治を享有しない集会であるから、何ら違法ではない。

これをもっともな正しい判決だと納得できる人は、どのくらいいるだろうか。私は典型的な政治的判決以外のなにものでもないと思う。
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