2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(10)

裁判は階級的である(2)

1947年~1956年の履歴


 羽仁さんは第一回の参議院議員選挙に出馬し、当選して参議院議員を務めている。その期間中の羽仁さんの履歴を、議員活動を中心にたどってみた。

 「《『羽仁五郎の大予言』を読む》(1):羽仁五郎とは何者か」で戦前の履歴を紹介しているが、戦前戦後を通して、被支配階級への優しいまなざしと支配階級への厳しい批判の姿勢を変わることなく貫き通していることが分かる。また、多くの論文・著作(履歴では割愛した)を書きながらの、その広範な活動には驚嘆する。

1947年(46歳)
 4月20日に行なわれた第一回参議院議員選挙に全国区無所属で立候補し、11,4322票 を得て第58位で当選する。院内交渉団体として「無所属クラブ」を組織、文化委員会、文教委員会に所属、また参議院国会図書館運営常任委員長に選出され、国会図書館の創設に当たる。
 5月、朝日新聞社主催で行なわれていた全国大学、高等専門学校学生の討論会「朝日討論会」の審査員として同社の討論会報告『討論―理論と実際』に「討論とは何ぞや」を寄稿。
 7月、片山内閣の一般政治方針に対し、参議院無所属クラブを代表して代表質問を行なう。
 11月、日本の地下政府について参議院で緊急質問を行なう。

1948年(47歳)
 2月、国立国会図書館法案が国会で満場一致で可決される。法案に付された前文の中に羽仁五郎が加えた「真理がわれらを自由にする」という句は、のちに国会図書館の正面の壁に刻まれた。国立国会図書館の館長に哲学者中井正一を推選したが、金森徳次郎館長、中井正一副館長と決定される。
 5月、参議院文教委員会で教育勅語廃止を要求して発言、討論する。
 6月、4月の東宝争議支援を目的として日本文化をまもる会が労働組合、文化団体、社会党、共産党、文化人らで結成され実行委員長を引き受ける。福沢諭吉の伝記映画の企画が機縁で東宝の砧撮影所では1年ほど「裸体芸術論」などの講義をしていた関係があり、争議団の応援に講演に行く。
 7月、民主主義擁護同盟の創立に参加、幹事として活動する。7日から11日の第三臨時国会で提出された国家公務員から争議権、団体交渉権を奪う国家公務員法改訂法案に参議院人事委員として反対討論を行ない、会期切れ直前まで演説したが可決される。
 12月、第一回の日本学術会議会員の選挙で会員に選ばれる。

1949年(48歳)
 羽仁五郎の論文を含む『改造』新年号が占領軍の検閲により発売禁止処分を受ける。
 1月、日本学術会議に学者の戦争責任についての態度表明を要求、起草委員には参加できなかったが、1月の第一回総会で戦中の「反省」と思想・学問の自由確保の決意を盛りこんだ声明が発表される。
 4月、学術会議での努力が実り常置委員会として「学問思想の自由の保障の委貝会」が設置されたので第一部選出の委員として参加、さらに互選の結果委員長に選出される。
 5月、行政機関定員法案とそれに基く行政整理案に参議院人事委員会で反対し、本会議でも反対討論に立つ。
 11月、基本的人権と講和問題について参議院本会議で緊急質問を行なう。
 12月、日本太平洋問題調査会が国際太平洋問題調査会日本支部として復帰を承認され、ひきつづき常任理事に留まる。

1950年(49歳)
 1月、第七回国会での政府の講和方針を含む一般政治方針に対し参議院本会議で代表質問、国民はすべてを知る権利があることを強く訴える。同月、平和問題談話会の「講和問題についての声明」に参加。
 4月、選挙の自由を制限する公職選挙法案に対し、参議院で修正案を提出したが少数で敗れる。
 6月4日の第二回参議院選挙に再び全国区無所属で立候補し第36位で当選、6年議員となる。
 11月、サンフランシスコ平和条約および日米安全保障条約に反対して参議院の外務、法務連合委員会や本会議で討論を行なう。

1951年(50歳)
 4月、サンフランシスコ講和会議を前に、ソ連、中国などを敵視する平和条約や実質上の軍事同盟である日米安保条約を批判し反対運動に尽力、『世界十月号』の「単独講和と野党の主張」で発言する。

1952年(51歳)
 1月、第十二回国会演説の草稿を「議会より」と題して雑誌『世界』に寄稿。  3月、東大ポポロ事件をとりあげた参議院法務委員会の中心となって警察権力の乱用の不当と大学における学問の自由の重要性を世論に訴える努力をする。
 4月、参議院本会議で破壊活動防止法案に対する質疑を行なう。
 5月、参議院法務委員会で破防法案に対する総括質疑、さらに6月、逐条審議の中で質疑を行ない、6月19日法務委員会の破防法案採決に当たっての討論で賛成派を動揺させ予想を逆転否決に成功する。
 7月の本会議でも質疑および最終の反対討論を引き受けて奮闘したが、採決では敗れ破防法は通過成立した。
 12月、羽田発空路パリ、ブリュッセル経由でオーストリアのウィーンに入り、諸国民の平和のための大会に、パブロ・ピカソ、郭沫若、ジョリオ・キュリー、ショスタコヴィチらに混って参加、大会議長団の一人として活動する。大会終了後チェコスロヴァキアのプラアグに入る。

1953年(52歳)
 1月16日、プラアグ発、ベルリン、フランクフルト、ボン、マアルブルク、ハイデルベルク、コペンハーゲン、ロンドン、パリ、ジュネーヴ、ベルリン、ルツェルン、ローマ、ナポリ、チュリヒと廻り、再びプラアグに入り、3月16日ウィーンに戻る。この間各地で国立国会図書館建設のため図書館を視察したほか、30年前学生生活を送ったハイデルベルクを訪れ、またナポリではクロオチェの遺族を弔問。またロベルト・ロッセリーニやピカソを訪ねる。  3月16日、ジョリオ・キュリー、イリヤ・エレンブルク、ピエトロ・ネンニ、茅盾、モニカ・フェルトンらとウィーン平和大会の「破滅的戦争の危険となるおそれのあるすべての国際紛争の平和的解決の方向を発見するための五大国平和会談」を要請する決議の実行委員会に出席、討論の中で日本の困難な状況を説明する。
 4月9日、日本の問題とチェコの印象についてプラアグ中央放送局からドイツ語で放送する。4月から5月にかけて、ソ連平和委員会の招きでソ連に入り、モスクワ、レニングラードなどを訪問中、5月17日、盲腸炎で入院、手術を受け健康を取り戻して、6月、ハンガリーのブダペストで開かれた世界平和理事会に出席、理事に選出され、7月にはウィーンで開かれた世界教員大会に出席し、羽仁説子を助ける。
 7月25日、羽仁説子らとオーストリア国営ラジオ放送に出演した後、チューリヒ、ローマ、フィレンツェを廻り、8月9日ローマを出発し帰国。
 帰国後、日本学術会議会員に再選される。

1954年(53歳)~1955年(54歳)
(論文・著作物の記録だけなので略す)

1956年(55歳)
 4月6日、超党派議員38名の一人として死刑廃止のための「刑法等一部改正案」を提出する。『世界』三月号・四月号に[死刑廃止論]を連載、またラジオ放送などでも世論に訴え、運動の理論的支柱となる。
 6月、参議院議員選挙に三度全国区無所属で立候補したが、このころから、大組織中心の票のいわゆる組織化が進んで無所属の知識人に不利となり、前回より約二万五千票多い二十二万票を得たにもかかわらず、第62位で落選する。
 胃潰瘍のため、静養する。

 1947年11月の項に「日本の地下政府」という言葉が出ている。聞いた記憶があるのだが、詳しいことは思い出せない。改めて調べてみた。「旧軍幹部の「新日本軍」構想」を利用させていただく。

 羽仁さんが1947年に取り上げているが、その頃は機密事項だったようだ。たぶん政府はそのような組織の存在は全くないと、ノラリクラリと答弁したのであろう。

 事の真相は機密解除された米公文書により明らかになった。2006年のことである。2006年8月28日付の東京新聞が次のように伝えている。

『新日本軍』計画 幻に

【ワシントン=共同】
 旧日本軍幹部が太平洋戦争後の1950年前後、「新日本軍」に相当する軍組織の設立を独自に計画していたことが20日、機密指定を解除された米公文書で判明した。構想は連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下で進み、河辺虎四郎元陸軍中将(故人、以下同)らが立案。最高司令官には宇垣一成元大将(元陸相)を想定しており、当時の吉田茂首相にも提案していた。

 戦後史に詳しい複数の専門家によると、服部卓四郎元陸軍大佐ら佐官クラスの再軍備構想は知られているが、河辺氏ら将官級による新軍構想は分かっていなかった。毒ガス隊など三部隊の編成を目指した河辺氏らの構想は最終的に却下され「幻の計画」に終わった。

 文書は、GHQや中央情報局(CIA)の記録を保管する米国立公文書館で見つかった。

 河辺氏の経歴や活動を伝える秘密メモによると、河辺氏は警察予備隊発足前の50年2月ごろ
(1)毒ガス隊
(2)機関銃隊
(3)戦車隊
からなる近代装備の「警察軍」構想を立案。

 51年に入ると宇垣氏を「最高司令官」に、河辺氏を「参謀総長」に充てることを「日本の地下政府が決定した」と記載している。

 「地下政府」は、公職追放された旧軍幹部らが日米両当局にさまざまな影響力を行使するためにつくったグループを指すとみられる。

 しかし河辺氏らの構想は採用されず、GHQのマッカーサー最高司令官は朝鮮戦争発生直後の50年7月に陸上自衛隊の前身である警察予備隊の創設を指示。再軍備を通じた旧軍将官の復権は実現しなかった。

 敗戦直後から、アメリカ占領軍の犬として、大日本帝国のゾンビたちがうごめき始めていたのだ。日本は未だにアメリカの属国である。いまアメリカはオスプレイの厚木や横田への常駐を目論んでいるが、日本全土をアメリカの基地だと考えているようだ。

 1951年、吉田内閣の時に締結された(旧)日米安保条約でのアメリカが目論んだ最重要事項は「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」(ダレス)だった。1960年に岸内閣よって改定された日米安保条約も米国の一方的な基地占有を固定化したものでしかない。アメリカの「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」が今も生きているのだ。

<追記>
 東京新聞の記事中に
「服部卓四郎元陸軍大佐ら佐官クラスの再軍備構想は知られている」
とあるが、これについては「再軍備はどのうよに行われてきたのか」の中の二番目の記事「警察予備隊の実体」で取り上げていた。
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