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355 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(8)
「古事記」対「日本書紀」
2005年8月8日(月)


 「記・紀」による古代史解読の論考に立ち入る前にもう一つ明らかにしておきたいこと がある。
 「一つの史料をあつかう場合、そこに〝なにが書かれているか?″を論ずる前 に、その史料の成り立ちと素性、つまり「史料性格」を吟味しなければならぬ。 それをやらずに、内容だけ論ずるのでは駄目だ。」
 これは前回引用した文中の一説だ。「記・紀」についても、その「史料性格」を 知っておく必要があるだろう。

 古事記については「序文偽作説」とか「本文偽作説」とか研究史上(江戸時代から) 絶えることがないという。
 偽書説の主論拠は次の二点だ。

(一)

 『続日本紀』の和銅五年項に、『古事記』撰進の記事がない。他の項にも、一切出 現しない。
(二)

 『古事記』の写本は、奈良・平安・鎌倉期とも一切なく、南北朝期(14世紀)になって  やっと出現した(真福寺本)。

 この二点について、古田さんは次のように述べている。

 〝『古事記』ほどの本が本当に和銅5年に作られ、元明天皇に献上されたとしたら、 『続日本紀』にそれが全く記載されないのは不可解だ″ ― これがあらゆる古事記 偽書説の〝不滅の源泉″だった。たしかにもっともな疑いだ。そして従来のいかなる 偽書否定論も、この問いに対する明快な解答を用意しえなかったのである。
 けれども、今までの論証の立場に立つとき、これに対する答えは決して難解ではな い。その第一のポイントは、「削偽定実」という共通の「天武命題」に立ちながら、 これに対する具体的な実行方法は、『記・紀』両者全く相反している、という点だ。 『古事記』はその大体において、天皇家内伝承に依拠してそれを記録化した。しかし、 『書紀』はこれに満足しなかった。九州王朝の史書たる「日本旧記」、九州王朝と百 済側との交渉史たる百済系三史料(「百済記」「百済新撰」「百済本記」) ― こ れらを続々と〝切り取って″きて近畿天皇家そのものの歴史として編入し、新たに構 成した。 - 端的にいって実在の歴史ならぬ、仮構の歴史の「新作」の史書だった のである。

 その〝切り取って″編入した説話や史実を解読していく見事な論考の数々を次回から 読んでいく予定だ。ここで古田さんがあげている例は「景行の九州大遠征」。これは、 『書紀』においては完全な〝史実″として記載されているが、『古事記』には全くない。 つまり『古事記』においては〝史実″ではないということなのだ。
 現代の学者たちなら、〝どうせ作り話だから……″とか、〝それぞれ、そのような異 伝があったのだろう″として、さして抵抗感もなく、物わかりよくこれに対応できるか もしれぬ。
 しかし、『書紀』は決して〝歴史理解の一説″として書かれているのではない。〝これ が真の歴史である″という、近畿天皇家の「正史」として、書かれたのである。つまり、 近畿天皇家にとって〝以後、これが史実であり、これ以外は史実ではない″として、決定 されたもの、いわば検定ずみの書、国定版の「公認の歴史」なのである。
 これに対して『古事記』はどうだろう。そのような歴史の大がかりな〝虚構操作〟と 〝新編成〟には与せず、内面から近畿天皇家の正統性を語る ― そこにとどまっている。 つまり、和銅5年(712)から養老4年(720)に至る元明・元正の間において、少なくとも 二派の立場が存在したのだ。権力による積極的、全面的な歴史変造を実行しょうとする一 派と、そこまでは踏み切れない一派と。
 そして「帝王本紀」の業績を承けた前者の立場が「正史」としての権限をにぎったので ある。 ― これが『書紀』だ。

 検定不合格の『古事記』の運命はどうなるか。
「正史」なる『書紀』の内容が事実である限り、それに反する『古事記』の内容は事 実ではない。つまり、権力の手で検定された、公認の「正史」が『書紀』なら、これ に反する『古事記』は「偽史」なのだ。一言にしていえば、この両書は〝倶に天を戴 くことのできぬ″関係にあったのである。とすれば、同じく「正史」たる『続日本紀』 に、どうして両者の成立を並載できようか。
 一般に、『続日本紀』は記録性が高い、といわれる。それは事実だ。しかし、それは 〝そこに書いてあることは事実だ″というにとどまる。決して〝権力検定の手がこの 「正史」には、とおっていない″という意味はもたぬ。それは当然だ。だから、「九州 王朝の歴史統合(盗用)」の道が権力の方針として決定されたあと、「正史」として正 面に出ることを拒否された『古事記』、それは書かれなかった ― それだけなのだ。 〝書かれている″としたら、その方がよっぽど〝奇妙″なのである。

 この「記・紀」の「史料性格」についての論考にも、私は全面的に賛意を表すほかない。 そうすると、生き残っていた真福寺本が姿をあらわすまでの約600年間、 「古事記」が存在しなかったことも何ら「謎」ではなくなる。
 近畿天皇家は『古事記』を「公認」せず、流布させなかった。奈良・平安期に朝廷で盛ん に行なわれたのは、『書紀』の講読であって、『古事記』の講義など一切なかったのであ る。
 だから、『古事記』が南北朝期になって〝突如として″出現したのは、近畿天皇家内の 公的なルートではなく、一種〝秘密のルート″、つまり、私的なルートから〝流れ出た″ ものと見られる。おそらく、太安万侶自身の家の系列にながらく「秘蔵」されており、そ の線から、長き時間の暗闇を経過して、やっと「浮上」した写本。それが真福寺本なのでは あるまいか。もちろん、その伝来の詳細は一切不明であるけれども、『古事記』出現の仕方 が『書紀』の公然たる流布と全く異なるというこの事実は、『記・紀』の性格のちがいと、 そのためにたどった両書の運命の隔絶を知りえた今、あえて不審とするにはあたらないので はないだろうか。
 今、『記・紀』と並称される、この二書の間には、権力によって公認されたものと、され ないものと、その差別がハッキリと横たわっていたのである。
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