2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
ミニ経済学史(41)

現在の経済学は?(19):欠けている視点(5)


吉本隆明の「歴史的産業構造の転換」論(3)

 吉本さんは、
「『成熟化社会の経済倫理』の結びのところで佐和隆光は言わずもがなのお説教を国民大衆に向ってたれている」
と言う。その「お説教」とは次のようである。

(1)
 21世紀の発展途上諸国の人口爆発と彼らの「発展権」を前提とするかぎり、大量生産、大量消費、大量廃棄ないし使い捨てを旨とする、20世紀型文明の見直しがせまられている。
(2)
 いまわたしたちは、こうした「ぜいたく」の粋をきわめた80年代後半の生きざまを反省し、もったいない、質素倹約、省エネルギーなど、数年前に「死語」と化した言葉を、あらためて想起しなければならない。
(3)
 地球環境を保全することが、飢えと貧困にさいなまれ「発展権」を主張する南の国ぐにと、エネルギー多消費型経済発展をとげてきた北の国ぐにの双方の利益につながることを、双方が確認し、協調体制をつくるべきだ。

 この「お説教」に対して、吉本さんは二点の批判をしている。第一点は次のようである。

 佐和隆光が繰り返しているこの種の経済倫理の結論は、いくら並べてみてもおなじことだ。ようするにわたしの根本的な批判はスターリン主義者の清貧主義やエコロジストの文明退化主義にたいする批判とおなじだ。第一にわたしは佐和隆光とちがって、経済現象と文明とは、その中核のところで自然現象とおなじように、自然史的な過程であって、人工的な政策で統御できるのは、発展の遅速だけだということをマルクスから学んだ。この文明と経済の発展過程は停止させることも、逆戻りさせることも、跳躍させることもできないということだ。佐和隆光のいうことは経済政策や環境政策によって、人類の歴史を逆行させることすらできるという馬鹿げた錯誤と、そこから出てくる口当りのよい地球環境浄化論にしかなっていない。

 強調(赤字)部分の言説について、少し学習し直すことにしよう。

 経済現象を自然史的な過程と見なすマルクスの理論はマルクス思想の全体を貫く知見であるが、吉本さん(『マルクス 読みかえの方法』)によると、経済現象に関してはマルクスが直接言及している文章が『資本論』の序文の中にあると言う。少し長くなるがその前後の文も含めて、その該当文を引用しよう(向坂逸郎訳岩波文庫版『資本論』を利用)。


 18世紀のアメリカ独立戦争がヨーロッパの中産階級にたいして警鐘を打ったように、19世紀のアメリカの内乱は、ヨーロッパの労働者階級に対して警鐘を打ちならしている。イギリスでは、変革過程は手で掴むばかりに具体的になっている。それは、一定の高さに達すると、大陸に衝撃となって帰ってくるに相違ない。この変革過程は、大陸では、労働者階級自身の発達の程度にしたがって、より残虐な形態をとって動くこともあれば、より和やかな形態で動くこともあるだろう。だから、より高級な動機は別としても、現在支配的地位にある階級にたいして、彼ら自身の利益が命じていることは、労働者階級の発展をはばんでいる一切の法的に撤去できる障害を除去することである。そのために、私は、とくにイギリスの工場立法の歴史と内容と結果にたいして、この巻の中でできるだけ詳細な叙述を挿入しておいた。一国民は他の国民から学ぶべきものであるし、また学びうるものである。一社会がその運動の自然法則を究知しえたとしても ― そして近代社会の経済的運動法則を闡明(せんめい)することがこの著作の最後の究極目的である ―、この社会は、自然の発達段階を飛び越えることもできなければ、これを法令で取除くこともできない。しかしながら、社会はその生みの苦しみを短くし、緩和することはできる。

 起こりうる誤解を避けるために一言しておく。私は、資本家や土地所有者の姿を決してバラ色の光で描いていない。しかしながら、ここでは、個人は、経済的範疇の人格化であり、一定の階級関係と階級利害の担い手であるかぎりにおいてのみ、問題となるのである。私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするのではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである。

 経済学の領域においては、自由なる科学的研究は、他のすべての領誠におけると同様の敵に遭遇するだけではない。経済学の取扱う素材の特有の性質は、もっとも激しいもっとも狭量なそしてもっとも憎悪にみちた人間胸奥の激情である、私利という復讐の女神を挑発する。例えば、(以下略)

 この経済現象を自然史的な過程と見なすマルクスの理論を吉本さんは吉本理論の立場から次のように注釈している(この節の文章は聞き手である高橋順一さんとの対話形式になっている)。

今、産業主義とおっしやったでしょう。そのことについては、ぼくはこうだとおもうんです。マルクスは『資本論』の序文で、じぶんは経済社会の展開をここで〈自然史〉として扱っているんだといってますね。ここでマルクスが〈自然史〉的に扱っているんだといっていることは、マルクスの思想にとっては全体ではないというふうにぼくは理解するわけです。

 ぼくのいまの問題意識でいきますと、マルクスのいうように、あるいは『資本論』の序文でいうように、人類の歴史というものを〈自然史〉的に扱える部分と、それからこれはぼくのことばでいえば〈幻想〉ということになるのですが、制度とか政治とか文化とか、〈自然史〉的な、つまり下部構造というものとまったくかかわりなく扱える部分と、それから両者が相互浸透しているという部分と、歴然とその三つの部分があるから、『資本論』で人類の歴史を〈自然史〉的に扱っている部分、つまり、先ほど高橋さんのことばでいえば産業主義的に扱っている部分は、決してマルクスのすべてだというふうに理解してないわけです。ぼくはあくまでも哲学としての〈自己疎外〉論というのが根柢にあって、そして市民社会の〈自然史〉的に扱える部分として、『資本論』で資本制社会の経済社会構成を扱っていると理解しています。

 ついでなので、吉本さんのいろいろな著作から経済学批判に当たる文章を拾い読みしていたら
「経済学はマルクス的と非マルクス的を問わず支配の補助学」
という文に出会った(『世紀末ニュースを解読する』)。前々回で吉本さんの「ケインズ的な(逆にいえばマル経的な)」という物言いに対して「わたくには意味不明」と書いたが、いまはそれが分かったように思う。たぶん、ケインズ経済学もマルクス経済学も「支配の補助学」となる陥穽に陥っているという意味ではないだろうか。

 さて、佐和隆光さんのような「お説教」が出てくる根源は「経済現象が自然史的な過程である」という認識が欠けている点にあるというのが、吉本さんの第一点目の批判だったが、第二点目の批判は自覚的にか無自覚にかを問わず「経済学=支配の補助学」となる危うさに向けられる。(次回へ)
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