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ミニ経済学史(35)

現在の経済学は?(14):ゲーム理論による制度分析(3)


労働者側の戦略
 企業が「日本型雇用慣行」をとるなら、労働者にとっては定年まで辞めずに企業特殊的熟練を身につけるように勤めることが最適な「テ」となる。また、企業が「成果主義、流動的雇用」をとっている場合は汎用的技能を身につけるのが最適な「テ」となる。
企業のとっている「テ」が「成果主義、流動的雇用」の場合、給料は業績主義で、中途採用もさかんにしていていつ解雇されるかわからないのだから、労働者としては企業特殊的技能など身につけても無駄になるかもしれないから、むしろどこでもやっていけるように汎用的技能を身につけることが最適な「テ」となる。

企業側の戦略
 逆に、労働者の側が定年まで辞めずに企業特殊的熟練を身につけるように勤めるという行動を選んでいて、しかも即戦力として利用可能な優秀な汎用的技能の持ち主が簡単に見つからなければ、企業としては自社内で企業特殊的熟練を養成するほかない。つまり、「日本型雇用慣行」をとることが最適の「テ」となる。また、かりに労働者がみな汎用的技能を身につける生き方を選んでいるのなら、企業としては、わざわざ自社内での熟練形成のためにコストをかける必要もないし、年功序列で優秀な若者の給料を抑えれば他社に逃げられる恐れがあるので、給料は成果主義にして優秀な技能保持者の中途採用もどんどん行うことになる。つまり「成果主義、流動的雇用」が最適な「テ」となる。

 ということで、雇用制度問題の利得表は次の図のようになり、二つのナッシュ均衡がある。
ゲーム理論3
 ひとたび右上の日本型がとられると、その後も日本型が持続し、左下のアメリカ型がとられるとアメリカ型が持続するということになる。ただし、上の利得表は2×2で表せるとうにするために、企業全体と労働者全体がそれぞれまとまって行動するという設定にして簡単化している。実際には企業も労働者も無数存在するのだから、それぞれ個々の行動を正確に考えようとすれば、2×2の表では表すことができない。こうした問題について、教科書⑦は次のような解説をしている(原文のまま引用する)。

 しかし、じつは企業どうし、労働者どうしの間で、「はだかの王様」のケース同様のゲームが成り立っていますので、個々の企業はまわりの企業と同じに振る舞うのが最適、個々の労働者はまわりの労働者と同じに振る舞うのが最適になっています。だから、企業みんなと労働者みんながそれぞれまとまって行動するように説明してよかったのです。

 どうして企業どうしや労働者どうしが「はだかの王様」と同様になるかというと、こういうことです。ほかの企業がみんな日本型雇用慣行をとって終身雇用を守っているのに、自分の企業だけ勝手に解雇したりしていたら、悪い評判が立って優秀な労働者がこなくなります。

 あるいは、自分のところだけが給料や出世を成果主義にしたらどうなると思いますか。まだ日本型雇用慣行が崩れていない頃、成果主義をとる外資系でよく見られていた現象をご存知ですか。成果を査定する上司に対するゴマスリが横行していました。上司も弱みにつけこんで部下にプライベートな用事もさせたりしてイバりまくる。

 そうしたらこんな現象を見て、やっぱり白人は有色人種を見下しているのだなどと、うがった見方をする人が必ず現れるのですが、これは白人だろうが何だろうが関係ない。こういう状況におかれたら誰でも必ずとるであろう合理的行動です。

 なぜアメリカ本社ではこんなことが起きないのか。起きたとしてもそこまでひどくならないのか。それは、ゴマスリばかりが優遇され本当に優秀な労働者が正当に評価されなければ、その人は転職するだろうからです。その結果として、公正な評価をする企業ほど優秀な人材が集まり、その企業は競争に勝って伸びていきます。

 ところがまわりの企業がみんな終身雇用制をとっていて、中途採用市場が未発達ならば、簡単に転職することはできません。しかも転職先が年功序列制ならば、給料は入社時点の低いレベルから始まります。これがわかっている以上は、どんな不公正な評価をされても辞めてしまうことができません。その足下を見て上司がゴマスリを強要することになるわけです。こんなことになったら、企業の本当の業績にとっては困ったことです。

 そういうわけですから、まわりの企業がみんな日本型雇用慣行をとっていたら、個々の企業にとっては自分も日本型雇用慣行をとるのが最適になる。まわりの企業がみなアメリカ的な雇用慣行をとっていたら、個々の企業にとっては自分もアメリカ的な雇用慣行をとるのが最適になる。日系だろうがアメリカ系だろうがそうするのが最適だということになります。

 労働者も同様です。まわりの労働者がみな汎用的技能を身につけているときに、自分だけ企業特殊的熟練を身につけようとしても、企業からは「あなたは何かできるのですか」と言われるだけです。最初から相手にされないでしょう。逆に、まわりの労働者がみな企業特殊的熟練を身につけているときには、雇用制度もそれに合わせて日本型雇用慣行になっているはずですから、汎用的技能を身につけても、最初から技能を待遇に反映してくれないので損です。

 かくして、これらが全部合わさって、最初に日本型雇用慣行がとられ、労働者が途中で辞めずに企業特殊的熟練をつちかっていたならば、個々の企業も労働者もそれを続ける行動をみずから選ぶ。最初に成果主義や流動的雇用制度がとられ、労働者が汎用的技能をみがいていたならば、個々の企業も労働者もそれを続ける行動をみずから選ぶ。こういうことになります。

 「日本型」とか「アメリカ型」とか言うと、ついついそれぞれが日本人やアメリカ人の国民性に根ざしたもののように思いますが、そうではなかったのです。人間誰でも同じだったのであり、日本人だろうがアメリカ人だろうが、まわりが「日本型」なら「日本型」に振る舞い、まわりが「アメリカ型」なら「アメリカ型」に振る舞うのが最適になるのです。

 たまたま日本では、戦時体制下で非常事態だからということで終身雇用制や年功序列制が主要企業でいっせいに導入されられました。そのため、いったんそうなると、戦争が終わっても、もはや元には戻れなくなったのです。「日本型」とされる雇用慣行は、文化でも伝統でも国民性でも何でもなくて、そういうたまたま強いられた非常措置が最初のきっかけとなって実現したナッシュ均衡だったのです。

 さて、ゲーム理論による制度分析によれば、日本型企業制度もアメリカ型企業制度もナッシュ均衡である、つまりどちらの制度にも合理的理由があったということになった。しかし、いま日本では日本型制度が大きく崩れつつある。その理由は何なのだろうか。教科書⑦は次のような理由を挙げている。

 このようなゲーム理論を使った日本型企業制度の分析は、最初の頃は、日本には日本の制度があって、アメリカにはアメリカの制度があっていいのだ、それぞれ同じ条件の中でナッシュ均衡として成り立ちうるバリエーションの一つなのだという意味を込めて、日本型制度を擁護する問題意識で始められたように思います。

 ところがそれが近年になりますと、むしろ逆に、日本型制度がどうしても崩れてしまうことの根拠として議論されるようになりました。いわゆるIT革命やロボット技術の進展によって、企業特殊的熟練が昔と比べて不要になっていることが一つの理由です。

 今では、1000分の1ミリの誤差もない匠の技のロボットだとか、人件費ゼロの工場などが出現し、かつては熟練を必要とした事務仕事も次々と自動化されています。企業特殊的熟練を労働者に形成させることが日本型雇用慣行のそもそもの存在理由でしたから、それが今までのようには要らなくなると、日本型雇用慣行が適用される人々も少なくなって当然です。

 また、人口減少時代を迎え、かつてのような高度成長が不可能になったことも日本型制度が崩れる理由にあげられています。年功序列制で誰でも時間が経てば数人の部下を持つ上司になれるのは、下の年代ほど数が多いからこそであって、人口の増加や企業規模の成長を前提しています。人口減少や低成長の時代がきたことは、これらの前提条件を崩しているのです。

 そうすると、日本型企業制度は、もはやナッシュ均衡ではなくなることになります。

 つまり、 「経済や技術や生活上の条件が変化すれば、ナッシュ均衡のいくつかが消えてなくなってしまう」
と言っている。これは
「土台(あるいは下部構造)が変われば、それに応じて上部構造も変わる」
というマルクスの唯物史観にほかならない。ここで『新古典派の時代(1):「労働力の包摂」から見た時代の変化』において、大内力著『国家独占資本主義・破綻の構造』(教科書①)に依拠しながら資本主義変遷をたどったことを思い出した。大内力氏はマルクス経済学者であり、当然のことながら、その変遷史には唯物史観が貫かれていた。

 以上のように、現在の主流派経済学がマルクスの理論と合流してきた状況について、松尾さんは「現代は壮大な総合の時代」だとし、次のように述べている(教科書④より引用)。
フリードマンやルーカスが切り開いた世界に、ヒックスやパティンキンも、ケインズも、マーャルもワルラスも、リカードやマルクスも、シュンペーターも、みんな流れ込んできている予感があります。現にある世界は一つなのであり、路頭に迷う失業者や、飢えに苦しむ人が、立場によって現れたり消えてなくなったりするはずがありません。それを把握するための経済学が二つも三つもあってたまるものかと思います。粋がって相対主義的なもの言いをしていれば済んだ時代はもう終わりです。学説の違いなんてものはそもそも、論理と事実に照らしていずれは決着がつくものであるか、さもなくば、同じ事実を見たときの価値評価の違いにほかならないはずです。

 でも、真理はある。“大統一理論"を待っている ― そう思います。以前の総合は、マルクスとかマーシャルとかの大天才の独力の所産でしたが、いま進行している総合は、そうと自覚しているかどうかはともかく、世界中の多くの経済学者の共同作業としてなされています。私のような凡才でも、それに少し貢献できるかもしれない。そう思うと心躍る時代です。

 全ての経済学者が、いや経済学者に限らず全ての学者が、いや全ての知識人たちが現状を追認するだけの権力の「犬」ではなく、あらゆる人々が「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保証され、「路頭に迷う失業者や、飢えに苦しむ人」を無くすという高邁な目的意識を持つようになれば、こんなすばらしいことはない。しかし私は、松尾さんの希望表明にもかかわらず、それはほとんど不可能なこととしか思えない。情けないほどの人間不信に自分でも情けなくなるが、私は支配階級と支配階級に取り込まれている知識人たちを全く信頼することが出来ない。
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哀誄について
哀誄という言葉をネットで調べていたところ、第1148回を偶然読ませていただき、意味がわかりました。
今、高橋和巳の「憂鬱なる党派という小説を読んでおりまして、その第三章にこの言葉が出てきました。
ありがとうございます。その一節を抜き書きします。
(前略)彼が哀誄の文を捧げた三十六人の人々は、土地柄こそ違え、今眼の前で騒いでいる人々と同じ<庶民>だった。
2014/04/04(金) 09:37 | URL | ドーバー #-[ 編集]
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