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ミニ経済学史(33)

現在の経済学は?(12):ゲーム理論による制度分析(1)


 ところで、一般にマルクスの疎外論を論じている論考は『経済学・哲学草稿』の「第一草稿 4.疎外された労働」を下敷きにしているようだが、松尾さんは『ドイツ・イデオロギー』を用いている。『ドイツ・イデオロギー』では疎外の原因を「分業」と表現していると言う。直接の引用文がないので、それらしいくだりを抜き書きしてみた(古在由重訳の岩波文庫版から)。

「分業は、物質的労働と精神的労働との分割があらわれる瞬間から、はじめて現実的に分業となる。この瞬間から意識は、現存する実践の意識とはなにか別なものであるかのように、またなにか現実的なものを表象もしないのに現実的になにかを表象するかのように、現実的に想像しうるようになる。」
「社会的な力は、すなわち分業のために制約された協働(種々な個人の)によって発生するところの倍化された生産力は、この協働そのものが自由意志的ではなく自然成長的であるため、これら個人にはかれら自身の結合された力としてはあらわれずに、かれらのそとにたつよそよそしい強力としてあらわれる。」

 これを松尾さんは次のように解読している。

 言っている意味は、固定的役割に閉じ込められて、互いにばらばらで理解不可能になっているということです。すなわち、こうした分業においては、みんなお互い依存関係にあるにもかかわらず十分な情報交流ができない。これが疎外の原因だというのです。

 つまり、社会全体の依存関係が各自の話し合いで合意をつけてコントロールできるならば、疎外など起こらないのです。社会関係を動かすための取り決めは、各自みんなの都合に合わせて作られ、都合に合わなくなったらいつでも取り替えられることになります。  ところがそれが話しあって合意をつけることができない状況になったときはどうなるか。各自が納得しているわけでもない取り決めや慣習や一部の人の判断などが、各自の都合からズレてしまっていたとしても、社会的依存関係に背を向けては生きていけませんから、しかたなくそれに従わざるをえない。こうして疎外が起こるのだというわけです。

 さあ、どこかで聞いた話ですよね。そうです。「はだかの王様」の論理です。「王様はすばらしい着物をお召しだ」という「思い込み」が、各自の目に映る自然な実感から離れてひとり立ちし、各自は自分を抑えつけてその思い込みに従うのですから、これは典型的な疎外です。「王様がはだかに見える」という各自の状況を、みんなが正直に情報交流できたならば、こんなことにはならないのです。各自の置かれた状況を正直に情報交流できない状態になっているから、へんな「思い込み」がひとり歩きしてみんなを縛ってしまうのです。

 よって、ここでマルクスやエングルスが到達した認識は、次のようにまとめることができます。

マルクス疎外論の公式  疎外は次の二条件が重なったときに必ず、またそのときにのみ発生する。 (1)
 各自が社会的依存関係の中に結ばれあって生きているとき。 (2)
 にもかかわらず、依存関係の中にある各自の間で、十分に情報交流しあえないとき。


 「決まりごと」や「思い込み」「慣習」などをとりあえず立てて目の前のわがままな欲望を抑えてがんばることは、みんなのくらしのために役立つならばいいことなのです。ところが、今までの「決まりごと」や「思い込み」「慣習」などが人々の都合に合わなくなっても、みんなでしめしあわせることができなければ、それをやめることができなくなります。ここに疎外が続く原因があるわけです。

 松尾さんは上の「マルクス疎外論の公式」を「ばらばら+依存関係=疎外」と表現している。

 「均衡は複数あり得る」という複数均衡論は新しい古典派経済学の数学技術の発展によってもたらされた。その中でも「ゲーム理論」と呼ばれる数学手法が大きな役割を果たしている。ゲーム理論は、主にアメリカのナッシユという数学者が考え出した理論で、「お互いに影響しあう複数の個人の間の意思決定」の仕組みを分析する理論である。図書館でゲーム理論を取り上げているミクロ経済学の本を調べてみたら、どれも「囚人のジレンマ」という例から説き始めている。ネット検索をしてみたら「囚人のジレンマ」の解説記事が山ほどあったが、ここではあくまでも教科書⑦を頼りに学習していくことにする。

 松尾さんは「非常に単純な例を一つ」ということで「彼と彼女の地震ゲーム」から説き始めている。登場人物は「彼」と「彼女」という若いカップルである。

「彼と彼女の地震ゲーム」その1

 彼と彼女が、各自自宅にいたとき、大きな地震が起きた。二人は安否を確かめ合い、一緒にいたいと強く思った。しかし、電話は不通になった(まだ携帯電話のない時代とする)。ここで二人がとるべき行動は相手の自宅に出かけること(以下「出かける」と略記)と、自分の自宅で相手が来るのを待つこと(「留まる」と略記)の二つに一つだ。さあ、二人は互いに、出かけるべきか、留まるべきか、どちらを選ぶべきだろうか。次の図表はこの状況を簡単な表にしたものである。
「彼と彼女の地震ゲーム」その1
 表の欄内に、各自の損得(最善・次善・次悪・最悪)の状態が書いてある。二人の打つ「テ」をゲーム理論では「戦略」といい、上の図のように各自の利得がどのようになるかを表した表を「利得表」と言う。上の利得表の意味は次のようである。

《左上》彼が出かけ、彼女も出かけた場合
 互いに行き違いで会えず、しかも電車も車も通れない中歩いていって疲れるので、二人とも「最悪」になる。

《右上》彼が出かけ、彼女が留まった場合
 会うことができるので二人とってはよい結果となるが、彼女は待つだけで疲れない分利得は「最善」となり、彼は歩いて疲れる分少し劣る利得「次善」になる。

《左下》彼が留まり、彼女が出かけた場合
 上の場合と逆で、彼の利得は「最善」で、彼女の利得「次善」になる。

《右下》彼も彼女も留まった場合
 会えないので二人とっては悲しい結果となる。ただし肉体的に疲れない分、出かけたあげく会えないよりはましなで、利得は二人とも「次悪」になる。

 このとき、図表の網かけの欄(《右上》と《左下》)に着目すると、次のようなことが言える。  例えば、いったん《右上》「彼:出かける/彼女:留まる」という状態になったとすると、彼女にとっては彼が出かけるかぎり、自分は出かけるよりは留まるほうがいい。また、彼にとっても彼女が留まるかぎり、自分は留まるよりは出かけるほうがいいことになる。もう一つの《左下》「彼:留まる/彼女:出かける」という状態の場合も同様である。つまりこのような場合、二人とも自分だけこの状態の戦略と違う戦略をとつてもメリットがないので、この状態が持続することになる。

 このように、ある状態における各自の戦略を、他者がとりつづけるかぎり自分もとるのが最適という状態に、お互いみんながなっているとき、こうした状態のことを「ナッシュ均衡」と言う。すなわち、ナッシュ均衡というのは、人々の行動の落ち着き先で、誰もそこから抜け出そうとしない安定的な秩序を示している。

 ミクロ経済学では「パレート最適」という概念も重要なキーワードになっている。現状以上に誰かの利得を増やそうとすると別の誰かが犠牲になってしまうという意味で、もうこれ以上全員がよくなれない状態のことである。上に述べた二つのナッシュ均衡は、二つとも「パレート最適」ということになる。

 これに対して《左上》(二人とも「最悪」)と《右下》(二人とも「次悪」)の場合は、二人のとる「テ」を変えれば、二人ともよりましな状況を得ることになる。このような、犠牲者を出すことなく誰かをもっとよくすることができる状態を「パレート非効率」と言う。

 また、パレート非効率な状態からパレート最適な状態に向けて変化すること、つまり、誰も他人を犠牲にすることなく誰かの境遇を改善することを「パレート改善」と言う。そして、二つの状態を比べたとき、誰の利得も小さくなく誰かの利得が大きくなっている方の状態を「パレート優位」と言い、他方の状態を「パレート劣位」と言う。

 なお、上の例ではナッシュ均衡が同時にパレート最適にもなっているが、両者が一致しない場合ももちろんある。例えば軍拡競争。相手が軍拡するかぎり自分も軍拡しないと互いに不利な状態になるから、お互い軍拡を止められないナッシュ均衡となる。しかし、両者ともに軍拡をやめれば両者ともにもっと利を得るはずだから、この場合のナッシュ均衡はパレート非効率な状態ということになる。

 ところで、今例にしているケースでは、ナッシュ均衡が二つあり、しかもそれらだけがパレート最適なのだから、二人とも是非ともこのいずれかを実現したいと考えるだろう。ではどちらを選ぶべきか。これだけの条件からは何の判断もできない。二人とも「次悪」あるいは二人とも「最悪」というパレート非効率な状態になってしまう可能性を避ける手立てはない。

 さて、ここでかりに、「女は黙って待っているもの」というような観念が世間に流布していたとする。このような観念には何ら合理的根拠はないのだが、いったん歴史的にそれが世間一般に信じられているとするとどうなるだろうか。彼は、自分ではこんな観念はバカバカしいと思っていても、彼女がこれに従って待っているかもと思うと「出かける」ほかなくなる。彼女の方でも、自分ではこんな観念はバカバカしいと思っていても、彼がこれに従ってやってくるかもと思うと「留まる」ほかなくなる。かくして、二人とも、そんな観念はまともに信じていないとしても、互いがそれに従うかもと思って、結局その観念の示すとおりに行動することになる。つまり、二つありうるナッシュ均衡のうち《右上》「彼:出かける/彼女:留まる」が実現されることになる。そしてそのおかげで、互いに行き違ったり、互いに待つたままになったりするパレート非効率な状態が防がれることになる。

 二人はばらばらで連絡がとれないにもかかわらず、一緒にいたいという相互依存関係にある。連絡をとりあえれば、二人とも納得する方法が合意できたはずだが、連絡を取り合う手段がなかった。まさに「ばらばら十依存関係=疎外」状況だった。それ故、二人とも受け入れるつもりのない「女は黙って待っているもの」という観念に縛られることになった。このように、ある条件のもとでは、「女は黙って待っているもの」というような合理的根拠のない社会通念が人と人の間の社会秩序を担う役割を果たすこともあり得る。
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