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ミニ経済学史(32)

現在の経済学は?(11):主流派経済学の最先端(2)


 『均衡が複数あり得る』という命題について、松尾さんは学会の定説ではなく自分なりのまとめ方であるとことわり、次のように議論を続けている。

 人々の間でのいろいろな予想の分布が、現実に当たった程度に応じて進化論的に増減していったとき、最終的に生物進化論で言う『進化的に安定な均衡』に落ち着いたならば、それが合理的期待が成り立つ状態になったということである。その状態になったときにでも、『突然変異』とか環境の確率的な変動とかが起こって動揺し続けるけれども、長い目で見たら平均的に、その『進化的に安定な均衡』が維持され、予想が平均的に見て現実とつじつまが合うことになる。

 この考え方はマルクスの経済分析方法とつながっている。マルクスは、資本主義経済の長期的な再生産構造を分析するときには、リカード達と同じ『セイ法則』の均衡モデルで分析した。しかし、短期的に見たときには、それがそのまま当てはまることは一瞬としてなく、常に不均衡的動揺の中にあるとみなした。この動揺を長い目で平均してみたら、古典派の均衡体系が当てはまるということだった。『均衡が複数あり得る』はこのマルクスの理屈の組み立てと同じだと見なしてよいのではないか。

 さらに続けて、松尾さんは『ゲーム理論による制度分析は、マルクスの疎外論と同じ』あるいは『制度均衡が移行するダイナミックスは「唯物史観に当たる』と言う。そういえば、松尾さんはマルクスの今日的意義を次のように評価していた。(詳しくは「K.マルクス(2)・マルクスの今日的意義」を参照してください。)

『マルクスが提出してきた諸理論は理論的に完成していない。特に経済学についてはそうである。「資本論」で主に分析されているのは、長期均衡体系で、短期的な不均衡の分析は本格的には手がけられていなかった。ましてや、両者の間の関係の分析など、全然手つかずである。そしてその問題はその後も誰もやっていない。長期均衡体系を数学的に厳密に分析した研究や短期不均衡的体系を数学的に厳密に分析した研究はたくさんあるが、短期的な不均衡の動揺を長期的に平均したら、長期均衡体系が設定できるといったことを、数学モデルで厳密に説明することは、おそらくまだ誰もやっていないようだ。でもこれができない限り、マルクスの経済学の現代化は完成しない。』

 もしかすると、松尾さんはこの課題を念頭に置いて論述を進めているのかもしれないと思った。そこで、現在の経済学とマルクス経済学の結合は大変興味深い問題なので、『「はだかの王様」の経済学 現代人のためのマルクス入門』を教科書⑦として、松尾さんが考えていることの一端を学習することにした。まず、教科書④から抄出した上記の松尾さんの問題意識が教科書⑦の序文に分かり易く書かれているので、それを読んでおくことにする。

 松尾さんは、日本の労働者が置かれている過酷な現状を指摘し、それをイザナミ景気につなげて、次のように述べている。
 2007年までの景気回復は、企業の設備投資と輸出の拡大に主導されて起こっていたことでした。家計最終消費支出はほとんど伸びていません。小売販売額は執筆時点で人手できる最新データ(2007年6月)まで、何と減少しつづけています。つまり、景気回復だとか言って、私たちはたくさん働くようになったのですが、消費財の生産は増えていない。結局、増えた分の労働は、自分の身に返ってくる財を作っているわけでは全然なく、設備投資する企業のために機械や工場を作ってあげるのに働いていることになるわけですね。

 あるいは増えた労働の一部は、輸出品を作るために働いていることになります。しかもそれを輸出した見返りで消費財を輸入して私たちのくらしのために戻ってくるならいいのですけど、そうじゃないですよね。輸出しっぱなしの分があるから景気回復しているわけです。その分稼いだ外貨は外国債で運用しますから、結局、もともとその分の労働というのは、外国債をため込むために働いていることになります。まあこの外国債も、使い先をたどればイラク戦費に使われたりしているわけですから、象徴的に乱暴な言い方をすれば、私たちは増えた労働で一生懸命鉄砲を作っているとも言えるわけですね。

 機械や工場にしても、本来どれだけ必要なのでしょうか。昔の高度成長期なら、人口が増えていたこともありますし、将来の消費の成長のために現在の消費を抑えて、機械や工場を作るために世の中の労働を比較的多くまわすというのは、理にかなったことだったと思います。でももうそんな時代ではないでしょう。

 人口が増えず、みんなを豊かにできる生産力は十分あるのに、以前と変わらぬ割合の労働を一生懸命まわしてまで設備投資をする必要はないはずです。本来私たちは、豊かで楽しいくらしをするために働いているはずです。機械や工場は元来そのための手段にすぎなかったはずです。鉄砲に至っては、その手段ですらなかったはずです。

 ところが今は、そんなものを膨らませることがいつのまにか自己目的になってしまって、人間のくらしがその手段として犠牲にさせられているのです。今後このまま景気が拡大していったならば、あいかわらず生身の人間のほうはしんどいしんどいとハアハア言ってこき使われる一方で、工場も、オフィスも、私たちの自由にコントロールできないものばかりが、ますます立派になって膨張していくでしょう。

 しかしこれは、これでもまだ「よいシナリオ」なのです。私たちのくらしを豊かにする手段にすぎなかったはずの設備投資が、本来私たちのくらしを維持するに、ほどほど十分な程度にしかなされなくなったならばどうなるでしょうか。今度はモノが売れなくなって、クビ切り吹き荒れ、多くの若者に就職のあてがない、失業者蔓延のあの恐ろしい不況時代に舞い戻ってしまうのです。

 だから、一方に低賃金でこき使われる下層の大衆がいて、他方にそのおかげで楽してぜいたくする上流階級がいるという絵に描いたような格差社会だったら、そのほうがまだ人間的でかわいいのです。ネットカフェで夜露をしのぐ若者も、午前帰宅続きで過労死寸前の正社員も、私たちはみな、人間ではないもののために奉仕しているのです。私たちが奉仕している相手は、物理的物体ですらありません。間違いなく人間が作りだしたもののはずなのに、しかし、誰も合意しておらず、誰の陰謀でもなく、いっさいの人間のコントロールを離れて勝手に運動し続ける「法則」というもののために奉仕しているのです。

 この世にはこれと同じようなことがいっぱい見られます。本当は人間の頭の中にしかないものが、あたかも神通力を持つ生き物のように勝手に動きだして、生身の人間をひれ伏させ、犠牲にしてしまう。なぜこんなことが起こるのでしょうか。

 この本で、私はそれをたった一つの簡単な図式で、全部説明してしまおうと思っています。じつはこの図式は、かつて19世紀に資本主義経済を批判的に分析した、マルクスが使っていた図式にほかなりません。マルクスはこれまで、崇拝者からも批判者からも誤解されてきましたが、本当に彼が言いたかったことは、じつにわかりやすい単純な図式なのだというのが、この本での私の主張です。

 さらに、これまでマルクス経済学と対立してきた、主流派の経済学も、じつは今たどりついているのはこの同じ図式なのです。ゲーム理論を使った制度分析がそれです。だからこの本は、現代の主流派経済学の最先端がやっていることの簡単な解説書にもなっています。

 「本当は人間の頭の中にしかないものが、あたかも神通力を持つ生き物のように勝手に動きだして、生身の人間をひれ伏させ、犠牲にしてしまう」状況がいわゆる「疎外」である。そして、ここで言う「本当は人間の頭の中にしかないもの」とは吉本隆明さんの提出した概念で言うと「共同幻想」に他ならない。松尾さんは「疎外」という概念を次のように解説しているが、この文中では共同幻想を『「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々』と表現している。


 そもそも、「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といったことは、どこにも物理的実体がない。生物的実体もどこにもない。ただ人間が頭の中で作りだした、人間の頭の中にだけあることにすぎません。

 それなのに、これらの事どもは、いったんでき上がると、それを作りだした生身の人間を勝手に離れてひとり立ちしてしまいます。そして、どこかにあたかも物理的実体があるかのように見なされるようになります。さらにはいつの間にか主人面をして、もともとそれを作りだした生身の人間を縛りつけてきます。ついには生身の人間たちを血なまぐさくいけにえに捧げるよう命令しだすわけです。

 しかしもともと「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といったことは、生身の人間ひとりひとりの生活の都合のために作りだされたものではなかったでしょうか。だとしたら、これらの事どもが生身の人間の都合を離れて勝手に自立して、逆にみずからの都合に合わせて生身の個々人を振り回すのは本末転倒ではないですか。

 このように、「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といった頭の中の観念が人間から勝手に離れてひとり立ちし、生身の人間を縛りつけて個々人の血の通ったくらしの都合を犠牲にしてしまうことを、フォイェルバッハや青年マルクスの用語で「疎外」と言います。

 ところで、教科書⑦の書名の中に「はだかの王様」が使われているが、これを題名としたアンデルセンの童話が寓意することが疎外に他ならないからだ。この童話のあらすじを知らない人はたぶんいないと思うが、教科書⑦では「はだかの王様」は疎外の比喩語として頻繁に使われているので、一応松尾さんによるあらすじを紹介しておく。
「はだかの王様」
 むかしむかし、わがままで見栄っ張りの王様がいました。

 ある日王様のお城に詐欺師がやってきて、それはそれはすばらしい服を持ってきたので売りたいと言いました。ただしその服は愚か者の目には見えないと言うのです。そうして詐欺師が何もないのに服をとりだして見せるふりをすると、王様も居並ぶ家来たちもみんな口々に、これまで見たこともないすばらしい服だとほめました。誰も服など見えなかったのですが、見えないと言ったら自分が愚か者と思われると考えて、まわりに合わせて、うそをついていたのです。

 詐欺師が王様にその服を着てみることをすすめると、家来たちはみなこぞって、それはすばらしいと言います。その気になってはだかになった王様に、詐欺師が服を着せるふりをすると、家来たちはますます大げさに、よくお似合いになりますとほめそやします。王様はたいそう喜んで、詐欺師に大金をあげました。


 王様はそんなにすばらしいそんなに似合う服ならば、国民に見せびらかせたいと思い、パレードをしようと思いつくと、家来たちはみんな、それはいいアイデアだと大賛成しました。そこで王様はそのすばらしい服を着て町中をパレードしました。

 本当は何も着ていない、はだかなのに、集まったたくさんの人々は、みんな口々にすばらしい服だとほめました。誰も服など見えていなかったのに、見えないと言ったら自分が愚か者と思われると考えて、まわりに合わせて、うそをついていたのです。そんなふうにほめる声を次々と聞いて王様はたいそう得意になりました。

 ところが道ばたでパレードを見ていた一人の子どもが、突然不思議そうに、「王様ははだかだよ!」と叫びました。集まっていた人々は一瞬静まり、そして「本当だ、王様ははだかだ」というざわめきが広がっていったと思うと、やがて町中の大笑いへと変わっていきました。

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この記事へのコメント
神の手の産物かIT社会の妖怪か?
「人間の頭の中にしかないものが、あたかも神通力を持つ”物理的実体”のように勝手に動きだして、生身の人間をひれ伏させ、犠牲にする」
「ビットコイン」騒動?を見ていると頷いてしまいますね。
ビットコインは「見えざる神の手」の産物として今後人間世界に君臨していくのか、はたまた、IT社会が産んだ「一匹の妖怪」として退治されてしまうのか、ITにも金融工学にも”疎外”されている私には一向にわかりません。
どうなんでしょうね。
2014/03/14(金) 09:49 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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