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ミニ経済学史(31)

現在の経済学は?(10):主流派経済学の最先端(1)


(生半可な知識の弊害をつくづく思い知らされました。アプリケーションのインストールと旧パソコンからのデータ復元に悪戦苦闘。とうとう1ヶ月もかかってしまった。特に旧パソコンで愛用していたアプリケーションソフトが新パソコンにインストールできないのにはまいりました。そのソフトでためてきた膨大なデータは追々復元することにして、とりあえずブログを再開します。)

 教科書④にもどろう。まずは復習から。

 現在の主流派経済学(新しいケイジアン派)の理論は
① 価格・賃金の伸縮性
② 「合理的期待の想定」+「流動性選好」
③ ミクロ的基礎付け

を前提としている。つまり、新しい古典派の三つの前提(①~③)の②に「流動性選好」というケインジアン派の前提を加えて理論を構成しているということだった。(詳しくは「現在の経済学は?(2)」を参照してください。)

 「合理的期待」とは
「人々はすべての情報を把握して合理的選択を行う」
という仮説である。この仮説は「完全予見」とも呼ばれている。このような仮説を組み込む理由は
「理論をわかりやすく単純化して本質を取り出すため」
というように説明されている。リフレ策理論は「インフレ予想」とか「デフレ予想」とかいう「合理的期待」を仮説とした理論であった。この仮説のもとでの理論の骨格はおおよそ次のようである。

「ある予想が人々に共有されとるとき、その予想のもとで各自が自分にとって一番よいと考える行動をとれば、結局はその人々の行動の合成結果として、もともとの予想が自己実現する。」

 さて、教科書④はイザナミ景気でのリフレ策解説の後、主流派経済学の最先端で行われている研究の概説を行っている。以下、そのあらましを紹介する。(いろいろとわからない点や疑問点があるが、今はそれは置いて、全体像をつかむことに徹することにする。)

 上にまとめた「予想の自己実現」の図式は「反ケインズ革命」とほぼ同時に、かつ全く独立に起こったミクロ経済学での「ゲーム理論」の隆盛から始まり、今ではミクロ経済学やマクロ経済学だけではなく、経済学の周辺の社会科学のかなり広い領域にまで広がっていった(ゲーム理論については後に詳しく学習する予定です)。特に1990年代に入って、制度分析や組織分析に使われるようになる。つまり、主流派経済学の最先端はゲーム理論を用いて制度や慣習、あるいは倫理などの分析をするようになっている。 そうした研究の過程で
「条件が変われば制度が変わる必然性」
が議論されてきているという。「条件が変われば制度が変わる」とはどういうことか、詳しくは次のようである。

 ある条件のもとでは人々の行動予想とそれを受けた各自の最適行動がうまく噛み合っていても、条件が変わるとそれが噛み合なくなることもあり得る。つまり、他者がこう振る舞うと予想しても、予想した他者の行動とは別の行動をとったほうが有利だと考えて当初の予想通りの行動をとらなくなってしまうことが起こりえる。

 「条件が変われば制度が変わる」例として、松尾さんが挙げている例の中から、「完成品メーカーと部品の下請けメーカーの関係」を取り上げてみよう。

 かつては完成品メーカー(発注元メーカー)と部品の下請けメーカーの関係が固定していた時代があった。発注元メーカーにとっては、自社に都合のいい部品を安く作ってくれるところをその都度見つけ出すのは容易なことではない。そこで、自社向けに特化した設備を備えた下請けを確保して、ずっとそこから部品を買い続けようと考えた。一方、部品メーカーのほうから見ても、一番都合のいい販売先をその都度見つけ出すよりは、どこか特定の製品メーカーがずっと取引を続けてくれると確信できるかぎり、そのメーカー用の部品を供給し続ける方が得策だから、それ用に特化した設備を設備投資しよう、と考えた。このように、お互い相手が期待通 り振る舞ってくれるという前提のもとで、こっちが自分の都合のいいように振る舞うと、それがそもそも相手の期待していた振る舞いになるということで、つじつまが合って「発注元ー下請け」関係が維持されることになる。
 ところが近年は、コンピュータなどの情報技術が発達して、自社に都合のいい取引相手を探し出すのが以前より相当に簡単になってきた。ロボットも発達して、いろいろな種類のものを同じ設備を使って安く作れるようにもなってきた。このような条件のもとでは、発注元メーカーは、既存の取引相手に満足せず、もっと安く売ってくれるところをその都度探し出す方が有効になってくる。そうすると、既存の下請けにとっては、あとでいつ取引を切られるかもしれないし、あるいは、切るぞという脅しで無理難題を言われるかもしれないことになる。そういう事態を考慮すれば、いざというときになって後戻りできないような、特定発注元用に特化した設備への投資はリスクが大きいことになる。むしろ、どんな完成品メーカーからの注文でも応じられるような、ロボットのような融通の利く設備を導入して、条件のいいところをその都度探して取引することになる。部品メーカーがみなこのような方針だと予想されれば、発注元メーカーとしても、特定の下請けにこだわる必要はなくなる。他のメーカーの下請けだったところも含めて、一番都合のいいところをますます選べるようになていく。つまり、固定的な取引関係の慣習は崩れることになる。

 この例のように、一見、いまの制度の存在が合理的なものだと見えながら、実は、条件が変わればいまの制度がなくなってしまう必然性があることになる。

 こうしたゲーム理論による制度論の議論が経済学でも行われている。「反ケインズ革命」で始まった現代的なマクロ経済学と「ゲーム理論革命」で書き換えられた現代的なミクロ経済学は、ほぼ同時にかつ全く独立して始まったのだが、行き着いた経済観は共通のものとなった。その共通の到達点は『均衡が複数あり得る』ということだ。新しい古典派も(元の)ケインジアン派も「均衡は唯一」であることを原則としていた。その根底にあった仮定の一つが「合理的期待」であった。しかし、「均衡は複数」という新たな知見は決して「合理的期待」という仮定を否定するものではないと、松尾さんは言う。松尾さんが考える「合理的期待」の真意は次のようである。

 いま、「行動経済学」や「心理経済学」とかいう分野が生まれて、実験やアンケート調査などの手法を使って、現実の人間の意思決定を分析する研究が進んでいる。その研究の結果、人間というものは、自分が一番有利になるように合理的に考えた結果出た答えと違う選択をすることもある。しかも、傾向的法則的な偏り方のある選択をするということがわかった。また、神のごとき万能の合理性をもった仮定的人間ではなく、もっと現実的な、限られた範囲での合理性を前提する研究も進んでいる。これらの研究に対しては、主流派経済学を乗り越えた方法論だという期待を寄せる人もいるが、基本的にはそうではない。合理的選択の仮定自体が、議論をわかりやすく単純化して、本質を取り出すための工夫だったのであって、「行動経済学」などが見つけ出してきた知見は、それに肉付けをして、現実に近づけるものにほかならない。むしろ主流経済学を補完するものなのだ。ところが、どんなにがんばっても、合理的選択論では説明できないものがある。それは、他者の行動についての予想である。

 合理的期待で予想するというは、その時点で得られる情報をできるだけ使って、平均的に当たるように予想するということだけであって、そういう予想のうち、つじつまの合うものが複数あったときに、どれを選ぶかということ自体が合理的期待で説明がつくわけではない。合理的期待が使えるのは、いまの制度や慣習で期待される行動を、将来もみんなおおむねとり続ける場合とか、おおむねいまの調子でデフレが持続する場合とか、おおむねいまの調子で資産価格が上がり続ける場合とか、……などなど、要するに、ほぼいまと変わらない運動が将来も続くときに限られることになる。だから、バブルが崩壊するプロセスとか、不況から脱却するプロセスとか、革命が起こるプロセスとか……などなど、予想が切り替わる時には「合理的期待」は使えない。つまり、合理的期待モデルは、人間のそのときどきの錯誤などとは無関係な長い目でみた本質を見いだす時に有用な概念である。長期にわたって予想が一定で現実と一致しているのに、それでもなお不況に落ち込む事態に直面して、そこで初めて「流動性選好」という本質的原因が見出せたのだった。
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祝PC復旧!祝ブログ再開!
引き続き精力的な論考の展開、期待しております。
2014/03/05(水) 23:39 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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