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353 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(6)
『記・紀』の中の東鯷国
2005年8月6日(土)


 これから読む部分は「神武東征」(古田さんは「神武東侵」と呼んでいる。)の説話を 史実を反映したものとする古田さんの解読の結果が前提となる。「神武東侵」の論考は いずれ詳しく読むことになるが、いまはその解読の結果である初期の「ヤマト王権」成立 の経緯を簡単にまとめておく。

 奈良盆地に侵略したイワレヒコはその一画を占拠することに成功はしたが、それ以上の成果は なく、むしろ失意のうちに没する。とても「国家」といえたものではなく、やっと地方の 一小豪族として蟠踞したにすぎなかった。
 その後第2~9代までの王の時代は大和盆地外への勢力拡大はできなかった。初期八代に ついての「記・紀」の記事が貧弱なのはそのためである。(記事らしい記事がないことを 理由に初期九代(イワレヒコも含めて)を「架空のおはなし」とみなすのがこれまでの 「定説」だ。)
 第10代(崇神)・11代(垂仁)の時代になって、大和盆地外への侵出戦争を開始し、 勢力拡大に成功した。銅鐸圏、すなわち東鯷国の中枢部を打倒し、その遺産を簒奪した のである。
 それに次ぐ第12代(景行)の拡大・安定期を経て、ようやく天皇家は、王朝 (正確には、九州王朝の分王朝)としての資格と実質をそなえるにいたった。

 本題に入る前に、一度表にしておくと何かと便利なので、イワレヒコ(神武)から ホンタ(応神)までの和風呼び名と漢風諡号を掲載しておく。(「日本書記」による)


 1 カムヤマトイワレヒコ(神武ジンム)     ⇒一世紀末頃?
 2 カムヌナカワミミ(綏靖スイゼイ)
 3 シキツヒコタマテミ(安寧アンネイ)
 4 オホヤマトヒコスキトモ(懿徳イトク)
 5 ミマツホコカヱシネ(孝昭カウセウ)
 6 ヤマトタラヒコクニオシヒト(孝安カウアン)
 7 オホヤマトネコヒコフトニ(孝霊カウレイ)
 8 オホヤマトネコヒコクニクル(孝元カウグヱン)
 9 ワカヤマトネコヒコオオヒ(開化カイクワ)
10 ミマキイリビコイニヱ(崇神シウジン)
11 イクメイリビコイサチ(垂仁スイニン)
12 オホタラシヒコオシロワケ(景行ケイカウ)
13 ワカタラシヒコ(成務セイム)
14 タラシナカツヒコ(仲哀チウアイ)
15 オキナガタラシヒメ(神功ジングウ)
16 ホムタ(応神オウジン)            ⇒四世紀末頃?

 なお、古田さんの論証によれば、五世紀の倭国の中心(首都圏)は
いまだ筑紫にあったという。

 さて、古田さんは『記・紀』の中から「東鯷国」の存在を裏付ける記事を拾い出して、 次のように論じている。

 成務記および成務紀には、次の有名な記事がある。

(1) 故、建内宿禰を大臣と為し、大国・小国の国造を定め賜ひ、亦国国の堺、及び大県・ 小県の県主を定め賜ひき。(『古事記』成務記)
(2) 五年秋九月、諸国に令し、国郡を以て造長を立て、県邑に稲置を置く。並びに盾矛を 賜ひ、以て表と為す。則ち山河を隔てて国県を分ち、阡陌に随ひて以て邑里を定む。 (『日本書紀』成務紀)

 ここでは、「県」や「県主」といった行政単位や称号が、天皇家によって定められたこと がのべられている。すなわち、創設記事である。
 ところが記紀ともに、成務時代以前に、「県」や「県主」の記事は頻出する。

(a) 此の天皇、師木県主の祖、河俣毘売をして生める御子……。 (『古事記』綏靖記)
(b) 此の天皇、河俣毘売の兄、県主波延の女、阿久斗比売を娶して生める 御子……。(『古事記』安寧記)
(C) 此の天皇、旦波の大県主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して生める 御子…。(『古事記』開化記)
(d) 遂に菟田の下県に達す。(『日本書紀』神武紀)
(e) 此の両人は、菟田の県の魁帥なる者なり。(同右)

 創設記事以前に、これらの記事が遠慮なく出現する。これは一体どうしたことであろう か。矛盾だ。この矛盾に対して、本居宣長は苦悶した。ために『古事記伝』の中の成務記 において、長文を割いて弁じている。県に対する語解を種々試みた末、結局「県」とは「御 県の略」であって、〝天皇の直轄地″のこと、そのように彼は論じた。

 かゝれば県と云は、もと御上田より起れる名にて、又共に准へて、諸国にある、朝廷の 御料ふ地をも云フ、此に大県小県とあるは是なり。

 のごとくである。では、先の矛盾に対しては、いかに回答するか、いわく、

① さて国ノ造と云物を、此ノ時初めて定メ賜ふには非ず。是レより前にも有りつれど も、此ノ時に更に広く多く定め賜へりしなるべし。(『古事記伝』〕
② さて此に県主を定メ賜ふとあるも、初めて此ノ職を置れたりとには非ず、かの国ノ造 を定メ賜へると同じことなり。(同右)

 このように「定める」とは、「補修」の意で、「創設」に非ず、として一気に中央突破を 図ったのである。
 けれども、冷静に再検証すれば、この企図が暴断であったことは、直ちに判明しよう。な ぜなら、

 第一、『古事記』の他の個所では、「定め(賜ひ)き」とある場合、補修の意ではない。 また宣長も、そのように解していない。

  又木梨之軽太子の御名代と為て軽部を定め、大后の御名代と為て、刑部を定め…… (『古事記』允恭記)

 しかるに、ここだけ、こちらの都合で意味を改変するのは、不当だ。

 第二、もしこれが「補修記事」なら、創設記事がどこにもなく、いきなり補修記事という のは不可解だ。

 第三、「補修」ならば、この回にとどまらず、何回もあったであろう。しかるに、ここだ け補修記事というのでは、おかしい。

 以上だ。宣長の長広舌も、新たな矛盾の馬脚を次々と露呈しているのである。  では、真の回答は何か。


 宣長のつじつま合わせの理論はいただけない。真の答は、当然、次のようになるだろう。
 (1)(2)の記事は、当然創設記事だ。それも、天皇家による創設の記事なのである。
 (a)~(b)の記事の「県」や「県主」は、当然天皇家任命下のそれらではない。天皇家以前 の、あるいは天皇家以外の行政単位、また称号名である。「神武~開化」の頃は、 とても行政単位や、その長の称号名を独自に設けるほどの分際ではなかったのだから。

 最後に古田さんは、以上の論定を裏付けるものとして次の2点を挙げて締めくくっている。 いる。

(A)
 先にのべたように『古事記』のしめすところ「神武~開化間」は、大和盆地内の支配に とどまっていた。しかるに、右の(c)では、大和盆地外の豪族として「旦波の大県主」の名が ある。この称号が天皇家任命下の称号であるべき道理がない。
(B)
 『日本書紀』が語る「革命の論理」、「革命」前の覆された王朝には、行政単位も、その 長の称号名もない、そんなことが考えられようか。神武の前王朝の存在を自明とした 『書紀』の編者は、また天皇家以前の、また以外の、行政単位やその長の称号名の存在を 自明としていた。それゆえ、平然と成務紀に、天皇家による創設記事をおきえたのだ。 このように考えることが『書紀』という文献の事実に則すべき、唯一の見地ではあるまい か。

 以上によって、「神武即位」をもってわが国の建国記事と見なす歴史観、それが不当であ ること、わが国の歴史とは合致せざること、それが証明された。わたしにはそのように信ぜ られる。


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