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ミニ経済学史(13)

新古典派の時代(6)―A.マーシャル(3)・供給曲線、古典派と新古典派の総合

 需要曲線なんて本当に成り立つのか。もう解決済みだと言う松尾さんの断定にもかかわらず、私には大きな疑問が残っている。しかし、今は経済学史を通覧するすることが第一の目的なので、学説の当否については今は問わずに、先に進もう。今回はマーシャリアン・クロスのもう一つの曲線、供給曲線である。

 或る製品Sを供給している企業がA・B・C・D・Eの5社あるとする。製品Sを1個作るのにかかる費用は企業の生産性の違いにより当然異なってくる。次のグラフは縦の長さは生産物1個当たりにかかる費用であり、横の長さはその企業の生産量を表している。従って、長方形の面積は各企業が製品Sを生産するときの総費用を表している。例えばA社の場合、1個当たりのコスト10円で5000個生産で、総費用5万円となる。

供給曲線

 いま市場価格が100円だとする。図で縦軸の100という目盛りがそれを表している。この場合A・B・C社は利潤が得られるから製品Sを生産することになるが、D・E社は採算が合わないので製品Sの生産は見送るだろう。このときの総生産量は「5000+3000+2000」で1万個である。そして点線と各社の長方形の間の部分が利潤をを表している。この業界の総利潤(消費者余剰と対に使われるときは「生産者余剰」という)は「90×5000+80×3000+50×2000」で79万円となる。(ただし、生産費用の中にはあらかじめ利潤が組み込まれているので、この利潤は「超過利潤」と言うべきだと注解されている。)

 上の図はリカードの地代論のときの図と似ている。そこではC社に当る土地を「限界地」と呼んだ。これにならって、製品Sを生産をしている一番右のC社を
「限界生産者」
と言い、限界生産者の製品1個当たり費用のことを
「限界費用」
と呼んでいる。「限界」という理解を混乱させる用語にはこのような経緯があるそうだ。

 実際の社会ではある製品1個当たりの生産費が微妙に異なるいろいろな技術をもった企業が無数にあるから、それら全部で上のようなグラフを作れば、刻みが細かくなって前回のマーシャリアン・クロスの②のような曲線で近似できる。つまり、曲線②は「価格=限界費用」によって供給量が決まることを表している。

 さて、需要曲線と供給曲線の交点は需要量と供給量が一致する点であり、売れ残りも品不足もないバランスがとれたところ、つまり「均衡」したところということになる。これが価格と取引量が決まっていく市場メカニズムというわけである。そしてさらに、この市場均衡において
社会的余剰(消費者余剰+生産者余剰)
が最大になると言う。次のようである。

社会的余剰

 均衡点以外のどの価格のときの社会的余剰(下の図)と比べて、価格が均衡点のときの社会的余剰(上の図)が最大であることが一目瞭然である。

 以上がマーシャリアン・クロスについての解説の概略である。

古典派と新古典派の総合

 ところで、マーシャルは古典派と新古典派の論争に
「タイムスパンを短くとるほど新古典派の理論が成り立ち、長くとるほど古典派の理論が成り立つ」
という決着をつけたということだったが、最後にそれについての解説を読んでみよう。

短期

 次のような状況が続く期間が短期であるある。
 業界で活動している企業が別の部門に商売替えして出て行くこともなく、新しい参入業者もなく、さらに、機械や工場などの固定的な生産要素も増えも減りもしない。つまり、社会全体の供給量が一定である期間のことである。

 一番典型的な例として、朝の魚市場を挙げている。今朝獲ってきた魚はその日のうちに全部売りさばかなければならない。だから、市場での供給は今朝獲ってきた魚だけ。供給量はそれ以上でも以下でもない。このときの価格は競りによっていろいろと変化するが、供給が一定なのだから、供給曲線は横軸に垂直な直線となり、マーシャリアン・クロスは次のようになる。

短期での均衡

 この場合の供給曲線と需要曲線の交点での価格、つまり均衡価格は需要曲線の位置だけで決まることになる。つまり、価格は限界効用(需要者側の要因)だけで決まることになる。

長期

 次のようなタイムスパンのことである。
 工場や機械、さらに生産に使う労働力や原材料・燃料など、あらゆるものを自由に増やしたり減らしたり移動させたりできるタイムスパンである。もうからない部門から撤退して、もうかる部門に参入することも簡単にできる。このようなタイムスパンではマーシャル・クロスはどのようになるだろうか。

 標準的な企業家はみな、誰もが共通に利用できる技術的知識を持っているだろう。従って、機械や工場を自由に選べるタイムスパンでは、各業界の圧倒的多くの標準的工場では、その知識のもとで企業にとって最適になる共通の技術が採用されているはずだ。生産量の規模が例えば1万トン、2万トン、3万トン……と増えていくにつれて、機械も労働力も原材料も燃料も全部最適な割合でセットした工場が、1箇所、2箇所、3箇所……と、工場ごと増えていくことになる。すると、労働投入量も生産量に比例する。電力投入量も生産量に比例する。必要機器の使用台数も生産量に比例する。……などなど、投入物が全部生産量に比例するので、それらにかかる総費用は生産量に比例することになる。ということは、限界生産者も含めて、全企業の生産1単位当たりにかかる費用(正常利潤も含められている)は、その生産量にかかわらず、一定不変ということになる。つまり、限界費用が一定なのだから、供給曲線は横軸と平行な直線となる。従って、この場合のマーシャリアン・クロスは次のように表される。

長期での均衡

 これは均衡価格が、需要曲線がどんな位置にあるか関わりなく、供給側の要因(単位当たり生産費)だけで決まることを示している。これはスミス・リカードの自然価格、あるいはマルクスの生産価格と同じであり、言い方を変えれば古典派の価格論と同じである。この場合は生産者余剰はなくなる。つまり、超過利潤は消滅して、どこでも同じくらいもうかる正常利潤だけが得られることになる。

 しかし、この長期の場合の理論には例外がある。土地の肥沃度などに影響される農業、鉱山の埋蔵量などに影響される鉱業などでは、長期の供給曲線も水平にはならず右上がりになる。このようなケースは「規模に関して収穫逓減」と言われている。そして当然、均衡で生産者余剰が発生することになる。

付記
 新古典派の理論に対して私が持った疑問点を論じている本はないものかと図書館で物色していたら、川上則道著『マルクスに立ちミクロ経済学を知る』(2013年4月25日初版 新日本出版社)という著書に出合った。マルクス経済学者によるマーシャル理論批判である。今はまだざっと目を通したばかりだが、決して一方的な批判ではなく、現実の経済のあり方を踏まえた上での理路を尽くした批判だと判断した。私には「100年前で歴史が止まってたような」論争とは思えない。冒頭に記したように、学説の当否については今は問わないが、必要が出てきたらこの著書を利用させていただこうと思っている。

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